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1-3 出会い

 信号が赤に変わる。人々が一斉に歩みを止め、色とりどりの傘が、巨大な生き物のように蠢く壁を形成する。

 岬は無意識に一歩下がり、駅ビルの柱の陰に身を寄せた。人混みは苦手だった。悪意ある視線の幻や、嘲笑う声の幻聴が、今にも聞こえてきそうだからだ。


 広報の仕事で、唯一、身についたと自負できるスキルがある。それは、人や物事を俯瞰で観察する癖だ。危機管理の一環として、常に全体の空気や流れ、その中の“異物”を読むことを叩き込まれた。

 イベント会場のどこに危険が潜んでいるか。メディアの誰が敵対的な質問を準備しているか。その癖は、プライベートでも抜けない。いわば、生き延びるための処世術だった。


 何百、何千という人々が行き交う、雨の交差点。

 その誰もが、それぞれの目的地に向かって傘をさしている。雨から身を守るというただ一つの目的のために。だから、傘の角度は自ずと決まってくる。真上からの雨ならば、地面と平行に。少し風があれば、風上に向かって少し傾ける。それが、物理法則に従った自然な角度だ。


 しかし、岬の視界の端に、一つだけ、明らかに異質な傘があった。

 交差点の向かい側、大手百貨店の巨大な広告スクリーンが放つ、目まぐるしい光の下。その方向を見上げると、何の変哲もない黒色の傘が佇んでいた。


 だが、その角度が異常だった。雨を防ぐには不自然なほど低く向き、地面と鋭角をなしている。まるで、傘の下にいる人物の顔と、その手元にある何かを、周囲の視線から隠すかのように。

 そして何より異様なのは、その傘が、まるで風景に縫い付けられたかのように、微動だにしないことだった。雑踏の中で、そこだけが不自然な静寂を保っている。


 おかしい。

 これは、普通じゃない。


 岬の脳内で、錆びついていた警報が、甲高い音を立てて鳴り響いた。

 あの傘の下の人物は、雨宿りをしているのでも、誰かを待っているのでもない。

 獲物を待つ狩人のように、何かを「狙って」いる。その殺気にも似た集中力は、傘の布地を通してさえ、ひしひしと伝わってきた。傘の先端が向いている方向、その視線の先を、岬はゆっくりと辿った。


 すると、そこには、明らかに周囲とは異質なオーラを放つ一団がいた。数人の、鍛え上げられた体躯を持つ黒いスーツの男たち。その中央に守られるようにして立つ、一人の長身の男性。


 歳は二十代後半だろうか。上質なチャコールグレーのコートは、雨を弾き、彼のシルエットを際立たせている。彼は、降りしきる雨など意にも介さない様子で、傘もささずに真っ直ぐ前を見据えていた。

 彫りの深い、ギリシャ彫刻のように整った顔立ち。日本人ではない。彼の放つ雰囲気は、単なる富裕層という言葉では片付けられない、絶対的な自信と気品に満ちていた。まるで、世界から切り離された、別の次元を歩いているかのようだ。


 スーツの男たち――おそらく要人警護を担うSP(セキュリティ・ポリス)だろう――は、周囲に鋭い視線を配っている。

 先ほどから、彼らの意識は、主に自分たちと同じ高さ、つまり水平方向の脅威に向けられているように見えた。雑踏に紛れた襲撃者や、対向車線からの突発的な危険。

 だが、あの不自然な傘は、高所から彼らを見下ろす位置にいる。それは、彼らの警備網の、完全な死角だった。


 ターゲットは、あの青年。

 狙っているのは、あの傘の男。


 点と点が線で結ばれた瞬間、岬の全身の血が、急速に温度を失っていくのを感じた。心臓が氷の塊を掴まれたように痛む。

 どうする?

 見て見ぬふりをするか?

 いつものように、「どうでもいい」と自分に言い聞かせて、この場を立ち去るか?

 警察に通報する? そんな時間はない。今、この瞬間に、取り返しのつかないことが起ころうとしている。


 心の奥深くで、ずっと黙っていたもう一人の自分が、叫び声を上げた。

『ここで見過ごせば、お前は一生、理不尽の餌食だ!』

 いじめを見て見ぬふりをしたクラスメイトたちと、何が違う?

 パワハラに屈して、何も言えなかった臆病な自分と、何が違う?

 理不尽な暴力が、今まさに目の前で振るわれようとしている。自分とは何の関係もない、見ず知らずの他人に対して。


 ――関係ないなんて、本当に言えるのか?


