第7話:入国の小窓
橋を渡ると、中立国メーティスの詰所。小窓が、カタンと横に滑った。
中は紙と油の匂い。小窓の脇には、革紐につながれた嗅ぎ犬が一頭――荷の匂いを確かめる役目らしい。
「お次」
エレオノーラは一歩進む。ここからは――セリナとして。
「名と続柄」
「セリナ。従者のルカが同行します」
丸い字が一つ、紙に落ちた。メーティスの書き字は、王国より線が柔らかい。
「出身と帰着の理由」
「中立国メーティスの者です。王国で布見本の受け取りを済ませ、戻りました」
「滞在予定」
「数日。市内で確認印を受けてから」
ルカ――クラウスが、往来手形の本券と王国の出国木札を差し出す。
係の男は木札の角を指でなぞり、棚の凹みに落とした。角は丸く落としてある。几帳面な王国らしい処理だ。
「本日の暦」
「若葉の八日」
「王国式では」
「二百三十五年、春月二十日」
筆が紙を擦る音。小さく頷きがひとつ。
「身分を示すもの」
ルカが紹介状と商用の控えを置く。封蝋は薄い色、印影はくっきり。
その時、嗅ぎ犬が荷の前で鼻を鳴らし、封蝋の包みへ鼻先を向けた。
(ここは触れさせない)
私は半拍だけ呼気を落とし、係に声を投げる。
「印影は、この濃さで足りますか」
男の視線が封蝋へ戻り、犬係へ目で合図。犬係が革紐を短く持ち替え、
「上段だけ」と低く命じる。犬は上段の干し肉の袋を軽く嗅ぎ、褒美を一片もらって座った。
「濃すぎると紙が割れるが、いまのは良い」と係。
書類を光に透かし、繊維の筋と印影を確認。
「角が丸い。――こっちの規格を使ってる。よろしい」
丸い字が二つ、続けて落ちる。
「入市税。薄金で二枚と半。半は銅で可」
ルカが薄金二枚と銅三枚を静かに置く。音が跳ねない。
係が滞在札を差し出す。札の角も小さく丸い。
「昼刻までに宿で、宿札を受け取り、今夜までに詰所の棚に差すこと。遅れれば見回りが増える」
「承知しました」
朱印が小さく跳ねた。
「――入ってよい」
それだけで、街がひらく。
◇
橋板を渡りきる。旗の影が足元に丸く落ちた。
私は手袋の中で指を一度だけ握り、離す。合図ではない――体温の確認。
「犬」
「香辛料・火薬・血・薬草を嗅がせる型。正面から封蝋に触れさせないのが正解」とルカ。
「棒先じゃなく印影へ視線を戻したの、良かった」
「当然ですわ」
通りは王国より音が丸い。売り声も、ぶつかる荷車の音も角が取れている。
鐘は二つ。三つ目は風が変わる前。歩幅を半歩詰める。
露店の前で、巡回の兵がひとり、視線だけこちらに寄せた。
私は裾の縫い目を内側から親指で確かめる。在るべきものが在る。
「宿は」
「門から離れた場所。二階、続きの部屋」
「了解」
ルカが小さく付け足す。
「路上の支払いは薄金。王国銀は屋内のみ。以後徹底」
「ええ」
干物の匂いの向こうに、色の薄い旗がいくつも揺れていた。旗布は軽く、影も薄い。
◇
宿は、旗の影が薄くなる通りにあった。
「二部屋、続きで」
「お名前は」
「セリナ。こちらは従者のルカ」
「ご出身」
「メーティス。王国から戻りました」
帳面の字は丸い。私は丸い字で署名する。
女将が宿税札を二枚、手のひらで揃えて差し出した。角の半径は、詰所の札と同じだ。
「鐘が三つで露店は畳むよ。見回りは橋まわりが増える」
「助かります」
ルカが頭を下げる。
二階へ。廊下は短く、軋みも少ない。
部屋に入る。窓、床板、天井の梁、戸口の影――隠れを一通り確かめる。
「――いない」
「いない、を作れている」とルカ。
窓をわずかに開けると、紙と油と香草の匂いが流れ込む。
旗の薄い色に、丸い字の看板が続く。
国が変わるとは、こういうこと。
胸の糸が一つ、ほどける。息を長く吐いた。
「はじめての国は、静かにうるさいのですね」
思わず口に出す。
ルカがわずかに頷く。
「音が違う。だから、間を同じにする」
「ええ」
私は滞在札の角を指でなぞる。
今夜までに、この街の棚に自分の一枚を差す。
その前に――名を重ね、声を半音上げる。
「セリナ」
ルカが偽名の定着を測る合図として呼ぶ。
「はい」
半拍で返す。ここでの、正解の速さ。
間を合わせる。
それだけで、街の音が少し遠のいた。