5-1 プライドの拠り所を潰せ
夜が明け、ウォー・ルームの巨大モニターは、留置所の雑居房から、警察署の正面玄関を映す監視カメラの映像に切り替わっていた。
時刻は午前七時過ぎ。
朝日が、昨夜の喧騒が嘘のような静けさに包まれた街を照らし始めている。
「……釈放?」
モニターに映し出された光景に、私は思わず眉をひそめた。
憔悴しきった表情の水戸茂が、警察署の自動ドアから、よろよろと姿を現したのだ。顔は腫れ上がり、スーツは泥と埃で汚れ、もはや管理職としての威厳など見る影もない。まるで、打ち捨てられた野良犬のような有様だった。
「どういうことですか、広尾さん。水戸は窃盗の現行犯で逮捕されたはずでは?」
私の問いに、隣に立つ広尾が、手元のタブレットを操作しながら冷静に答えた。
「昨夜のうちに、星霜フロンティア社の顧問弁護士が警察署を訪れ、被害者との示談を成立させたようです。被害者の蓮田社長には、相当な額の示談金が支払われています。示談が成立したため、被害届は取り下げられました」
「……会社の力、ですか」
「その通りです。さすがに上場企業だけあって、火消しの手際は悪くない。スキャンダルが表沙汰になる前に、裏で手を回したのでしょう」
広尾の報告を聞きながら、私はモニターの中の水戸を冷ややかに見つめた。
会社が助けてくれた。彼は今、そう思っているに違いない。まだ自分には、帰る場所があるのだと。
だが、それは大きな間違いだ。
会社は彼を助けたのではない。会社は面倒事を避け、不都合な事実を隠蔽するために、一時的に彼を回収したに過ぎない。彼はもう、会社にとって、切り捨てるべき不良債権でしかないのだから。
「ところで、エリオットさんは?」
「午前中は、経営されている会社の重要な会議が数件、オンラインで入っているとのことです。こちらには昼前に戻られる予定です」
「そうですか」
彼がいなくても、作戦に支障はない。
むしろ、ここからは、私が最も得意とする領域だ。
私は、司令官席に深く腰掛け、オペレーターたちに向かって、はっきりと告げた。
「皆さん、おはようございます。昨夜はお疲れ様でした。ですが、本当の戦いは今日からです」
ウォー・ルームに、静かな緊張が走る。
「予定通り、作戦第二段階に移行します。ターゲットを、水戸茂個人から、彼が所属する組織――星霜フロンティア社そのものへと拡大。彼のプライドの拠り所を、完全に破壊します」
私の言葉を合図に、オペレーターの一人がキーボードを叩き始めた。
「コンプライアンス室、及び監査役会へ、匿名の内部告発メールを送信。内容は、水戸によるパワハラ・セクハラについて。『複数の被害者から相談を受けているが、報復を恐れて声を上げられずにいる』という文面で。証拠はまだ出しません。あくまで、社内に疑惑の種を蒔くのが目的です」
「同時に筆頭株主となったファンドから、フロンティア社宛に正式な質問状を送付してください。内容は『一部管理職のハラスメント行為が、企業価値を毀損するリスクがあるとの情報を得た。事実関係と会社の対応について、早急な回答を求める』と。経営陣に、外部からの圧力を明確に意識させます」
オペレーターたちが声を合わせて応じる。
「Yes, ma'am!」
次々と指示を出す私に、広尾が静かに尋ねた。
「よろしいのですね?」
「ええ。昨夜、彼が味わった恐怖と屈辱は、前菜に過ぎません。メインディッシュは、彼が最も信頼し、拠り所にしてきた組織から、裏切られ、切り捨てられる瞬間の絶望ですから」
モニターの中で、水戸がふらつく足取りで駅へと向かって歩いている。その背中は、これから始まる地獄の第二章を知らない、哀れな道化師の後ろ姿にしか見えなかった。




