第8話:中立国メーティス
昼の鐘が二つ鳴り、短く途切れた。
窓を細く開けると、紙と油と香草の匂いがふわりと入ってくる。通りの掛け声は王国のものより丸い。否、丸く聞こえる――そう感じる私の耳の問題かもしれない。
ここは中立国メーティス。表向きは私の「出身」。けれど、本当の私は、今日が初めてだ。
「……静かに、うるさいのね」
思わず小さくつぶやく。遠くで車輪、近くで布の擦れる音、干した魚の串がぶつかる軽い音。音は多いのに角が立たない。王都の石畳はもっと硬くて、踏めば踏み返してくる感じだった。
戸口が二度、軽く叩かれた。合図の「続行」。
「入って」
扉を開けたクラウスは、いつもの乾いた目で室内をひと巡りしてから言った。
「予定の確認。まず同業会で印。次に滞在札の扱い確認。日暮れ前に札を棚へ。夜は地図の整合と明日の足の確保」
「了解。……ねえ、少しだけ」
「何だ」
「私、ここに来るの、初めて」
クラウスの目が一瞬だけ止まった。半拍、静寂。そのあと、彼はいつもの平板な声で返す。
「初めての土地では、間を同じにする。歩幅、呼吸、会話の長さ。音が違っても、間を合わせれば、馴染む」
「……ええ」
私は外套を羽織り、手袋の縫い目を指でなぞってから、扉を閉めた。
◇
通りは、旗の色が薄く、陽に透ける。角ばった王国文字と違って、店の看板の字は丸い。
女将の言った通り、三つ目の鐘が鳴るまでに、『滞在札』を詰所の棚へ差す必要がある。忘れると巡回が厳しくなる――ここではそれが当たり前のルール。
「セリナ様、足元」
ルカに呼ばれ、石の割れ目を跨ぐ。私は小声で返した。
「ありがとう、ルカ」
通りかかった露店の老人がこちらを見て笑った。
『セリナ様』の声の高さは半音上げる。帰ってきた者の声にする――自分に言い聞かせる。
同業会の建物は、灰色の壁に丸い文字の看板がぶら下がっていた。中は紙と油の匂い。窓口の男が顔を上げる。
「お名は」
「セリナです。王都の織物商会で受け取った見本の確認印を頂きに」
「従者のお方は」
「ルカ。記録の控えを」
ルカが紹介状と控えを置く。男は印影を光に透かし、繊維の筋と押し跡を見ると、短く頷いた。
「印影、良。……ああ、王国で押した印だね。こっちは丸押しが多いが、角押しでも通る。滞在は?」
「数日。今日中に滞在札を棚へ差します」
「それが賢明だ。三つ目の鐘が鳴ってからだと、巡回に絡まれる」
男の筆が紙を擦る。丸い字が二つ、三つ。私は胸の奥で小さく息を吐いた。
「セリナ殿、方言は?」
「え?」
問いが唐突で、喉の奥で言葉が止まりそうになった。危い。半拍、遅れた。
「――王都の商会に長く出入りしていて、少し移ったようです」
すぐ隣で、ルカの平板な声が重ねられる。
「こちらの言葉を忘れぬよう、意図して練習もしております」
窓口の男は「はは」と笑った。
「悪くない。王国の硬い言葉は、契約には向いている。うちでも使うことがある。はい、これが確認印。滞在札と一緒に持っておいてくれ」
丸い字で書かれた小さな紙片が滑ってくる。私はきちんと受け取り、丁寧に礼をした。
喉の引っかかりは、もう消えていた。
◇
外へ出ると、午後の光。屋台で、豆を煮る匂い。私は足を止め、鍋の中を見てしまう。
「セリナ様」
「見るだけ。……すみません、ひと椀だけお願いします」
店主は気前よくよそい、薄金は受け取らない。
「匂いを嗅いでいった目は、金より良い客だよ。帰ってきた人には味見が必要だ」
帰ってきた――その言い回しに、胸の内側がわずかに疼いた。私は笑う。
匙の先で口に運ぶ。柔らかい。塩は控えめで、豆の甘さが残る。
「王国のスープより、尖ってない」
「尖らせないのが好きなんだ、うちは」
店主は肩をすくめた。私は薄金を一枚だけ小皿に置き、会釈して離れる。
ふっと、視線の端が動く。
細い腕。子どもの指が、私の側袋に触れかけ――止まった。ルカの手首が、自然な動きでその手を包んでいた。
「痛くはしない。離せ」