 理不尽は、いつだって繋がっている。古河達哉の暴力も、水戸課長の権力も、蘇我智和の支配も、そして今、目の前で起ころうとしている見えない暴力も、根は同じだ。他人の尊厳を自分の都合で踏みにじるという、醜い悪意。


 ここで目を逸らせば、私は彼らと同じになる。

 理不尽を許容し、加担する側の人間になる。


 それだけは、嫌だ。


 歩行者用の信号が、緑色の光を灯した。

 人々が一斉に、巨大な波となって動き出す。岬もその波に身を投じ、交差点の中心へと歩みを進めた。恐怖で膝が笑っている。だが、不思議と、足は前へ前へと進んだ。目標はコートの青年。そして、その先にいる傘の男。


 どうすれば、最も確実に、そして最小限の動きで危機を伝えられるか。

 大声を出す? パニックを誘発し、犯人を刺激するだけだ。

 SPに駆け寄る? おそらく状況を理解される前に、不審者として地面にねじ伏せられるだろう。


 広報の仕事で学んだ、もう一つのこと。

『最も効果的な伝達は、最もシンプルで予測不可能な形で行われる』


 岬は計算した。

 自分と青年の歩く速度。すれ違うタイミング。風の向き。雨の強さ。

 そして、自分の持っている唯一の“武器”――退職日に私物を詰め込んだため、いつもよりずっと重い、革製のショルダーバッグ。


 青年との距離が、あと数メートルに迫る。彼の隣を歩くSPの視線が、一瞬だけ岬を捉えた。その目に浮かんだのは、無関心。岬が、あまりにも無力で平凡で、何の害もなさない風景の一部にしか見えなかったからだろう。


 その一瞬の油断。

 それこそが、岬が狙っていた、たった一つの隙だった。


 青年と肩が触れ合う、その刹那。

 岬は、横から滑り込むようにして、自分の右手を彼のコートの腕に絡ませた。そして、バッグの重さを遠心力に乗せ、腰の回転を使い、力任せに彼を自分の方向へと引き倒す。


「危ないっ!」


 それは、声にならない叫びだったかもしれない。雨音に消えた、ただの吐息だったかもしれない。

 だが、その行動は、どんな言葉よりも雄弁だった。


「なっ…!」

 青年が、驚きに美しい青色の目を見開いて、バランスを崩す。

 SPたちが、何事かと岬に手を伸ばす。


 そのコンマ数秒後。


 パシュッ、という空気が破裂するような乾いた音が響いた。

 それは、降りしきる雨音を切り裂く異質なノイズ。ほとんどの通行人は気づかないほどの、ささやかな音。だが、その発射音に凝縮された純粋な殺意は、岬の肌を戦慄させるには十分すぎた。


 破裂音と寸分違わず、岬たちが先ほどまで立っていた場所のすぐ後ろ、百貨店の巨大なショーウィンドウが、まるで意思を持ったかのように、中心から蜘蛛の巣状に砕け散った。ガラスの破片が、スローモーションのようにキラキラと夜空に舞う。街のネオンや、近くのビルの壁面に取り付けられた赤い非常灯の光が、その無数の破片に乱反射して、一瞬、残酷なまでに美しい光の万華鏡を描き出した。


 だが、それは死の光だった。もし、岬の行動があと一秒遅れていたら、砕け散っていたのはガラスではなく、青年の頭部だっただろう。


「伏せろ! サイレンサー付きの狙撃銃だ! ターゲットを確保!」


 SPの一人が、腹の底から絞り出すような野太い声で叫んだ。

 岬は、青年を庇うようにして、濡れた冷たいアスファルトの上に倒れ込んでいた。青年の驚きと戸惑いが混じった呼吸が、すぐ耳元で聞こえる。彼の体温と上質なコートの生地の匂いが、非現実的なほど生々しく感じられた。


 交差点は、一瞬の静寂の後、爆発的なパニックに包まれた。

 何が起きたか理解できない人々の、困惑した声。

 砕け散ったガラスを見て、ようやく事態を察した人々の甲高い悲鳴。

 怒号。泣き声。逃げ惑う人々の足音。

 傘と傘がぶつかり合い、手から滑り落ち地面に転がる。

 世界で最も秩序だった混沌は、瞬く間に、ただの無秩序な地獄絵図へと変わった。


 岬が顔を上げると、あの黒い傘は、もうどこにも見えなかった。まるで幻だったかのように、雑踏の中に溶けて消え去っていた。


「確保!」


 次の瞬間、複数のSPが岬と青年の周りに屈強な肉体の壁を作る。そのうちの二人が、抵抗する間もなく岬の両腕を背中にねじり上げた。関節が、あり得ない方向に曲げられる。鋭い痛みが走り、岬は顔をしかめた。


「待て! やめろ!」


 いち早く冷静さを取り戻した青年が、その場にいる全員の動きを止めるほどに威厳のある声で、SPたちを制した。


「彼女が、私を助けてくれたんだ」


 SPたちは、戸惑いながらも、岬の腕を掴む力を少しだけ緩めた。

 青年はゆっくりと立ち上がり、スーツについた汚れを払うこともせず、岬に手を差し伸べる。その深い青色の瞳が、恐怖と混乱で震える岬を、真っ直ぐに射抜いていた。雨に濡れた彼のプラチナブロンドの前髪から、雫が宝石のように滴り落ちる。


「大丈夫か? 怪我は?」


「……だ、だいじょうぶ、です」


 震える声で答えるのが精一杯だった。恐怖と、アドレナリンと、とっさに人を助けたという奇妙な高揚感が入り混じって、感情がぐちゃぐちゃになっていた。

 彼の手は、驚くほど温かかった。その手に引かれて立ち上がった岬の体は、雨と冷や汗で芯まで冷え切っていた。


 遠くから、けたたましいサイレンの音が近づいてくる。赤い回転灯が、灰色の雨のカーテンの向こうで激しく点滅し、混乱した街をさらに非現実的な色に染め上げていた。


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