5-7 君の敵は僕の敵
その日の午後、ウォー・ルームに戻った岬を、エリオットが出迎えた。彼はオンラインミーティングを終え、いつもの司令官席に戻っていた。
「午前中の顛末は聞いたよ。見事な手際だったね、ミサキ」
岬は、午前中に起きたことを簡潔に報告した。水戸の個人情報の電波ジャックによる晒し上げから、地下室に閉じ込め、拘束するまでの全てを。
エリオットは、満足そうに頷くと、メインスクリーンに株価チャートを映し出した。
「会見の裏で、星霜フロンティア社の株価は面白いように暴落した。今日の取引終了を待たず、ストップ安まで売り込まれている」
チャートは、まさにナイフが突き刺さったかのように、垂直に赤い線を描いて落下していた。
「もちろん、僕の息がかかったファンドは、別の機関投資家を通じて、事前に大量の空売りを仕掛けておいた。この暴落のおかげで、莫大な利益を手にすることになる」
彼は、こともなげに言った。
「近いうちに、今の経営陣を総退陣に追い込む。株価が紙切れ同然になったところで、今度は、別のファンドが底値で株を買い集める。新しい経営陣を送り込んで会社を立て直し、株価が回復したところで売り抜ければ、さらに儲かるというわけさ。そして、膿を出し切った星霜フロンティア社は消滅し、別会社に生まれ変わる」
その言葉に、岬は何も答えなかった。
彼女にとって、星霜フロンティア社を利用して誰が儲けようと、あまり関心はなかった。水戸茂を社会的に公開処刑し、彼が拠り所にしていた組織が崩壊していく。その事実だけで十分だった。
「それで、水戸は今、例の地下室かい?」
エリオットが尋ねた。
「はい。当分、あそこで大人しく過ごしてもらいます」
「そうか」
エリオットは静かに立ち上がると、優しい笑みを岬に向けた。
「では、僕も彼に挨拶をしておこうかな。君の敵は、僕の敵でもあるからね」
地下室の重い鉄の扉が、軋む音もなく開かれた。
最初に姿を現したのは、エリオットだった。彼の後ろには岬、そして護衛役の屈強なSPが二人、影のように続いている。
「やあ、初めまして。ミスター・水戸。気分はどうだい?」
エリオットは、まるで旧知の友人にでも会ったかのように、流暢な日本語で穏やかに挨拶した。その声は、この殺風景なコンクリートの部屋には不釣り合いなほど、優雅に響いた。
金属製の電熱椅子に拘束されたままの水戸は、ゆっくりと顔を上げた。先ほどの責め苦で、その意識は朦朧としている。虚ろな瞳が、目の前に立つエリオットと岬の姿を捉えた。その視線には、怒りや憎しみよりも、もはや理解を超えたものに対する、純粋な恐怖の色が浮かんでいた。
「……お前は、誰だ」
絞り出すような、水戸のか細い声。
「ミサキの家族さ」
エリオットはこともなげに答えた。
「僕は、君に個人的な恨みはない。けれど、僕は自分の家族が酷い目に遭わされて、それを見て見ぬふりをするような人間じゃないんだ。それに何より、君のような姑息で卑劣な人間が社会的な成功を収め、彼女のような真に優秀で誠実な人間を虐げる世界は、間違っている。そうは思わないかい?」
「エリオットさん……」
岬が、彼の隣で静かに呟いた。その声には、彼の言葉に対する感謝が込められていた。
「俺を……ここから出せ……!」
水戸が、最後の力を振り絞るように言った。
「お前らのしていることの方が、よっぽど犯罪だ! 拉致監禁、傷害……! お前らが、法の裁きを受けろ!」
その言葉をエリオットは完全に無視した。彼は無表情のまま、リモコンのスイッチを押す。
再び、ジジ……という不快な音と共に、水戸が座る金属椅子が熱を帯び始めた。
「ギャアァァァァァァァッ!」
肉が焼けるような熱さと痛みに、水戸の絶叫が地下室に響き渡る。拘束された体で必死にもがくが、鋼鉄の枷はびくともしない。
「ここは日本じゃない。アメリア連邦国の主権が及ぶ場所だ。もっとも、仮にここが日本の国内法が適用される場所だったとしても、僕たちを裁ける人間は、この国には存在しない」
エリオットは、表情を変えないまま、淡々と事実を告げた。
「水戸さん、言ったじゃないですか」
岬が、冷たく言い放つ。
「治外法権だって」
その言葉と、目の前でリモコンを操るエリオットの冷徹な表情。水戸の目には、二人の顔が、慈悲のかけらもない悪魔のように映っていた。
(間違っていた……)
体の痛みと、心の絶望の中で、水戸は逡巡する。
本当は、心の奥底ではずっと理解していた。自分が間違っていたこと。いくつもの違法行為に手を染め、多くの部下たちの心を傷つけ、踏みにじってきた自分は、紛れもない悪人であること。
だが、仕方がなかったのだ。
あの苛烈なブラック企業で脱落しないために。自分と、自分の家族を守るために。必死だった。上の連中だって、悪事の限りを尽くしていた。
なぜなら、悪事を重ね、他者を蹴落とした者ほど、出世するのが星霜フロンティアという会社だったのだから。
しかし、これは無い。
こんな報復は、常軌を逸している。これはもはや正義などではない。ただの、圧倒的な力による凄惨な暴力だ。
体の痛みなのか、心の痛みなのか。水戸の目から、一筋の熱い涙が頬を伝った。
視界が霞み、意識がゆっくりと遠のいていく。もう、何もかもが、どうでもいい。このまま……。
その時だった。
ザバァァァン!
突如、水戸の頭上から、大量の氷水が降り注いだ。バケツをひっくり返したような勢いで浴びせられた冷水が、熱せられた体に突き刺さる。角の鋭い氷が、肌を切り裂き、激しい痛みとなって意識を無理やり引き戻した。
「起きたまえ。眠ることは許さない」
エリオットの声が、頭上から冷たく響いた。
「君のせいで、君の家族が、君の会社が、これから社会から排除され消えていく様を、その目で見届けてもらう。そこの大画面モニターでね」
びしょ濡れになった水戸が顔を上げると、モニターには、彼の自宅と思われる一軒家の前に、無数の報道陣と野次馬が詰めかけているライブ映像が映し出されていた。
「水戸さん」
岬が、恍惚とした笑みを浮かべながら、水戸の顔を覗き込んだ。
「しばらくの間、あなたを死なない程度には生かしてあげます。時々、こうして様子を見に来てあげますから」
彼女は、心の底から楽しそうに告げた。
「素敵な泣き言、考えておいてくださいね」




