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2-4 母に告げる決意

 千景との通話が切れた後も、岬はしばらくスマートフォンの画面を眺めていた。

 温かい言葉の余韻が、まだ胸の中に残っている。

 だが、もう一人、伝えなければならない人がいる。

 この世界で、たった一人の本当の家族。


 スマホの連絡先リストをスクロールする指が、ある名前の上で止まった。

『母』。

 その文字を見ただけで、胸の奥がキュッと締め付けられる。

 発信ボタンを押すのを、ためらってしまう。


 何を、どう話せばいい?

 心配をかけたくない。けれど、嘘はつけない。

 数年前に父が家を出て行ってから――いや、もっと前から、母は女手一つで岬を育ててくれた。自分のことは後回しで、いつも岬の幸せだけを願ってくれていた。そんな母に、これから自分がしようとしていることを、どう説明すればいいのだろう。


『あなたの人生なんだから、好きに生きなさい』


 それが母の口癖だった。だが、その言葉が、これから行う復讐という名の茨の道にまで向けられる優しさだとは思えなかった。


 それでも、伝えなければならない。

 この戦いは、母から与えられたこの人生を、自分の手に取り戻すための戦いでもあるのだから。


 岬は覚悟を決め、深く息を吸ってから、発信ボタンを押した。

 コール音が、やけに長く感じられる。二回、三回。心臓の音が、耳元で大きく鳴り響いた。


『……岬!?』


 呼び出し音が途切れると同時に、受話器の向こうから、母である滝乃川美里(たきのがわ みさと)の切羽詰まった声が飛び込んできた。その声色だけで、母がどれほど心配していたかが痛いほど伝わってくる。


『あなた、無事なのね!? ニュース見たわよ!』


「うん、大丈夫。怪我もないし、今は安全な場所にいるから」


 できるだけ落ち着いた、優しい声で応える。だが、自分の声がわずかに震えているのが分かった。


『よかった……本当によかった……』


 受話器の向こうで、母がほっと息を吐く気配がした。その安堵の声を聞いて、岬の目頭がじわりと熱くなる。


「ごめんね、心配かけて」


『謝らないで。あなたが無事なら、それだけでいいの。……それで、一体どういうことなの? テレビでは“偶然の彼女”なんて騒がれているけれど……』


 どこから話すべきか、岬は言葉を選んだ。交差点で起きたこと。自分がしたこと。そして、大統領とその息子に出会い、今、大使館に保護されていること。

 そこまで一息に話すと、母は息を飲んだまま、黙って聞いていた。


「それでね、お母さん。ここからが大事な話なんだけど」


 岬は一度言葉を切り、ごくりと喉を鳴らした。


「私、その……大統領の“形式上の娘”になる手続きをしたの」


『……え?』


 母の戸惑いが、電話越しにひしひしと伝わってくる。無理もない。突拍子がなさすぎる話だ。


「もちろん、本当の家族になるわけじゃないの。あくまで、私の身の安全を守るための法的な手続き。名字も滝乃川のまま。でも、これでもう、誰も私に手出しはできなくなる」


『……そう……』


 母の声は、まだ混乱しているようだった。

 岬は、言葉を続けた。自分の本当の覚悟を、伝えなければならない。


「お母さん。私、もう逃げるのはやめる。理不尽なことをされて、泣き寝入りして、自分に『どうでもいい』って嘘をつくのは、もう終わりにしたい」


 これは、母への説明であると同時に、自分自身への誓いだった。


「私を苦しめた人たちに、ちゃんと報いを受けさせる。法に則って、正々堂々と。これから、私が私の人生を取り戻すための戦いを始める」


 受話器の向こうで、長い沈黙が流れた。

 母は、何を思っているのだろう。呆れているだろうか。そんな危ないことはやめてくれと、泣いて止めるだろうか。


 やがて聞こえてきた母の声は、驚くほど静かで、そして凪いだ海のように穏やかだった。


『よく、決心したわね』


「……うん」


『怖くないの?』


「怖いよ。すごく怖い。でもね、理不尽に黙って耐え続ける人生の方が、もっと怖いの。私の人生をこれ以上、誰にもめちゃくちゃにされたくない」


 岬の言葉に、母はふっと、息だけで笑った気配がした。


『あなたが小さい頃、よく言ってたわね。「わたし、強くなるんだ」って。あの人が家を出て行った日も、泣いてる私の隣で、あなたはそう言ったわ』


「……そんなこと、言ったっけ」


『言ったわよ。あなたは、昔からずっと変わらないのね』


 母の声が、少しだけ震えた。


『あなたの人生は、あなたのものよ、岬。誰にも遠慮する必要なんかない。お母さんは、いつだってあなたの味方。あなたの信じるやり方で、あなたの道を貫きなさい』


 それは、岬が聞きたかった一番の言葉だった。

 視界が、涙で滲んで歪む。鼻の奥がツンとして、言葉に詰まった。


「……ありがとう、お母さん」


 やっとのことで、それだけを絞り出す。


『体調には気をつけて。疲れたら、いつでも帰ってきていいんだからね』


「うん。……うん」


 通話を終えた後も、岬はその場から動けなかった。母の温かい言葉が、冷え切っていた心の奥深くに、ゆっくりと染み渡っていく。

 帰れる場所がある。信じてくれる人がいる。その事実が、何より強い力になる。


 岬は、バスローブの袖で乱暴に涙を拭った。

 もう迷いはない。

 覚悟は決まった。


 さあ、始めよう。

 私の人生を取り戻すための戦いを。

 誰から、始める?

 最初は誰に、絶望を味あわせる?


 思考を巡らせた岬の瞳に、冷たく、そして燃えるような決意の光が宿った。


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