14-9 さや絶命
夜明け前の庭園は深海のような静寂に包まれていた。
都心とは思えないほど澄んだ冷気が漂い、手入れの行き届いた植栽のシルエットが闇の中にそっと浮かび上がっている。
石畳を歩く大洗千景の足音だけが、ゆっくりとリズムを刻んでいた。
その数メートル後方を、広尾さやがつかず離れずの距離を保って追従する。
広尾の神経は研ぎ澄まされていたが、あくまで警戒対象は外部からの侵入者であって、目の前を歩く華奢な女性ではなかった。
千景はあくまで「保護対象」であり岬の親友であるという事実が、広尾の無意識下に「安全な存在」という認識を植え付けてしまっていた。
不意に千景が足を止めて振り返る。
「広尾さんは、日本人ですよね?どうしてアメリア国のために働いているんですか?」
唐突な問いかけだった。
広尾は足を止め、千景の瞳を見つめ返す。暗がりでも分かるほど彼女の瞳は爛々としていたが、広尾はそれを情緒不安定ゆえのものだと解釈した。
「一言でいえば、今のボスであるエリオット・ハルフォードが私の恩人だからです」
「……いい出会いに恵まれたんですね」
「はい。だから私は、エリオット様とアメリア国のためなら、いつでも命を賭ける覚悟があります」
広尾の声には迷いがなかった。それは彼女の信念であり誇りだった。
しかし、その言葉が千景の脳内に仕掛けられた「鍵」を回したことに、広尾は気づく由もなかった。
千景が、ゆっくりと広尾に向かって歩み寄ってくる。
その表情から険しさが消え、どこか夢見心地で恍惚とした笑みが浮かんでいた。
「あなたほどではないけれど、私も自分の人生と命を捧げてもいいと思う相手ができた。それが平泉潤二郎なんです」
千景は広尾の目と鼻の先まで接近した。
広尾は動じずにその言葉を聞いていた。
やはり、洗脳は根深い。エリオットや岬の同意が得られたら、もっと本格的な措置を講じなければならないだろう。解けない洗脳には、より強力な上書きすら必要になるかもしれない。
そんな思考を巡らせていた広尾の耳に、千景からの決意を込めた囁きが届く。
「だから、私も覚悟を示したい。自分へ向けて、潤二郎に向けて」
千景の右手が吸い込まれるように懐へと伸びる。
「受け取ってください。私の覚悟を」
――スパッ。
存外に軽い刃音が静寂な庭園に響いた。
広尾の思考が空白に染まる。
痛みよりも先に感じたのは、首筋に走る熱い違和感だった。
抵抗する暇などなかった。
広尾は自分自身の頸動脈が切り裂かれ、そこから勢いよく鮮血が噴き出す光景を、まるでスロー再生の映画でも眺めるかのように呆然と見つめていた。
千景の手には血に濡れた折りたたみナイフが握られていた。
それは以前、平泉潤二郎から「お守り」として渡されたプレゼントだった。
岬の親友であり、軽装であった千景に対し、広尾やエージェントたちは所持品検査を実施していなかった。
そして何より、平泉は千景の脳内に恐るべき起動命令を埋め込んでいたのだ。
――『アメリア』と『命』。この二つの言葉を一度に口にする者が現れた時、その刃で攻撃しろ。それが僕への愛の証明だ。
催眠によるトリガーが引かれ、千景は迷いなく愛の証明を実行した。
世界が傾く。
広尾は膝から崩れ落ち、受け身を取ることさえできずに、前のめりに地面へと倒れ込んだ。
冷たい石畳に温かい血液がどくどくと流れ出し、赤い水たまりを作っていく。
辺りには他に誰もいない。夜明け前の闇が惨劇を静かに飲み込んでいる。
「あ……が……」
喉から漏れるのは言葉にならない気泡の音だけ。
急速に失われていく意識の中で、広尾は猛烈な後悔に襲われていた。自分の甘さが、この結末を招いたのだ。
(早く連絡を……エリオット様、いえ岬様に……)
地面に伏したまま、震える指先だけでスマートフォンを取り出す。
急速に視界が霞み、指の感覚が遠のいていく。
残る力のすべてを振り絞り、ロックを解除して受話器のアイコンをタップする。
プルルルル……プルルルル……。
静まりかえった庭園に電子音が虚しく響き渡る。
それが、広尾さやがこの世に残した最後の音だった。
岬が電話に出るよりも早く広尾の瞳から光が失われ、その手からスマートフォンが滑り落ちる。
物言わぬ骸となった広尾を一瞥もせず、大洗千景は血濡れのナイフを握りしめたまま、門の方向へと走り出した。




