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第8話:中立国メーティス

昼の鐘が二つ鳴り、短く途切れた。

窓を細く開けると、紙と油と香草の匂いがふわりと入ってくる。通りの掛け声は王国のものより丸い。否、丸く聞こえる――そう感じる私の耳の問題かもしれない。


ここは中立国メーティス。表向きは私の「出身」。けれど、本当の私は、今日が初めてだ。


「……静かに、うるさいのね」


思わず小さくつぶやく。遠くで車輪、近くで布の擦れる音、干した魚の串がぶつかる軽い音。音は多いのに角が立たない。王都の石畳はもっと硬くて、踏めば踏み返してくる感じだった。


戸口が二度、軽く叩かれた。合図の「続行」。


「入って」


扉を開けたクラウスは、いつもの乾いた目で室内をひと巡りしてから言った。


「予定の確認。まず同業会で印。次に滞在札の扱い確認。日暮れ前に札を棚へ。夜は地図の整合と明日の足の確保」


「了解。……ねえ、少しだけ」


「何だ」


「私、ここに来るの、初めて」


クラウスの目が一瞬だけ止まった。半拍、静寂。そのあと、彼はいつもの平板な声で返す。


「初めての土地では、間を同じにする。歩幅、呼吸、会話の長さ。音が違っても、間を合わせれば、馴染む」


「……ええ」


私は外套を羽織り、手袋の縫い目を指でなぞってから、扉を閉めた。





通りは、旗の色が薄く、陽に透ける。角ばった王国文字と違って、店の看板の字は丸い。

女将の言った通り、三つ目の鐘が鳴るまでに、『滞在札』を詰所の棚へ差す必要がある。忘れると巡回が厳しくなる――ここではそれが当たり前のルール。


「セリナ様、足元」


ルカに呼ばれ、石の割れ目を跨ぐ。私は小声で返した。


「ありがとう、ルカ」


通りかかった露店の老人がこちらを見て笑った。

『セリナ様』の声の高さは半音上げる。帰ってきた者の声にする――自分に言い聞かせる。


同業会の建物は、灰色の壁に丸い文字の看板がぶら下がっていた。中は紙と油の匂い。窓口の男が顔を上げる。


「お名は」


「セリナです。王都の織物商会で受け取った見本の確認印を頂きに」


「従者のお方は」


「ルカ。記録の控えを」


ルカが紹介状と控えを置く。男は印影を光に透かし、繊維の筋と押し跡を見ると、短く頷いた。


「印影、良。……ああ、王国で押した印だね。こっちは丸押しが多いが、角押しでも通る。滞在は?」


「数日。今日中に滞在札を棚へ差します」


「それが賢明だ。三つ目の鐘が鳴ってからだと、巡回に絡まれる」


男の筆が紙を擦る。丸い字が二つ、三つ。私は胸の奥で小さく息を吐いた。


「セリナ殿、方言は?」


「え?」


問いが唐突で、喉の奥で言葉が止まりそうになった。危い。半拍、遅れた。


「――王都の商会に長く出入りしていて、少し移ったようです」


すぐ隣で、ルカの平板な声が重ねられる。


「こちらの言葉を忘れぬよう、意図して練習もしております」


窓口の男は「はは」と笑った。


「悪くない。王国の硬い言葉は、契約には向いている。うちでも使うことがある。はい、これが確認印。滞在札と一緒に持っておいてくれ」


丸い字で書かれた小さな紙片が滑ってくる。私はきちんと受け取り、丁寧に礼をした。

喉の引っかかりは、もう消えていた。





外へ出ると、午後の光。屋台で、豆を煮る匂い。私は足を止め、鍋の中を見てしまう。


「セリナ様」


「見るだけ。……すみません、ひと椀だけお願いします」


店主は気前よくよそい、薄金は受け取らない。


「匂いを嗅いでいった目は、金より良い客だよ。帰ってきた人には味見が必要だ」


帰ってきた――その言い回しに、胸の内側がわずかに疼いた。私は笑う。

匙の先で口に運ぶ。柔らかい。塩は控えめで、豆の甘さが残る。


「王国のスープより、尖ってない」


「尖らせないのが好きなんだ、うちは」


店主は肩をすくめた。私は薄金を一枚だけ小皿に置き、会釈して離れる。


ふっと、視線の端が動く。

細い腕。子どもの指が、私の側袋に触れかけ――止まった。ルカの手首が、自然な動きでその手を包んでいた。


「痛くはしない。離せ」


声は静か。子どもは怯えた目で私を見上げる。私は膝を折る。驚かせないよう、掌を見せる。


