2-11 勘違いしないでよね
数分後、ようやく我に返った私は、まるで何かに弾かれたかのように、バタンと大きな音を立ててドアを閉めた。背中をドアに預け、ずるずるとその場に座り込む。
心臓が、あり得ないくらい大きな音を立てて、激しく鼓動していた。まるで胸の中から飛び出してしまいそうなほどに。
「な……な……」
何が起きた?
今、私は、キスをされた?
エリオット・ハルフォードに?
気が動転していないといえば、嘘になる。
むしろ、動転しかしていない。頭の中は、真っ白な吹雪が吹き荒れているようで、混乱している。
私は、無意識に、彼にキスをされた左頬にそっと触れた。
そこだけが、まだ彼の体温を宿しているかのように、かすかに熱を持っていた。
あの感触がまだ生々しく残っている。柔らかくて優しくて、少しだけ強引で。
蘇我以外の男性に、触れられたことなんて、いつぶりだろう。
蘇我のキスは、いつも奪うだけのものだった。私の意思なんて関係なく、彼の欲望を満たすためだけの行為。そこには、何の温かみも優しさもなかった。
でも、今のは違った。
それは、まるで壊れ物に触れるかのような、大切な相手を慈しむキスだった。
「……だめだ」
私は、かぶりを振った。
熱くなった頬を、両手でパンと軽く叩く。
「勘違いするな、滝乃川岬」
自分にそう強く言い聞かせた。
あのキスは挨拶だ。きっと、そうだ。
欧米では、親しい友人同士で頬にキスをするなんて、当たり前のことだと、映画か何かで見たことがある。
彼は、私を「共に戦うパートナー」だと言ってくれた。だから、これは親友の証、あるいは同志としての親愛の表現。それ以上でも、それ以下でもない。
決して、恋愛感情なんて、あるはずがない。
彼は、エリオット・ハルフォード。世界最強国家の大統領の息子で、自身も若くして成功を収めた完璧超人。彼がその気になれば、世界中のどんな美しい女性だって、思いのままになるだろう。
そんな彼が、どうして私なんかを?
私は、勤めた会社をクビになり、恋人には寄生され、過去にはいじめられ、何の取り柄も自信もない、空っぽの女。
あり得ない。
彼が私に見せている優しさは、全て、私が彼の命を救ったことへの「恩」が根底にあるはずだ。
彼は、誠実な人間だから。受けた恩は、何倍にもして返さなければ気が済まないのだろう。
だから、私を励まし元気づけるために、あんな芝居がかったことをしてみせたに違いない。
そうだ。きっと、そうに違いない。
そうでなければ辻褄が合わない。
うぬぼれるな。
期待するな。
傷つきたくないだろう?
また、蘇我にされた時のように、全てを奪われて、空っぽになりたいのか?
心の奥で、臆病なもう一人の私が、必死に警告を発していた。
今は、そんなことにうつつを抜かしている場合じゃない。
私の目的は、ただ一つ。復讐だ。
私を苦しめたクズどもに、彼らが私から奪ったもの以上の代償を支払わせること。
そのためには、冷静でいなければならない。冷徹でなければならない。
私は、ゆっくりと立ち上がると、再びベッドルームへと戻った。
ベッドに潜り込み、天井のシャンデリアを見つめる。その光が、なぜか少しだけ滲んで見えた。
生涯で、最高に密度の高い一日だった。
ジェットコースターなんて、生易しいものじゃない。まるで、成層圏まで打ち上げられて、そこから真っ逆さまに急降下したかのような、目まぐるしい一日。
喜び、悲しみ、怒り、恐怖、決意、安堵、戸惑い、そして、微かなときめき。
ありとあらゆる感情が、ごちゃ混ぜになって、私の心の中で渦を巻いている。
もう、考えるのはよそう。
今はただ、眠ろう。明日からは、戦いが始まるのだから。
私は、様々な思いを抱いたまま、ゆっくりと目を閉じた。
心身ともに、もう限界だった。
思考が少しずつ、靄がかかったように曖昧になっていく。
ようやく、意識が深い海の底へと沈んでいく。
長い一日が、やっと終わろうとしていた。




