2-9 逢い引き
誰? こんな時間に?
岬の全身が硬直する。
広尾は、明朝八時に来ると言っていた。大使館の職員だろうか。それとも、何か緊急事態でも発生したのか。
一瞬、狙撃犯による襲撃という考えが脳裏をよぎり、背筋が凍った。
いや、落ち着け。ここは大統領執務室と同じセキュリティレベルだと、広尾は言っていた。
恐る恐るベッドから起き上がり、リビングにあるインターホンのモニターに近づく。
画面に映し出された訪問者の姿を見て、私は息を呑んだ。
「エリオット……さん?」
そこに立っていたのは、エリオット・ハルフォード、その人だった。
彼は、作戦司令室にいた時と同じネイビーのスーツ姿で、少し気まずそうにカメラを見ている。
『ミサキ。夜分に、本当にすまない』
スピーカー越しに聞こえてきた彼の声は、少しだけ掠れていた。
『眠っているところを起こしてしまっただろうか』
「い、いえ。まだ起きていましたから」
なぜ、彼がここに?
作戦に何か進展があったのなら、モニター越しに話せばいいはずだ。わざわざ、私の部屋まで直接訪ねてくるなんて。
私の思考が混乱していると、彼が続けた。
『少しだけ、君の顔を見て話がしたいんだ。もちろん、君が迷惑でなければだが』
彼の言葉は、どこまでも紳士的で、私の意思を尊重するものだった。断ることは、もちろんできた。けれど、なぜか、私はそれをしたくなかった。
「……分かりました。少し、待ってください」
インターホンを切り、私は慌てて自分の姿をチェックする。
髪はまだ半乾きだし、着ているのは備え付けのペラペラな部屋着だ。こんな姿で、彼に会うわけにはいかない。
クローゼットを急いで開ける。そこには、私のサイズに合わせて用意されたのであろう、数着の新しい服が並んでいた。だが、今から着替える時間はない。
私は、先ほどまで羽織っていたバスローブを、部屋着の上から慌てて羽織った。そして、深く息を吸い、覚悟を決めて玄関ドアへと向かった。
ドアスコープから外を覗くと、彼は静かにドアの前に立っていた。廊下の暖色の照明が、彼のプラチナブロンドの髪を柔らかく照らしている。
私はドアチェーンをかけたまま、ゆっくりと、ほんの少しだけ扉を開けた。
「あの、何か……?」
ギィ、と小さな音を立てて開いたドアの隙間から、エリオットの姿が見える。
彼の深い青色の瞳が、私を真っ直ぐに捉えた。その瞳の奥に、今まで見たことのない熱が宿っているような気がして、私は少しだけたじろいだ。
「すまない。どうしても君と直接、話をしたくて来てしまった」
彼の表情は真剣そのものだった。
心なしか、彼の顔は少し上気しているように見える。作戦のことで興奮しているのだろうか。それとも、何か別の理由があるのだろうか。
「作戦に何か?」
「いや、作戦は順調だ。今も、我々のチームが全てを完璧に進めている。それについては、何も心配いらない」
「では、どうして……?」
私の問いに彼は一瞬だけ言葉を詰まらせ、それから、意を決したように口を開いた。
その声は、静かな夜の空気に溶けるような、優しいテノールだった。
「君に、礼が言いたかったんだ。改めて、私の命を救ってくれたことへの感謝を」
「そんな……。それは、もう何度も聞きました。それに、私はもうお礼として、あり得ないほどのものをいただいています」
大統領の娘という地位。絶対的な安全。そして、復讐を遂行するための絶大な力。
これ以上の礼など、あるはずがない。
「それはそれだ。私の父……大統領からの、国家としての礼だ。そうではない。私個人として、エリオット・ハルフォードという一人の人間としての感謝を、君に伝えたかった」
彼の言葉が、私の心の柔らかい部分を、そっと撫でる。
だが、私は素直にそれを受け取ることができなかった。