「滞在札を落としたら、困るの。これがないと、ここにいる権利がなくなるの」


子どもの喉が動く。ルカの手が、ほんの少しだけ緩んだ。

私は側袋から、小さな布切れを一枚取り出して差し出す。王国で使っていた布見本の端。

子どもは目を丸くし、布を掴むと、猫のように路地へ消えていった。


「……悪くなかった」


ルカが短く言う。


「ここは武器より言葉が早い時がある」


「そうね」


しかし、心臓はまだ速い。滞在札を指先で確かめる。角は丸い――メーティスの角は、王国よりいつも丸い。


「三つ目の鐘まで、あと半刻」


「戻って棚に差しましょう」


私たちは歩幅を合わせて宿の方へ向かった。





宿の前の通りは、朝より人が多い。旗の影が伸びて、色も薄くなる。宿の女将が、手の甲で汗を拭って言った。


「札は廊下の棚に差しておくれ。今日の分は今日のうちにね」


「承知しました」


私は滞在札と、同業会から受け取った確認印の紙片を重ね、部屋の前の棚へ差し込む。札の角が棚の縁に軽く当たり、奥へと落ち着いた。


そのとき、三つ目の鐘が遠くで鳴り始めた。

廊下の角から巡回の影。丸盾、短槍、二人組。


「夕刻の棚確認。滞在札の提示を」


先頭の兵が穏やかに言う。私は一歩前に出る。

今はセリナ。声を半音上げ、語尾を柔らかくする。


「こちらです」


兵が目で札を追い、紙片を確認し、頷く。

ふと、兵の視線が私の靴先に落ちた。王国製の縫い目。

小さな『ヒヤリ』が背中を走る。


「王国の靴か」


「ええ。王都の商会で、ついでに――」


「丈夫だ。泥が詰まったら、毛を短くした筆で落とすといい」


兵の口元が緩む。私は胸の奥で、そっと息を吐いた。


「ご忠告、ありがとうございます」


巡回はそのまま別の部屋へ流れていく。

廊下の静けさが戻ると、私は壁に背を預け、短く目を閉じた。


「よく通した」


ルカが言う。


「あなたが横で黙ってくれていたから」


「口数は少ない方が、通る時がある」


私たちは部屋に入った。扉を閉める音が、思いのほか柔らかく響いた。





夜。窓を細く開けて、地図を二枚広げる。王国で作った地図と、メーティスで買った地図。

川の曲がり、露店通りの位置、詰所の棚、同業会――細部が少しずつ違う。

私は線を重ね、違いに印をつける。印の形は、王国式の角のあるやつではなく、メーティス式の丸い点にした。


「明日からの足は」


ルカが尋ねる。机の脚に寄りかかりながら、いつもの平板な声。


「まず、学び舎通りの古本屋。地図の版の年を見たい。そして舟宿。帝国へ渡る便を探る前に、ここでの“普通の動き”を覚える」


「普通は、強い盾だ」


「ええ」


私はペン先を拭き、手紙用の薄紙を一枚取り出した。書くべき言葉はある。父へ。

けれど――


「今は、出さない」


「出すな。足跡が増える」


「わかってる」


薄紙をたたみ、封蝋はしないまま、縫い目の下へ滑り込ませる。

机の上の小さな灯をルカが指で覆い、火の高さを半分に落とした。


「寒くはないか」


「大丈夫。……ありがとう」


彼は鍋を火に掛ける。昼の豆に、香草を一つまみ。

香りが部屋に広がる。王国のスープより角がない。

匙を受け取り、口に運ぶ。体のどこかに張っていた糸が、一つ、ほどける。


「セリナ」


ルカが、偽名で呼ぶ。私は半拍で返す。


「はい」


返事の速さは、ここでの正解の速さ。

名を重ね、間を合わせる。

私たちの間と、この国の間。

それだけで、窓の外の夜が、少しだけ近くなった。


私は席を立ち、窓を閉める。

明日のために、灯を半分落として。


「――おやすみ、ルカ」


「休め。間は、明日も続ける」





私はベッドの端に腰を下ろし、手袋の中で指を一度だけ握り、離す。合図ではない。ただ、体温の確認。

初めての異国。だけど、ここで呼吸はできる。

丸い字。柔らかな音。角の取れた札の角。


「大丈夫」


声に出してみると、思っていたよりも簡単に、言えた。


明日は、地図をもう一度重ねる。

私の線と、この街の線が、きれいに一致するまで。

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