1-1 ハラスメント・デイズ
金曜、午後七時。東京という巨大な機械が、一週間の仕事を終えて大きく息を吐き出す時間。渋谷駅前のスクランブル交差点は、その吐息に押し出された無数の人々で飽和していた。
空からは、まるで世界の悲しみをすべて集めたかのように、冷たい雨が降り注いでいる。
アスファルトを叩く雨粒は、街のネオンサインを弾いて砕け、一瞬だけ宝石のような輝きを放っては、すぐに汚れた水たまりへと姿を変えていく。
「……終わった」
滝乃川岬は、駅ビルの濡れたガラス壁に背を預け、誰に言うでもなく呟いた。その声は、降りしきる雨音にかき消され、誰の耳にも届かない。
三年間勤めた中小メーカーの契約社員としての最終日。送別会という名の気まずい儀式からも解放された。
もう、あの息の詰まるオフィスに行くことはない。パワハラ上司の顔色を窺う必要もない。そう考えると、肺の奥に溜まっていた淀んだ空気が、少しだけ軽くなる気がした。
だが、その解放感は、すぐに別の種類の重さに変わる。明日から自分は何者でもなくなる。社会との唯一の繋がりだった細い糸が、今日、ぷつりと切れた。その心許なさが、冷たい雨のように、じわじわと岬の心を濡らしていく。
手にしたスマートフォンの画面が、不意に明るくなった。メッセージアプリの通知。送信者の名前に、岬の心臓が小さく不快に跳ねた。
『ごめん、今日やっぱ無理になった。急用』
元恋人――いや、まだ形式上は恋人であるはずの、蘇我智和からの短いメッセージ。絵文字も、謝罪の感情も、何もかもが欠落した無機質な文字列。その文面の向こう側にいる彼の顔が、手に取るように想像できた。
おそらく、少し面倒くさそうに眉を寄せ、悪びれもせずにスマホをポケットにしまい、隣にいる別の女に微笑みかけているのだろう。
「またか」
吐き出した息が、白い塊になって雨に溶けた。
『急用』。彼が使うその言葉は、決まって他の女との約束を意味する。ここ数ヶ月、いや、一年近く、繰り返されてきた裏切り。岬が生活費のほとんどを負担しているこの関係は、恋人というより、寄生者と宿主のそれに近かった。彼を問い詰めれば、決まって優しい仮面を被った言葉の暴力が返ってくる。
『俺のこと信じられないの?』
『ミサキがそんな風に疑うから、俺すごく傷つくなあ』
『俺がどれだけミサキを大事に思ってるか、分かってないんだね』
そうやって、彼は巧みに論点をすり替える。岬が抱く当然の不信感を「愛情不足」や「器の小ささ」に変換し、罪悪感を植え付ける。彼が悪いのではなく、彼を信じきれない岬が悪いのだ、と。
ガスライティングという言葉を知ったのは、つい最近のことだ。自分が受けてきた仕打ちが、名前のついた立派な精神的虐待なのだと知った時、涙も出なかった。ただ、ああ、そうだったのか、と妙に腑に落ちただけだった。
彼の甘い言葉と、時折見せる暴力的な一面。その飴と鞭に、岬の心はとっくに麻痺していた。彼がいないと自分はダメな人間なのだと、心のどこかで思い込まされていた。
ふと、数時間前の会社の光景が脳裏に蘇る。退職の挨拶を終えた、がらんとした広報部のオフィス。デスクの上を空にした岬に、最後まで嫌味を言い続けた元上司、水戸課長の顔。
『滝乃川さん、今までご苦労だったね。まあ、君の代わりはいくらでもいるから、心配しなくていいよ』
送別会の席。周囲には聞こえないよう、耳元で囁かれた悪意に満ちた声。酒と脂汗の混じった不快な匂いが、今も鼻の奥に残っている。岬が必死で成功させたプロジェクトの手柄は、すべてこの男が横取りした。
岬が徹夜で作り上げた企画書は、彼の名前で役員会に提出された。会議の後、彼は岬を個室に呼び出し、分厚いファイルでテーブルを叩きながらこう言ったのだ。
『いいか、滝乃川さん。お前はただの契約だ。俺の指示通りに動いていればいいんだよ。余計な口を挟むな。分かったか?』
それは、脅しだった。抵抗すれば、次の契約更新はないという、無言の圧力。そして、送別会の追い打ち。
『次の職場でも、その“若さ”を武器に頑張りなよ。何か困ったことがあったら、いつでも相談に乗るからさ。二人きりで、ゆっくりとね』
ねっとりと肩に置かれた手の感触。ぬるりとした視線。セクハラとパワハラの吐き気を催すカクテル。
だが、岬は何も言い返せなかった。ここで騒げば、この狭い業界に悪い噂を流されるかもしれない。次の仕事が決まりにくくなるかもしれない。その恐怖が、喉まで出かかった「やめてください」という言葉を氷のように凍らせた。
ただ、無表情を装って深く頭を下げ、その場をやり過ごした自分。その姿を思い出すたびに、腹の底から、自分自身への強烈な嫌悪感がせり上がってくる。




