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5-4 飛んで火に入る元上司

 そこに立っていたのは、滝乃川岬だった。

 三年間、自分の下で働かせ、散々罵倒し、手柄を横取りしてやった女。つい二、三日前に会社を辞めていった、あの気弱で、大した取り柄もないと思っていた女。


 だが、今、目の前にいる岬は、水戸が知っている彼女とは、まるで別人に見えた。

 上質な、しかし華美ではない、洗練された黒のワンピース。一切の無駄がない、計算され尽くした立ち居振る舞い。


 そして何より、その瞳。

 以前の、おどおどとした怯えの色は、どこにも無い。あるのは、全てを見透かすかのような、底知れないほどに静かで強い光。その瞳に見つめられていると、まるで自分の心の中を、隅々まで覗かれているような気分になった。


「……た、滝乃川……? なぜ、お前がここに……」

 水戸は、動揺を隠せない。

 彼女が、なぜ自分の前に現れたのか。まさか、自分の不幸を嘲笑いに来たのか。


 しかし、岬の口から発せられた言葉は、水戸の予想を完全に裏切るものだった。


「水戸課長。大変でしたね。会社でのこと、全て聞きました」

 その声は、同情的で優しさに満ちていた。

「あなたも私も、結局は会社に利用されて、都合が悪くなったら捨てられた……。ただ、使い捨てられるだけの存在だったんですよ」


「な、何を言って……」

「分かります。あなたは、会社のために必死で働いてきた。時には、汚れ仕事も引き受けたかも知れません。それなのに、会社はあなたを守ってくれなかった。それどころか、全ての責任をあなた一人に押し付けて、トカゲの尻尾切りのように切り捨てた。……悔しいですよね?」


 岬の言葉は、不思議な説得力を持っていた。

 それは、水戸が心の奥底で思っていたこと、しかしプライドが邪魔して認めたくなかった事実を、的確に言い当てていたからだ。


 そうだ。俺は、会社のために働いてきたんだ。

 それなのに会社は俺を裏切った。

 悪いのは、俺だけじゃない。


 岬は、そんな水戸の心の揺れを見透かしたように、さらに言葉を続けた。その声は、追い詰められていた水戸にとって、抗いがたい魅力を持っていた。


「水戸課長。私と一緒に、星霜フロンティア社と戦いませんか?」

「戦う?」

「ええ。あなたは、会社の暗部を誰よりもよく知っているはずです。今の私には、それを世に知らしめる力とコネクションがあります。手を組めば、私たちを切り捨てた会社に復讐ができる。無念を、晴らすことができるんです」


 もちろん、全て嘘だ。

 岬の内心は、落ちぶれて覇気のない水戸の無様な姿を間近で見て、笑いが止まらないほどの歓喜に満たされていた。


 だが、その感情は、徹底したポーカーフェイスの下に隠されている。表情には微塵も出さない。


 誰からも見捨てられた水戸にとって、岬の言葉は、暗闇の中に差し込んだ一筋の光のように思えた。

 敵の敵は味方。

 この女を利用すれば、あるいは……。


 そんな思考が、水戸の脳裏をよぎる。


「……さあ、ここで話すのもなんですし」

 岬は、近くに停車していた黒いワンボックスカーを顎で示した。そのスモークガラスの向こうに、運転席に座る黒スーツの男の姿らしきものが、薄っすらと見える。

「早速ですが、車の中で作戦会議をしませんか?」


 促されるまま、水戸は、まるで操り人形のように、ワンボックスカーの後部座席に乗り込んだ。

 重厚なスライドドアが、音もなく閉まる。

 車内は、外の光をほとんど通さない、薄暗い空間だった。


 水戸が乗り込んだ瞬間、助手席に座った岬の表情から、すっと同情の色が消えた。

 その代わりに浮かんだのは、獲物を罠にかけた狩人のような、冷たく、残酷な笑みだった。

 水戸の両隣に、黒いスーツの大男が二人座る。二人とも、金髪にサングラスをかけた外国人。


「——さて、と」

 岬は、車のルームミラー越しに水戸を見て、本心を押し殺したまま、冷静に告げた。


「この後、星霜フロンティア社が緊急で会見を開くそうです。彼らの言い分を聞きながら、今後について話し合いましょう」


 これも、もちろん嘘だ。

 水戸は気づいていない。

 自分が、さらなる罠に嵌められているのだということを。


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