声は静か。子どもは怯えた目で私を見上げる。私は膝を折る。驚かせないよう、掌を見せる。
「滞在札を落としたら、困るの。これがないと、ここにいる権利がなくなるの」
子どもの喉が動く。ルカの手が、ほんの少しだけ緩んだ。
私は側袋から、小さな布切れを一枚取り出して差し出す。王国で使っていた布見本の端。
子どもは目を丸くし、布を掴むと、猫のように路地へ消えていった。
「……悪くなかった」
ルカが短く言う。
「ここは武器より言葉が早い時がある」
「そうね」
しかし、心臓はまだ速い。滞在札を指先で確かめる。角は丸い――メーティスの角は、王国よりいつも丸い。
「三つ目の鐘まで、あと半刻」
「戻って棚に差しましょう」
私たちは歩幅を合わせて宿の方へ向かった。
◇
宿の前の通りは、朝より人が多い。旗の影が伸びて、色も薄くなる。宿の女将が、手の甲で汗を拭って言った。
「札は廊下の棚に差しておくれ。今日の分は今日のうちにね」
「承知しました」
私は滞在札と、同業会から受け取った確認印の紙片を重ね、部屋の前の棚へ差し込む。札の角が棚の縁に軽く当たり、奥へと落ち着いた。
そのとき、三つ目の鐘が遠くで鳴り始めた。
廊下の角から巡回の影。丸盾、短槍、二人組。
「夕刻の棚確認。滞在札の提示を」
先頭の兵が穏やかに言う。私は一歩前に出る。
今はセリナ。声を半音上げ、語尾を柔らかくする。
「こちらです」
兵が目で札を追い、紙片を確認し、頷く。
ふと、兵の視線が私の靴先に落ちた。王国製の縫い目。
小さな『ヒヤリ』が背中を走る。
「王国の靴か」
「ええ。王都の商会で、ついでに――」
「丈夫だ。泥が詰まったら、毛を短くした筆で落とすといい」
兵の口元が緩む。私は胸の奥で、そっと息を吐いた。
「ご忠告、ありがとうございます」
巡回はそのまま別の部屋へ流れていく。
廊下の静けさが戻ると、私は壁に背を預け、短く目を閉じた。
「よく通した」
ルカが言う。
「あなたが横で黙ってくれていたから」
「口数は少ない方が、通る時がある」
私たちは部屋に入った。扉を閉める音が、思いのほか柔らかく響いた。
◇
夜。窓を細く開けて、地図を二枚広げる。王国で作った地図と、メーティスで買った地図。
川の曲がり、露店通りの位置、詰所の棚、同業会――細部が少しずつ違う。
私は線を重ね、違いに印をつける。印の形は、王国式の角のあるやつではなく、メーティス式の丸い点にした。
「明日からの足は」
ルカが尋ねる。机の脚に寄りかかりながら、いつもの平板な声。
「まず、学び舎通りの古本屋。地図の版の年を見たい。そして舟宿。帝国へ渡る便を探る前に、ここでの“普通の動き”を覚える」
「普通は、強い盾だ」
「ええ」
私はペン先を拭き、手紙用の薄紙を一枚取り出した。書くべき言葉はある。父へ。
けれど――
「今は、出さない」
「出すな。足跡が増える」
「わかってる」
薄紙をたたみ、封蝋はしないまま、縫い目の下へ滑り込ませる。
机の上の小さな灯をルカが指で覆い、火の高さを半分に落とした。
「寒くはないか」
「大丈夫。……ありがとう」
彼は鍋を火に掛ける。昼の豆に、香草を一つまみ。
香りが部屋に広がる。王国のスープより角がない。
匙を受け取り、口に運ぶ。体のどこかに張っていた糸が、一つ、ほどける。
「セリナ」
ルカが、偽名で呼ぶ。私は半拍で返す。
「はい」
返事の速さは、ここでの正解の速さ。
名を重ね、間を合わせる。
私たちの間と、この国の間。
それだけで、窓の外の夜が、少しだけ近くなった。
私は席を立ち、窓を閉める。
明日のために、灯を半分落として。
「――おやすみ、ルカ」
「休め。間は、明日も続ける」
◇
私はベッドの端に腰を下ろし、手袋の中で指を一度だけ握り、離す。合図ではない。ただ、体温の確認。
初めての異国。だけど、ここで呼吸はできる。
丸い字。柔らかな音。角の取れた札の角。
「大丈夫」
声に出してみると、思っていたよりも簡単に、言えた。
明日は、地図をもう一度重ねる。
私の線と、この街の線が、きれいに一致するまで。