2-10 Good-night Kiss
エリオットの言葉に、尖った心が次第にほぐれていく思いがした。
だが一方では、心のどこかで、警報が鳴っている。
蘇我智和との日々が、私の心に深い傷跡を残していた。
あの男は、いつだって甘い言葉を囁いた。感謝と愛情を巧みに使い分け、私を支配し、搾取した。彼の「ありがとう」は、いつだって見返りを求めるための伏線だった。
だから、怖いのだ。
男性からの真っ直ぐな好意や感謝の言葉が。その裏にある、見えない意図を探ってしまう。
この人も、そうかも知れない。
私が、たまたま彼の命を救ったから。何らかの利用価値があると思っているから。だから、こんな風に親切にしてくれるんだ。
決して、滝乃川岬という、空っぽで、何の取り柄もない女に、特別な感情を抱いているわけではない。
そうに決まっている。こんな完璧な男性が、私なんかに。
「……私は、大したことは何もしていません。すべては偶然で、運が良かっただけです」
気づけば、私は自分を卑下するような言葉を口にしていた。いつもの悪い癖だ。
私の言葉を聞いたエリオットは、悲しそうに眉を寄せた。
「ミサキ。どうして、そんな風に言うんだ?」
「……事実ですから」
「違う」
彼は、きっぱりと否定した。
「君は、自分の価値を分かっていない。君がしたことは単なる幸運ではない。それは、君の鋭い観察眼と、何よりも理不尽に屈しないという強い意志が生んだ、必然の奇跡だ」
彼の言葉は、まるで私の心の奥底まで見透かしているかのようだった。
「君が私の命を救った。君が、臆病で人が怖いと言いながら、それでも勇気を振り絞ってくれたから、私は今、こうしてここにいる。……分かるかい? 私が感謝しているのは、君の在り方そのものになんだ」
私の在り方。
そんなことを言われたのは、生まれて初めてだった。
誰も、私のことを、そんな風に見てくれなかった。
それなのに、この人は。
出会ってまだ半日も経っていないこの人は、私の最も深いところにある、自分でも見たくなかったはずの心の芯を、肯定しようとしてくれている。
「だから……」
エリオットは、さらに一歩、ドアに近づいた。チェーンがなければ、肌が触れ合ってしまいそうなほどの距離。彼の体温が、ドアの隙間を通して伝わってくるようだった。
「命の恩人だからじゃない。一人の女性として、君をもっと知りたい。君という人間を、もっと深く理解したいんだ。君が抱えている痛みも、苦しみも、そして、その奥にある本当の輝きも。……君のためなら何でもするというのは、誇張じゃない。本心だ」
真っ直ぐな告白。
それは、どんな甘い愛の言葉よりも、私の心を激しく揺さぶった。
蘇我の言葉は、いつだって私を縛り付けるための檻だった。
でも、エリオットの言葉は、私を檻から解き放ち、自由な空へと羽ばたかせてくれる翼のようだった。
私は、何も言えなかった。
言葉を失って、ただ彼の深い青色の瞳を見つめることしかできない。
その瞳に吸い込まれそうになった、その刹那だった。
エリオットが、ドアのわずかな隙間から、そっと顔を寄せた。
彼の整った顔が、目の前に迫る。
そして、私の頬に、柔らかく温かいものが、優しく触れた。
「……!」
それが、彼の唇だと理解するのに、数秒かかった。
ほんの一瞬。触れたか触れないかくらいの、羽のように軽いキス。
けれど、その感触は、まるで雷に打たれたかのように私の全身を駆け巡った。
彼の香りが、ふわりと鼻腔をくすぐる。それは、雨の匂いと上質な香水と、そして彼自身の清潔で甘い匂いが混じり合った、心を落ち着かなくさせる香りだった。
「おやすみ、ミサキ」
囁くような声と共に、彼の唇が離れていく。
彼は、いたずらが成功した子供のような、少しだけはにかんだ笑みを浮かべると、私に背を向け、静かに廊下を去っていった。
私は、その場に立ち尽くしていた。
彼の足音が遠ざかり、完全に聞こえなくなっても、私は動くことができなかった。
ただ、呆然としていた。頬に残る、彼の唇の感触と温かさを、繰り返し反芻しながら。




