15-2 復讐に引き際を
『……聞こえるか千景、俺だ』
千景にとっては、世界で最も心地よい低く粘着質な響き。
平泉潤二郎の声だった。
その声はピアスの微弱な電波が頭蓋骨を振動させることで、脳内に直接声を届けていた。千景は脳髄を直接愛撫されているような錯覚を覚える。
『すまない、大使館内だと通信を傍受される恐れがあったので連絡できなかった。早く会いたい。今から伝える場所に向かってくれ』
彼の謝罪の言葉すら千景には愛の囁きに聞こえた。
親友の言葉に耳を貸さず、広尾の命を奪ったことへの罪悪感など微塵もない。あるのは、ただ彼に求められているという恍惚感だけ。
千景は夜空を見上げた。東京の濁った空すらも今では美しく見える。
自分の声が、このピアスを通じて平泉に届くのかは分からない。
それでも千景は恋する乙女のように頬を染め、小さな声で返事をした。
「私も会いたい。すぐに向かうわ」
幸いスマホは、ずっと懐に携えていた。道中で迷うことは無いだろう。
彼女は、指定された待ち合わせ場所に向かって走り出した。
もはや千景は平泉の意のままに動く哀れな操り人形でしかない。
誠実で正義感の強い人間ほど、心の隙を突かれれば簡単に染められてしまう。
◇
千景が大使館を去った直後。
息を切らし庭園に飛び込んできた岬は、広尾を発見する。
彼女は微動だにしていない。
広尾の上半身を起こすと、彼女の眼光は既に失われていた。胸元には赤黒い染みが広がっていて、致命傷であることは素人目にも明らかだった。
「……広尾さん?」
岬の声は震え、空気の抜けた風船のように頼りなかった。
恐る恐る手を伸ばして広尾の頬に触れる。
冷たい。
人間が持つ温もりは完全に欠落していた。
「私の……せいだ」
岬の唇から絶望がこぼれ落ちる。
復讐なんて考えなければ。大人しくしていれば。
水戸や古河への制裁とは訳が違う。これは明確な殺人であり、その最初の引き金を引いたのは、平泉への復讐を果たしたいという自分の我がままが発端なのではないか。
広尾さやという女性とは短い付き合いだった。しかし、彼女は仕事に忠実で、岬に対しても常に誠実な人だった。情もあった。
胃の奥から嘔吐感がせり上がってくる。
岬は震える指でスマートフォンの画面を操作した。
視界が涙で滲み、何度もタップし損ねる。ようやくエリオットの名前に指を置く。
コール音は二回で途切れた。
『ミサキ、何かあったのか?』
「エリオットさん……」
『どうしたんだ?』
彼女の異変を察知し、エリオットの声色が鋭くなった。
「広尾さんが……死んでるの……」
言葉にした瞬間、圧倒的に残酷な現実が岬の心を切り刻んだ。
「庭で……、血だらけになってて……動かないの……!私が、私が復讐なんてしようとしたから……千景が……広尾さんを!ああっ!」
支離滅裂な言葉と押し止められない泣き声。
電話の向こうで、エリオットが息を呑む気配がした。
彼は状況を理解したのだろう。それ以上に余計な問いかけはしなかった。
『ミサキ、落ち着いて聞くんだ。僕は直ぐに戻る。大使館の職員に必要な指示は出しておく。君は部屋に帰って休むんだ』
そう告げて通話を切った車中のエリオットには、ある考えが浮かんできた。
岬に復讐を続けさせることの危険性を説き、幕引きを図ろうという考えが。
水戸や古河のような小悪党への復讐とは違い、平泉のような得体の知れない国際組織と繋がっている男への復讐は、これまでのように容易くはない。
アメリア国の力で平泉を捕らえ復讐を果たしたとしても、それで全ては終わらない。
岬は死ぬまで敵対組織から追われ、常に命の危険と隣り合わせの生活を余儀なくされるかも知れないのだ。
それは本当に彼女にとって幸せと呼べるものなのだろうか?
いつか、後悔する日がくるのではないだろうか?




