14-4 ヒューマン・エンハンスメント
事態の急変に岬は悲鳴のような声を上げた。
「エリオットさん!」
しかし、エリオットは振り返ることなく、広尾に鋭い声で命じた。
「僕のことはいい。広尾は早く岬と千景を連れて、この場から離脱するんだ!」
「承知しました!」
広尾は瞬時に判断を切り替え、岬の腕を引く。しかし、もう一人――この騒動の中心にいる女性は、狂気じみた執着を見せていた。
「待って岬!私は潤二郎と離れたくない……!」
千景が叫ぶ。その瞳はどこか焦点が定まっておらず、平泉による極度のマインドコントロールを受けているのは明らかだった。
その姿を見るたび、岬の胸は張り裂けそうなほど痛んだ。
「千景、詳しい話は後で!お願いだから来て!」
岬は涙を堪え、千景の手を強く握り返す。広尾と数名の女性エージェントたちがフォローし、半ば強引に千景を車へと押し込んだ。
抵抗する千景の細い身体が、黒い車内へと吸い込まれていく。
ここでDIAの部隊は、岬と千景を搬送する広尾のチームと、その場に留まりエリオットの護衛にあたるチームの二手に分かれ、別行動を開始した。
岬たちを乗せた車のエンジンが始動し、タイヤがアスファルトを噛む。
走り去ろうとする車を見て、平泉が声を荒らげた。
「待て!千景を連れて行くな」
平泉が一歩踏み出そうとした瞬間、エリオットがその進路を塞ぐように立ちはだかる。
「今は彼女より自分の心配をした方が賢明だと思うが?」
「チッ、まあいい。お前を倒して取引材料にすれば釣りがくるしな」
平泉は舌打ちをし、憎々しげにエリオットを睨みつけた。今は千景よりも目の前の大物を喰らうことへの欲望が勝ったようだ。
彼は歪んだ笑みを浮かべ、自身の勝利を確信しているかのように肩を回す。
「大した自信だな。いくぞ!」
エリオットが低く唸るような声を発した。
次の瞬間、彼の身体が弾かれたように前方へと飛び出した。
速い。
人間離れした瞬発力で平泉との間合いを一瞬にして詰める。エリオットは跳躍し、その長い脚を鞭のようにしならせ、平泉の側頭部めがけて鋭利な飛び蹴りを放った。
ドッと鈍い衝撃音が路地裏に響き渡る。
エリオットの放った渾身の飛び蹴りは、平泉の側頭部を捉える寸前、とっさに掲げられた左前腕によってブロックされていた。
まるで鉄柱を蹴ったかのような硬質な感触が、エリオットの脚へと伝わる。
「ほぅ、素晴らしい反応だ。アメリア軍の特殊部隊にスカウトしたいくらいだ」
着地と同時にエリオットは軽口を叩いたが、その瞳は笑っていなかった。
今の蹴りは、一般人なら首がへし折れていてもおかしくない威力だったはずだ。それを平然と受け止めつつも反撃の構えは解いていない。
「お前の下で働くなんて御免だな。それより、その蹴りはムエタイだな」
平泉はブロックした腕をブラブラと振り、口の端を吊り上げてニタリと笑った。
蹴りを防がれたエリオットは、バックステップで即座に距離を取る。
平泉の立ち方は、重心を小刻みに揺らす独特のリズムを刻んでいた。
「……そのスタイルはボクシングだな」
「まあな。とある国で身につけた。人間強化もセットでな」
「人間強化だと……?」
エリオットが眉をひそめた瞬間、平泉の姿がブレた。
予備動作が皆無だった。
アスファルトを蹴る踏み込み音と同時に、平泉の身体が弾丸となってエリオットの懐に一瞬で飛び込んでくる。
「おらぁっ!」
掛け声と共に放たれたのは、視認することすら困難な左ジャブの連打だった。
シュシュシュ、と空気を切り裂く音が連続して鼓膜を叩く。
エリオットは即座に両腕を高く上げ、顔面を覆うピーカブースタイルで防御を固めた。
わざと顔面を狙ってパンチの雨を浴びせてくる平泉の拳は、一発一発が体ごと吹き飛ばされそうなほどの重さを持っていた。
ガードの上からでも骨がきしむほどの衝撃。
(何という速さだ……!いくら何でも人間離れしている……)
エリオットの動体視力をもってしても、平泉の拳の軌道が追いきれない。
拳の重さだけでなく、ここまで休みなく連打を持続できる点も脅威だった。
これが、奴の言う人間強化の恩恵なのか。
防戦一方になり、じりじりと後退を余儀なくされるエリオットを見て、平泉が勝利を確信した下卑た笑みを浮かべる。
「おいおい。こっちは本気の半分も出してねぇぞ」
平泉の瞳孔が開き、恍惚とした表情で叫ぶ。
次の瞬間から彼が繰り出す拳のスピードが、さらにギアを上げた。
「――!」
ガードの隙間を縫うように、鋭利なアッパーカットが突き上げられた。
エリオットは首をひねって直撃を避けたが、拳の風圧が皮膚を切り裂く。
コンマ一秒の判断の遅れ。
防御の姿勢が崩れたところへ、右のフックが襲いかかった。
ガッッ!
エリオットは辛うじて肩で威力を殺そうとしたが、完全には防ぎきれなかった。
強烈な衝撃が頬をかすめ、脳が揺さぶられる。
エリオットの身体が紙屑のように後方へと吹き飛ばされた。
周囲で遠巻きに待機していたエージェントたちが慌てて駆け寄り、エリオットの背中を受け止める。
エリオットは口元を拭い、掌についた赤い血を見て目を細めた。
「どうだ?俺のパンチは結構効くだろ?もう負けを認めるか?」
平泉は両手の拳を胸の前で合わせ、勝ち誇ったように見下ろしてくる。
「まさか」
エリオットは短く答えると、乱れた呼吸を整えながら体勢を立て直す。
強がってはみたものの、背中には冷たい汗が伝っていた。
まともに真正面から殴り合うのは分が悪い。
スピードも攻撃力も差があり過ぎて、このままではジリ貧だ。
(このままでは負ける。何か、平泉の弱点や……突破口になるものが必要だ)
この窮地においても、エリオットは冷静に逆転への糸口を探し続けていた。
いかなる時も、世界最強大統領の息子は諦めない。




