5-5 ようこそ、地獄の治外法権へ
今朝、作戦司令室へ向かう前のこと。岬は、護衛役の広尾さやに、今日の計画の最終確認をしていた。
「——ターゲットへの直接接触。ご自身を危険に晒す行為です。推奨はできません」
モニターに表示された水戸の現在位置情報を見つめながら、広尾は無表情のまま、懸念を口にした。
「罠にかけるにしても、もっと安全な方法があります。なぜ、司令官自らが前線に出る必要が?」
その問いに、滝乃川 岬は揺るぎない確信を持って答えた。
「彼が、安心しきったところから、さらなる絶望に突き落とさなければ意味がないからです。そして、その『安心』を与えられるのは、彼がよく知る元部下である私だけ。彼を簡単にはこの世からリタイアさせません。彼には、まだまだ、たっぷりと踊ってもらいますから。この件は、昨夜のうちにエリオットさんにも話して、了承を得ています」
岬の瞳に宿る、復讐の炎の色を読み取ったのだろう。広尾は、わずかな沈黙の後、静かに頷いた。
「……承知いたしました。あなたの指示に従います。エージェントを二人、護衛につけます。決して、ターゲットと二人きりにはならないでください」
「分かっています」
そして今、岬たちが乗るワンボックスカーが、滑るように都心の道路を進んでいく。
その後部座席には、社会的には死人同然の、哀れな男が座っている。
車内に気まずい沈黙が流れる中、憔悴しきった様子の水戸が、おずおずと口を開いた。
「あの、滝乃川……さん。妻に連絡を取りたいんだが」
「無意味だと思いますよ」
岬は、彼の要望を却下する。
「おそらく今頃、ご自宅の前には、嗅ぎつけたマスコミが押し寄せているはずです。奥様も、それどころではないでしょう。それに、まだ、あなたの無実が証明されていない今の状態で、何を言っても信じてもらえないのでは?」
岬の冷静な指摘に、水戸はぐうの音も出ないようだった。渋々といった表情で俯き、それきり黙り込んでしまう。
やがて車は、高い塀に囲まれた、緑豊かな施設の前で静かに停車した。
重厚な鉄の門が、音もなく開く。中へ入り、しばらく進んだ先にあったのは、レンガ造りの小さな小屋だった。
「……ここは、どこなんだ?」
訝しげに尋ねる水戸に、岬は車窓から、敷地内の建物の傍に高く掲げられた旗を指し示した。周囲は赤と白の縞模様、中央には金色の星々。アメリア連邦国の国旗だ。
「アメリア大使館の敷地内です」
「大使館……!?」
水戸の目が、驚愕に見開かれる。
「滝乃川さん……君は、一体何者なんだ。こんなコネを持っていたなんて」
彼は、想定外の出来事の連続に完全に思考が追いついていないようだった。だが、その混乱した頭の中で、水戸には一つの希望的観測が芽生え始めていた。
(この女を利用できるかもしれない)
(こいつの持つコネを使えば、会社への復讐どころか、もっと有利な条件で返り咲けるかもしれない)
この期に及んで、そんな浅はかな欲望が、水戸の中に生まれていた。
小さな小屋の前まで来ると、ワンボックスカーが停まった。
すると、運転席の金髪にサングラスをかけた大男が、流暢な日本語で、岬と水戸に声をかけた。
「失礼。情報セキュリティの観点から、ここで、お二人のスマートフォンを一時的にお預かりします」
言われるがまま、岬は自分のスマホを彼に渡す。もちろん、これは水戸を安心させるための演技だ。
水戸も、少しためらった後、素直に自分のスマホを差し出した。
車を降り、岬は水戸に小屋の中へ入るように促した。
彼は、少々困惑の表情を浮かべたが、岬の背後に立つ、屈強なエージェントたちの無言の圧力に気おされて、おとなしくドアノブに手をかけた。
ギィと軋む音を立てて、扉が開く。
小屋の中は薄暗く、ひんやりとした空気が漂っていた。そして、その中央には、まるでダンジョンの入り口のように、地下へと続く階段が、暗い口をぽっかりと開けていた。
水戸が、ごくりと喉を鳴らすのが分かった。
岬が先に階段を降り始めると、彼も後に続いた。二人のエージェントが、逃げ道を塞ぐように、最後尾からついてくる。
地下に広がる空間は、殺風景なコンクリート打ちっぱなしの小部屋だった。
だが、その光景の異様さは、壁一面に設置された巨大なモニターと、部屋の中央にぽつんと置かれた、金属製の仰々しい椅子とテーブルが醸し出しているものだった。
「さあ、水戸課長。そちらの椅子へどうぞ」
岬が指し示した椅子を見て、水戸の顔に警戒の色が浮かぶ。
「ここで、何をするつもりだ?」
「星霜フロンティア社が、緊急記者会見を開きます。まずは、彼らの言い分を一緒に、モニターで見届けましょう」
その言葉に、水戸の警戒心が少しだけ解けたようだった。彼は、まだ岬が自分の味方だと信じている。ゆっくりとした足取りで椅子へと近づき、そして、腰を下ろした。
その瞬間だった。
ガシャン!という金属音と共に、椅子の肘掛けと足元から、瞬時に鋼鉄製の手錠と足枷が飛び出し、水戸の四肢を拘束した。
「なっ……! なんだこれは!?」
水戸がパニックに陥り、身をねじろうとするが、拘束具は彼の体をびくともさせない。
その狼狽する様を、岬は目の前で見下ろしていた。先ほどまでの同情的な仮面を脱ぎ捨て、心の底から湧き上がる、愉悦の笑みを浮かべて。
「た、滝乃川さん! どういうことだ!?」
岬は、エージェントから受け取った、水戸のスマートフォンをテーブルの上に置いた。そして、同じく手渡された鉄製のハンマーを、スマホ目がけて、躊躇なく振り下ろす。
ガッシャァァァン!
破壊音が部屋に響き渡った。スマホの液晶画面は蜘蛛の巣状に砕け散り、破片が床に飛び散る。岬は、何度も何度もハンマーを叩きつけた。彼がこれまで築き上げてきた人間関係も、プライドも、その全てが詰まったガラクタの箱を、容赦なく。
ぐちゃぐちゃに破壊されたスマホの残骸を、水戸の足元に投げ捨てる。
「治外法権、という言葉をご存知ですよね? ここはアメリア連邦国の領土。日本の法律は適用されません。そして、この部屋では、私がルールです」
岬の瞳は、氷のように冷たく、彼を射抜いていた。
「あなたには、当分の間、ここで待機してもらいます。後日、残り二人の男……私の復讐相手たちと、生き残りを賭けて醜く争ってもらうために」
水戸の顔が、恐怖と絶望で歪んでいく。血の気が引き、唇がわなわなと震えていた。これから自分の身に何が起ころうとしているのかを想像し、彼は意識が遠のくのを感じた。
「さあ、まずは星霜フロンティア社の会見を見ましょうか。あなたが人生の大半を捧げた組織、どうなるか気になるでしょう?」




