1-2 苦い記憶
「……どうでもいい」
自分の心を殺すための、いつもの呪文。
期待するから傷つく。求めなければ、心はかろうじて凪いだままでいられる。
そうやって、何度も自分に言い聞かせてきた。
でも、本当にそうだろうか。
心の奥深く、まだ消し炭になっていない小さな火種が、チリチリと音を立てて燻っているのを感じる。
その火種は、もっと昔からあった。
高校時代。教室という閉鎖された社会。そこにも理不尽は満ちていた。
クラスの“王様”だった、古河達哉。彼は、人を傷つけることを娯楽としか考えていない人間だった。
岬が彼のグループから執拗ないじめのターゲットにされたのは、本当に些細なことがきっかけだった。彼が一方的に好意を寄せていた女子生徒と、岬がたまたま同じ委員会で、仲が良かった。ただ、それだけ。
『滝乃川って、裏で男遊び激しいらしいよ』
『あいつ、マジきもくね?』
根も葉もない噂が、SNSの裏アカウントを通じて瞬く間に拡散された。教科書がゴミ箱に捨てられ、上履きが隠され、机には無数の悪口が彫られた。クラスの誰もが、見て見ぬふりをした。腫れ物に触るかのように、岬から距離を取った。
一度だけ、勇気を振り絞って担任教師に相談したことがある。だが、四十代の事なかれ主義の男は、面倒くさそうにこう言っただけだった。
『うーん、でもなあ、古河たちの言い分も聞かないと。それに、滝乃川。お前にも何か原因があったんじゃないのか?』
絶望とは、このことだと思った。
この世界に正義などない。あるのは、声の大きい者の論理と、強者の都合だけだ。弱者は、ただ耐え、嵐が過ぎ去るのを待つしかない。
その古河達哉は今、“論破系”配信者として、ネットの世界で新たな“王様”になっているらしい。
他人の意見を嘲笑し、揚げ足を取り、一方的に罵倒する動画で、若者から熱狂的な支持を集めているという。
SNSで、彼の切り抜き動画が偶然流れてきたことがある。高校時代と何も変わらない、人を小馬鹿にしたような笑み。その顔を見た瞬間、岬はスマホを放り出し、トイレに駆け込んで吐いた。
理不尽だ。
いつだって、そうだ。
水戸課長は、今頃、部下を引き連れて高級な店で手柄話を肴に飲んでいるだろう。
蘇我智和は、今頃、新しい女とベッドの中で愛を囁き、岬の稼いだ金で買った酒を飲んでいるだろう。
古河達哉は、今頃、カメラの前で誰かをこき下ろし、信者からの投げ銭で肥え太っているだろう。
彼らは、岬にしたことなど、とうの昔に忘れている。罪悪感のかけらもない。それが、たまらなく許せなかった。




