4-4 もくろみ通りの亀裂
一方、イータ班も動いていた。
ボーイに扮したエージェントは、バックヤードで、レイラとライバル関係にあるホステス・ミサに近づいた。
「ミサさん、お疲れ様です。おしぼりどうぞ」
「ありがとう」
「それにしても、レイラさん、最近すごいですよね。この前も水戸さんから、限定品のバッグをプレゼントされたって自慢してましたよ」
「……ふん、あの男からでしょ。どうせ、いつまで続くんだか」
ミサが、つまらなそうに唇を尖らせる。
「それがですね。なんか噂だと、水戸さん以外にも、もっと太いお客さんがいるらしいんですよ。外資系の重役クラスの人だって」
「……え、そうなの?」
ミサの目が、嫉妬と好奇心でギラリと光った。
「まあ、聞いた話なんで、本当か分かりませんけどね」
エージェントはそう言って、素早くその場を離れた。
毒は注入された。
あとは、この毒が、女たちの嫉妬と虚栄心という名の血液に乗って、全身に回っていくのを待てばいい。
ウォー・ルームでその様子を見守っていた私は、自分の計画が寸分の狂いもなく進んでいくことに、一種の快感すら覚えていた。
「……順調ですね」
「ああ。君の脚本は完璧だ」
エリオットが、満足そうに頷いた。
午後九時半。
主役の登場だ。
入口のカメラが、上機嫌な様子で店に入ってくる水戸茂の姿を、モニターを通じて捉えた。彼の隣には、接待相手と思われる身なりのいい初老の男性。
いつものように、水戸はVIP席に通され、彼の指名であるレイラが、甘い笑顔でその隣に座った。
「シゲルさん、お待ちしてました❤️」
「おう、レイラ。今日は大事なお客様と一緒なんだ。頼むな」
「お任せくださいませ」
接待が始まった。
水戸は、接待相手に卑屈なほどの笑顔を振りまき、甲斐甲斐しく酒をついでいる。会社での尊大な態度とは、完全に別人。
あきれた変わり身の早さだ。
およそ三十分が経過した。
店の中の空気は、じわじわと目に見えない形で、しかし確実に変化していた。
最初に蒔かれた噂の種は、ホステスたちや客たちの間で、ささやき声となって急速に拡散していた。
「ねえ、聞いた? レイラの……」
「水戸とかいう客、ヤバいらしいわよ」
「会社の金に手をつけてるって本当?」
水戸自身は、まだ何も気づいていない。接待相手の機嫌を取ることに必死で、周囲の変化にまで気を配る余裕はないようだった。
だが、彼の隣に座るレイラの表情には、わずかな変化が見られた。
彼女の元に、他のテーブルについたヘルプのホステスが入れ替わり立ち替わりやってきては、何事か耳打ちしていく。そのたびに、レイラの笑顔が、ほんの一瞬だけ、こわばるのをカメラは捉えていた。
(効いてる、効いてる)
私は、モニターの前で、思わず口元が緩むのを感じた。
そして、決定的な瞬間が訪れる。
接待相手がトイレに立った。そのタイミングで、レイラが水戸に体を寄せ、甘えるような声で囁いた。
「ねぇ、シゲルさん。この後、アフターはもちろん付き合ってくれるんでしょ? この前お願いしてた、あのホテルのバーに連れてって❤️」
「ああ、もちろん……」
水戸がだらしなく頷きかけた、その時だった。
近くのテーブルにいた蓮田社長の声が、わざとらしく大きく響いた。
「いやー、しかし怖い世の中になったもんだ! 会社の金を横領して女に貢ぐなんて、そんな男、すぐに捨てられるに決まってるだろうに!」
その言葉は、明らかに水戸たちに聞こえるように放たれたものだった。
シグマ班のエージェントが、見事に蓮田社長を誘導したのだ。
水戸の動きがピタリと止まった。
彼の顔から、急速に血の気が引いていくのが、モニター越しにもはっきりと分かった。
隣にいるレイラも、凍りついたように固まっている。
「なんだ、今の」
水戸が低い声で呟いた。
「さあ……? 何の話かしら」
レイラは、必死で笑顔を取り繕っているが、その目は泳いでいた。
水戸の疑念に満ちた目が、レイラに向けられる。
「レイラ。お前、何か知ってるんじゃないのか」
「し、知らないわよ! 人聞きが悪いこと言わないで!」
「じゃあ、なんだってんだ。最近、店の奴らの態度がおかしいと思っていたんだ。俺を見てコソコソと……」
二人の間に、不穏な空気が流れ始める。
接待相手が席に戻ってきたことで、その会話は一旦中断されたが、一度生まれた亀裂は、もう元には戻らない。
水戸は、その後、上の空だった。接待相手の話も、ろくに耳に入っていない様子で、しきりに周囲を気にしている。彼の額には、脂汗が滲んでいた。
接待が終わり、客が帰っていく。
水戸は、レイラを捕まえて、バックヤードへと引きずり込んでいった。
隠しカメラは、その一部始終を捉えている。
「おい、どういうことだ! 説明しろ!」
「知らないって言ってるでしょ!」
「嘘つくんじゃねえ! お前、俺以外にもパトロンがいるって噂も聞いたぞ! 俺が貢いだ金で、他の男と遊んでるのか!」
「何よそれ! 失礼しちゃう! あなたこそ、会社の金に手を出してるなんて、本当なの!?」
「なっ……! 誰からそんなことを……!」
醜い言い争い。
互いへの不信と、保身のための罵詈雑言。
つい数時間前まで、愛を囁き合っていた二人の関係は、たった数個の噂によって亀裂が走り、脆くも崩れ去ろうとしていた。
「……見事なものだな」
ウォー・ルームで、エリオットが感嘆の声を漏らした。
「君のデザインした通り、彼らは内側から崩壊し始めている」
私は、モニターに映る水戸の狼狽した顔を、何の感情もなく見つめていた。
可哀想だとは思わない。自業自得だ。
まだ復讐は、序曲の段階にすぎない。これからが本当の地獄だ。




