3-2 ウォー・ルーム
広尾に案内され、岬はスイートルームを後にした。
昨日と同じ、静まり返った大使館の廊下。だが、昨日とは見える景色が少しだけ違っていた。壁にかけられた絵画も、磨き上げられた調度品も、全てがこれから始まる戦いのための舞台装置のように見えた。
広尾は、岬の少し前を、相変わらず音も立てずに歩いていく。その背中は、どんな状況でも揺らぐことのない、絶対的な信頼感を漂わせていた。
「昨夜は、お休みになれましたか」
前を向いたまま、広尾が静かに尋ねた。
「……はい。おかげさまで」
「それはようございました。睡眠は、戦争において最も重要な補給の一つです。特に、これから始まるのは、肉体よりも精神をすり減らす情報戦。常に頭をクリアにしておく必要があります」
戦争という言葉に、岬は少しだけ身が引き締まる思いがした。そうだ、私はもう被害者ではない。戦う者なのだ。
「何か不安なことは?」
「……不安しかありません」
思わず、本音がこぼれた。広尾は足を止めずに、しかし声のトーンをわずかに和らげて言った。
「当然です。未知の戦場に赴くのに、不安を感じない人間は、ただの愚か者か、よほどの熟練兵だけ。あなたは、そのどちらでもない。自分の心を正確に把握できている証拠です。それは、指揮官として最も重要な資質の一つですよ」
思いがけない言葉に、岬は少し驚いた。この人は、ただの警護官ではない。人の心を見抜き、導く力を持っている。
やがて二人がたどり着いたのは、昨日までとは全く違う区画だった。
廊下の壁の一部に、広尾がカードキーをかざし、指紋認証と虹彩認証を立て続けに行う。すると、壁が音もなくスライドし、金属製の重厚な扉が現れた。まるでスパイ映画の世界だ。
扉の向こうは、下へと続く長い階段だった。ひんやりとした空気が、岬の肌を撫でる。
「こちらへ」
広尾に促され、岬はその秘密の階段を降りていった。
どれくらい降りただろうか。やがて、再び現れた分厚い扉が開くと、岬は息を呑んだ。
そこは、昨日エリオットの背後に映っていた、作戦司令室――ウォー・ルームだった。
薄暗い、広大な空間。壁一面に埋め込まれた巨大なモニターには、世界地図、株価チャート、ニュース映像、そして無数の文字列やグラフが、目まぐるしく表示されている。
部屋の中央には、空港の管制塔のように、幾重にもデスクが配置され、十数人のオペレーターたちがヘッドセットをつけ、一心不乱にキーボードを叩いていた。彼らが交わす会話は、岬には理解できない専門用語ばかりだったが、その場を支配する濃密な緊張感と知性は、肌で感じることができた。
ここが、世界最強国家の頭脳。
この部屋から発せられる命令が、国の運命さえも左右する。そんな、世界の中枢ともいえる場所に、自分は立っている。
部屋の奥、一段高くなった司令官席のような場所に、エリオットはいた。
彼は、昨日とは違う、白いワイシャツにノーネクタイという、少しラフだが機能的な服装だった。しかし、その佇まいは、昨夜のスイートルームの前で見た、少し気まずそうな青年とはまるで別人だった。
彼は、複数のモニターを鋭い視線で確認しながら、オペレーターに矢継ぎ早に指示を出している。その横顔は、若き実業家というよりも、幾多の戦場を潜り抜けてきた、冷徹な司令官そのものだった。
岬の存在に気づくと、エリオットは、こちらに向かって歩いてきた。
「おはよう、ミサキ。よく眠れたようだね。顔色が昨日よりずっといい」
彼の声は穏やかだった。だが、その深い青色の瞳の奥には、戦いを前にした興奮と、冷たい光が宿っているように見えた。
昨夜のキスが脳裏をよぎり、岬の心臓が小さく跳ねた。岬は咄嗟に視線を少しだけ逸らす。
「……お、おはようございます。はい、おかげさまで」
声が、少しだけ上ずってしまった。
エリオットは、そんな岬の様子に気づいたのか、気づかないふりをしているのか、クスリと小さく笑った。
「緊張する必要はないよ。ここは君の城だ。そして、ここにいる全員が、君の命令を待つ君の兵士だ」
彼は、部屋全体を見渡すように手を広げた。
「さあ、始めようか。正義の時間を」




