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4-3 噂の種まき

 水戸の醜悪な日常を監視し、昼を過ぎた頃だった。


「ミサキ、少し休憩しよう」


 エリオットが、私を気遣うように、穏やかな声で言った。

「今夜の作戦は、君が立てたプラン通りに進める。だが、一度に全てを詰め込むと、精神が持たない。今夜の作戦が始まるまで、少し休みたまえ。君のスイートルームは、世界で最も安全な場所だ。何も考えず、ゆっくりと休んでくれ」

「……でも」

「これは僕からのお願いだ」

 エリオットは、いたずらっぽく笑った。その優しさに、私は頷くしかなかった。


「私は少し席を外す。経営している会社のことで、いくつかオンラインミーティングが入っていてね。今夜、作戦が始まる前には戻る」

  彼はそう言うと、広尾さやに私の護衛を指示し、颯爽とウォー・ルームを後にした。

  世界最強大統領の息子であると同時に、辣腕の実業家でもある彼の顔 。その切り替えの早さに、私は改めて彼が住む世界の大きさを感じた。


 広尾に案内され、私は再びスイートルームに戻った。 一人きりになると、張り詰めていた緊張の糸がふっと緩む。私は、リビングのソファに深く身を沈めた。窓の外では、徐々に太陽が傾き始め、東京の街並みがオレンジ色に染まっていく。


(休め、と言われても……)


 眠れるはずがなかった。 数時間後には、復讐の第一幕が切って落とされるのだ。高揚と恐怖と、そして未知の領域に足を踏み入れる興奮が、ごちゃ混ぜになって心の中で渦を巻いている。


 やがて、私は静かに目を閉じた。眠気は無くても、戦いに備えた休息も必要だと、自分に言い聞かせながら。



 夜の帳が下りた銀座は、昼間の顔とは全く違う、妖艶な輝きを放っていた。

 高級ブランドのブティックが並ぶ通りを、黒塗りの高級車が滑るように行き交い、華やかなドレスや上質なスーツに身を包んだ人々が、今宵の蜜を求めてネオンの海へと吸い込まれていく。


 その一角に佇む、ひときわ豪奢なビル。その最上階に『Club SSR』はあった。

 重厚なエントランスを抜けると、そこは現実から切り離された夢の世界。スワロフスキーのシャンデリアが眩い光を放ち、磨き上げられた大理石の床には、赤い絨毯が敷かれている。

 店内には、穏やかなジャズの生演奏が流れ、高価な酒と香水の匂いが甘く混じり合っていた。


 午後八時。

 ウォー・ルームの巨大モニターが、複数の映像を映し出す。その全てが、『Club SSR』の店内に仕掛けられた隠しカメラからのリアルタイム映像だった。

 私の指示通り、チーム『オリオン』のメンバーが、すでにそれぞれの持ち場についている。


 シグマ班の二人組は、羽振りの良いIT企業の経営者を装い、VIPルームで豪快にシャンパンを開けていた。彼らのテーブルについたのは、店でも人気上位のホステス二人。そして、彼らがターゲットとしてリストアップした、口の軽い常連客・蓮田社長も、近くの席でご満悦の様子で酒を飲んでいる。


 イータ班の若いエージェントは、新人ボーイとして完璧にフロアに溶け込んでいた。キビキビとした動きでグラスを下げ、灰皿を交換し、ホステスたちの会話に、さりげなく耳を傾けている。


 そして、ゼータ班は、まだ動かない。彼らの出番は、もう少し後だ。


「……始まったな」

 司令官席で、エリオットが静かに呟いた。

 私も、固唾を飲んでモニターを見つめていた。これから、私の脚本通りに舞台の幕が上がるのだ。


 最初に動いたのは、シグマ班だった。

 ターゲットの蓮田社長がトイレに立った隙を見計らい、エージェントの一人が、わざとらしく大きな声で話し始めた。

「いやー、しかし最近、物騒な噂をよく聞きますよねえ」

「おや、谷中さん、何の話です?」

 もう一人のエージェントが、絶妙なタイミングで相槌を打つ。


 テーブルについていたホステスたちが、興味深そうに身を乗り出した。

「何です? 物騒な話って」

「いやね、ウチの取引先に星霜フロンティアって会社があるんですけどね。そこの水戸とかいう課長が、会社の金を横領してるって話で持ちきりなんですよ」


「え、星霜フロンティアって、あの中堅メーカーの?」

「そうそう。なんでも、その金を銀座の女に全部つぎ込んでるらしくてねえ。いやはや、男の甲斐性も、そこまでいくとただの犯罪ですよねえ。ハッハッハ」


 わざとらしい笑い声が、VIPルームに響く。

 ホステスたちは、顔を見合わせ、意味ありげな表情を浮かべた。水戸がこの店の客であり、レイラと深い関係にあることは、彼女たちも知っているからだ。


 トイレから戻ってきた蓮田社長が、その会話の輪に加わった。

「ん? 何の話だね?」

「ああ、蓮田社長。いえ、ちょっときな臭い噂話ですよ」

 ホステスの一人が、待ってましたとばかりに、今聞いた話を蓮田社長の耳に吹き込む。

「まあ、本当かどうか分かりませんけどね」と付け加えながらも、その声は明らかに楽しんでいた。


 噂の種は、こうして、いとも簡単に蒔かれた。

 あとは、夜の銀座という肥沃な土壌で、それが勝手に芽吹き、育っていくのを待つだけだ。


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