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2-8 眠れないスイートルーム

 作戦司令室の空気から解放され、私は再び広尾さやに案内されていた。

 彼女の背中は、定規で引いた線のように真っ直ぐで、足音一つ立てずに静かな廊下を進んでいく。

 まるで、ここは現実の世界ではないみたいだ。私が暮らしていた安アパートや、息の詰まるオフィスとは、何もかもが違う。


 案内されたのは、大使館の宿泊施設の中でも、最高ランクであろうスイートルームだった。

 広尾がカードキーで扉を開けると、センサーが反応して、部屋中の照明が柔らかく灯る。


「……すごい」


 思わず、ため息が漏れた。

 リビングだけで、私が今まで住んでいた部屋の三倍はありそうだ。床には、足が沈み込むほどに毛足の長い絨毯が敷かれ、壁には現代アートと思われる抽象画が飾られている。

 窓の外には、ライトアップされた美しい庭園と、眠らない都市・東京の夜景が、宝石箱をひっくり返したように広がっていた。


「岬様専用の客室です。滞在中は、ご自由にお使いください。バスルームはこちらに。アメニティは一通り揃っております。何か必要なものがあれば、そちらのタブレットからいつでもコンシェルジュにご用命を」


 広尾は、そつなく淡々と室内を説明する。

「なお、この部屋のセキュリティは、大統領執務室と同等レベルです。アリ一匹すら侵入することはできません。ご安心してお休みください」


「ありがとうございます。何から何まで……」

「当然の務めです。では、私はこれで。明朝、八時に改めてお迎えに上がります」


 広尾は深く一礼すると、音もなく部屋から退出していった。重厚なドアが静かに閉まり、部屋には完全な静寂が訪れる。


 一人きりになった途端、張り詰めていた緊張の糸が、ふつりと切れた。私は、吸い寄せられるようにリビングのソファに倒れ込む。上質なベルベットの感触が、疲弊しきった体を優しく受け止めてくれた。


 天井を見上げる。シャンデリアのクリスタルが、きらきらと複雑な光を反射していた。

 数時間前まで、私は渋谷の雑踏の中で、雨に打たれながら、理不尽な人生を嘆いていたというのに。

 それが今や、世界最強国家の庇護の下、これから始まる復讐計画の司令塔として、こんな場所にいる。


 これは、夢なのだろうか。

 そうでなく、あの交差点で、私は本当は撃たれて死んでいて、これはただの都合のいい走馬灯なのかもしれない。


 そんな非現実的な思考が頭をよぎる。

 私はゆっくりと起き上がり、バスルームへと向かった。大理石の床は、ひんやりとしていて気持ちがいい。鏡に映った自分の姿は、ひどい有様だった。

 すでに部屋着に着替えてはいたけれど、髪はボサボサで、目の下には隈がうっすらと浮かんでいる。

 何より、その瞳には、恐怖と興奮と疲労がごちゃ混ぜになった、不安定な光が宿っていた。


 熱いシャワーを浴びることにした。勢いよく流れ落ちるお湯が、冷え切った体を芯から温めてくれる。目を閉じると、今日の出来事が、まるで映画のハイライトシーンのように、次から次へと脳裏に蘇ってきた。


 シャワーを終え、バスルームに備え付けられていた、新しい部屋着に袖を通す。濡れた髪をタオルで拭きながら、ベッドルームへと向かった。

 キングサイズのベッドは、まるで雲の上にいるかのような寝心地だった。シーツはパリッとしていて、清潔な香りがする。


 もう、何も考えたくない。

 今日は、あまりにも多くのことがありすぎた。

 私は、ただ眠りたかった。どこまでも深い眠りに落ちて、この目まぐるしい現実から、一時だけでも逃げ出したかった。


 目を閉じる。だが、神経は刃物のように研ぎ澄まされ、脳は勝手に思考を続けている。

 とても疲れているのに、眠れない。布団に潜り、無理やり意識を沈めようとした、その時だった。


 静寂を破るように、部屋のインターホンが鳴った。

 そのクリアな音に、私の心臓は驚きで大きく跳ね上がった。


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