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17-1 総理は大統領の奴隷

 早朝。永田町にある総理公邸は死んだような静寂に包まれていた。

 カーテンの隙間から薄い朝の光が差し込む寝室で、総理の須磨光一(すま こういち)は、浅い眠りの中を彷徨っていた。


 連日の国会対応と支持率低下に伴う党内からの突き上げにより、彼の心身は限界に達していた。ようやく訪れた短い休息の時間。しかし、それさえも無慈悲な電子音によって破られることとなる。


 ブーッ、ブーッ、ブーッ。


 枕元のサイドテーブルに置かれた、黒い薄型の固定電話が鳴動した。

 それは家族や秘書官からの連絡ではなかった。世界でたった数人の人間だけが番号を知る、最高機密の直通回線による連絡。


 須磨は弾かれたように跳ね起き、額に冷や汗を滲ませた。

 この時間の直通電話。ろくな用件であるはずがない。某国のミサイル発射か、大規模災害か、あるいは――。


 震える手で受話器を取る。

「……はい、須磨です」


『おはよう。素晴らしい朝だね、総理』


 受話器の向こうから聞こえてきたのは、通訳を介さない流暢すぎる日本語だった。

 その声を聞いた瞬間、須磨の胃が鉛を飲み込んだように重くなる。


 相手はアメリア連邦国大統領、ガブリエル・ハルフォード。

 世界最強の権力者であり、須磨にとっては半ば主君のような男だ。


「おはようございます、大統領閣下。朝早くから、どうされましたか」


 須磨は必死に平静を装い、かすれた声を絞り出した。

 ガブリエルの声色は明るく、まるで旧友にゴルフの誘いでもかけるかのように軽やかだ。


 しかし、須磨は知っている。この男が親しげに話す時ほど、理不尽な要求が突き付けられるであろうことを。


『朝早くからすまないね。なに、君に伝えておきたい情報があってね』


 ガブリエルの「すまない」という言葉に謝罪の意味など微塵もない。

 須磨はベッドの端に腰掛け、思わず姿勢を正してしまう。


『さっそく本題だ。立産(りっさん)自動車のCEO、カロル・ドーンのことだ。先ほど彼がアメリアと日本の安全保障を脅かす敵だと一〇〇パーセント確定した』


「……は?」

 唐突な話に須磨の思考が追いつかない。立産といえば日本を代表する巨大企業の一つだ。そのトップが国家の敵?


『奴は私腹を肥やすだけでなく、裏でテロリストへの資金提供や軍事技術の横流しを行っていた。以前からマークはしていたのだがね。決定的な証拠が出た。実際に奴は敵国のスパイと接触している。よって、ドーンは即逮捕してアメリア本国へ移送し裁判を受けさせることにした』


 ガブリエルは、用意された原稿を読み上げるように淡々と告げた。


 須磨は絶句した。日本企業のトップを他国の大統領が独断で逮捕し、連れ去って他国で裁判をするなど、日本の主権が(ないがし)ろにされてしまう暴挙だ。


「ま、待ってください!仮にドーン氏が罪を犯していたとして、日本国内で捜査し、日本の裁判で裁くのが筋なのでは?いきなりアメリアへ移送というのは、あまりに乱暴すぎます!」


 須磨は必死に食い下がった。

 だが、ガブリエルは豪快に笑い飛ばした。


『ハハハ!これはサービスだよ総理。日本の裁判は判決が出るまでに時間がかかり過ぎるだろう?それにドーンほどの大物だ。優秀な弁護団を雇い、万が一にも軽微な罪や無罪を勝ち取られたら目も当てられない。だがアメリアの裁判なら迅速かつ確実に彼を地獄へ送ることができる』


「しかし……!」


『いいじゃないか。私たちは親友だろう?厄介者は私が引き受けると言っているんだ。私に任せたまえ』


 親友。

 その言葉は須磨にとって、「共犯者」あるいは「奴隷」と同義だった。

 政界のフィクサーである岸波文男も含め、民自党の主要議員の弱みは、全てアメリア国に握られている。逆らえば自身の政治生命はおろか、日本国内で生きていくことすら不可能になるだろう。


『それと、もう一つ』

 ガブリエルは畳み掛けるように続けた。


『立産自動車は我が国のEV企業「テプラ」に買収させることにした。どうせドーンが逮捕されれば立産の株価は急落し、経営は立ち行かなくなる。ならば、先手を打って買収という救いの手を差し伸べようと思ってね。友好的な買収だ。よろしく頼むよ』


「なっ……」

 須磨は言葉を失った。

 ドーンの逮捕をマッチポンプにして日本の主要企業の一つを、アメリア企業が安値で乗っ取る。救いの手などではない。これは体のいい強奪だ。

 だが、今の須磨にそれを止める術はない。


「……分かりました。関係各所には話を通しておきます」

 そう答えるのが精いっぱいだった。


 屈辱と無力感で、受話器を握る手から血の気が引く。

 早朝から最悪の悪夢を聞かされている気分だ。

 これで用件は終わりだろう。須磨は逃げるように受話器を置こうとした。


『待ってくれ。もう一つ頼みがある』


 まだ何かあるのか。

 須磨は奥歯を噛み締め、耳を澄ませた。


『この後すぐ、横須賀市内の電力網と通信ネットワークを全て断ってくれ』


「はい?」

 須磨は自分の耳を疑った。


『一時間だけでいい。君の権限なら、そのくらい出来るだろう?総理なのだから』


 あまりにも突飛で正気を疑う要求だった。

 一都市のインフラを、予告なしに完全に停止させる。信号は消え、非常用電源を備えていない病院の機器は止まり、市民生活は大混乱に陥るだろう。人命に関わる事故も起きかねない。


 須磨は、こめかみの血管が脈打つのを感じた。吐き気と眩暈で卒倒しそうになる。


(よりによって俺の地元じゃないか……)


 横須賀は須磨の選挙区だ。自分の地盤である街を自らの手でパニックに陥れろと言うのか。


「可能な限り努力します。ですが、一体何のためにそのようなことを?」

 せめて理由だけでも知らなければ。彼は縋るような思いで尋ねた。


 ガブリエルは楽しげに言った。

『横須賀にはドーンの別邸がある。巣穴に潜むドーンを追い詰めるためにミサイルを打ち込んでDIAを突入させる予定なんだが、あまり一般市民に映像を拡散されたくない。だからスマホも電子機器も使えないようにしたいのさ』


 もう、これ以上何も聞きたくなかった。


「……承知いたしました」

 須磨は感情を殺して答えた。


『では良い一日を。失礼する』

 ガブリエルは須磨の回答に満足したのが、あっさりと通話を切った。


 電話が切れた後も、ツーツーという無機質な電子音だけが、広い寝室に虚しく響く。

 受話器を置いた須磨は、そのままベッドに倒れ込んだ。天井のシャンデリアが涙で滲んで歪んで見える。


 国民を守るべき総理大臣が外国の言いなりになって、自国民を危険に晒す。

 売国奴。

 その言葉が頭の中で何度もリフレインした。

 それでも従うしかなかった。今の地位と己の命を守るためには、悪魔に魂を売り渡すしかないのだ。


「クソッ……!クソッ……!」


 須磨は枕に顔を埋め、獣のような唸り声を上げた。

 しかし、その嗚咽を聞く者は誰もいない。

 日本の頂点に立つ男は、世界で最も孤独な奴隷だった。


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