第6話:国境の門をくぐる日
「おはようございます」
声が石に触れ、冷えた朝に丸く落ちた。
机は一つ。手前に書き役、奥に兵。上の門楼に、見張りが一人。
ここはゴールデンバウム王国の関所。ここで出国を記し、白い線をまたいだ先の橋で中立国メーティスの詰所が入国を行う。
「行き先と、滞在日数を」
書き役は顔を上げず、筆の先だけがこちらに向いた。
「メーティスへ。王都には数日だけ滞在しました」
エレオノーラは息の長さを一定に保ち、視線を低すぎない位置に置く。
「用件」
「王都の織物商会で、布見本の受け取りと確認印です。紹介状があります」
従者――ルカと名乗るクラウスが封筒を差し出す。封蝋は小さく、目立たぬ色。
書き役は縁を指でなぞり、机の端にそっと置いた。
「名前と、ご関係を」
「セリナ。こちらは従者のルカ」
「出身は」
「中立国メーティスです。王国内の受け取りを終え、戻ります」
「主従、ということで」
「はい」
奥の兵が、少し斜めから二人を測る。
「本日の王暦を」
「二百三十五年、春月二十日です」
兵は机の端をトン、トンと二度叩いた。癖か合図か。どちらでもよい。間の長さだけ量ればよい。
「身分を示せるもの」
従者――ルカと名乗るクラウスが、薄紙を二枚だけ出す。
「メーティスの往来手形の控えと、王国入国票の控えです」
書き役は光に透かし、繊維の筋と影を確かめる。筆が紙を走る音が、湿った朝に大きく響く。
ついで巻末の帳を開き、控えの番号を照らし合わせ、わずかに頷いた。
「荷を少し見ます」
兵が顎で示す。
クラウスが蓋を開ける。上に置くのは触れてよい物だけ――布包み、小さな織物見本、空の籠。
棒が二、三度、形だけ確かめて止まる。
「刃物は」
「護身の小刃が一本。馬具の工具に二。長物はありません」
「見せて」
短剣を鞘ごと渡す。兵は重さと手入れだけを測り、返した。
「よく研いである」
「刃は手入れが九割です」
クラウスの声は乾いている。兵の口の端が、わずかに上がった。
列の脇から、柔らかい声が割り込む。
「お二人さん、荷が軽いならこっちが早いですよ」
小柄な役人が手招きしていた。腕章はくすんでいる。
クラウスが先に返す。
「ご親切に。順番で結構です」
言い方は丁寧、拒絶ははっきり。
男は肩をすくめ、別の旅人へ向かった。誘導は仕事なのだろう。
書き役が木札を一枚、机の端から滑らせる。
「出国記録。橋を渡ってメーティス詰所で入国手続きを。控えは保管を」
クラウスが銀貨を置いた。音は箱の底で小さく潰れる。
兵が最後に短く言う。
「――通ってよい」
それだけで、道が開いた。
◇
車輪が白い線をまたぎ、石の色がわずかに変わる。背中のざわめきが遠ざかる。
エレオノーラは手袋の中で、指を一度だけ握り、離した。合図ではない。ただ体温の確認。
「いまの兵、歩幅が揃っていました」
「習いの良い歩きです」
クラウスが続ける。「書き役は耳で待つ型。こちらが間を置かずに答えるのが正解だ」
「ええ、同じ見立てですわ」
道は緩い下り。油と香草の匂いが重なる。
露店の前で自然に速度が落ちる。止まる前と動き出す前の間は、いつも同じ長さにしておく。
「尾は」
「いまは見えません」
「なら、『いない』ことをこちらで作る」
「はい」
エレオノーラは水袋を受け取り、一口だけ飲み、余りを石に落とす。飛沫の散り方で風向きを読む。右から左。
「右の路地へ」
「理由」
「水が新しい。足を止めても不自然じゃない」
路地はひんやりして、樽の蓋が半分開き、氷が角で汗をかいている。
奥から乾いた咳が一つ。先の列にはなかった音だ。
「巡回なら入ってくる。入ってこないなら、視線だけ」
「視線、ですね」
「ええ。――戻ります」
御者台の板を二度、軽く叩く。続行の合図。
人の流れに自然に紛れる。止まった痕跡は、水の濃淡にしか残らない。
「宿は」
「門から遠い場所に。すぐ出られるところ」
「了解」
クラウスが横目でちらりと見る。
「……よく通した」
「当然ですわ」
口角を片側だけ、少しだけ動かす。笑いではない。形だけの礼。
前方、干物の匂いの向こうに、色の薄い旗がいくつも揺れている。
動き出す前の、同じ長さの沈黙。二人はそれを守った。
◇
橋のたもとで、人の流れが二つに割れる。
左は市へ、右はメーティスの詰所へ。
詰所の軒先に、列が短く延びている。小窓の奥には帳簿の背。
こちら側――さっきの関所で見た、くすんだ腕章がもう一つ、橋の影に立っていた。
「向こうにも誘導がいます」
クラウスの視線が一瞬だけ触れ、すぐ離れる。
「言い回しは同じで」
「順番で結構です」
「ええ」
歩幅を半歩だけ詰め、馬の鼻面を旗の影へ入れる。
旗の色は薄く、風にほどけるように揺れていた。
「手続きの型をもう一度」
「名乗り→出身→用件→滞在。控えは往来手形の本券と、さっき渡した控え」
「質問が入れ替わっても、答えは同じ型で返す」
「はい」
エレオノーラは頷き、手袋の縫い目に親指を滑らせ、呼吸の間隔を整える。
扇は持たない。代わりに、言葉の前に置く沈黙が扇の役割を果たす。
列の先頭で、小窓がカタンと開いた。
制服の色が、こちら側の色に変わる。紙の匂いも、別のものになる。
筆の音は同じだが、書式が違う。その違いを聞き分ける。
「ここからはメーティスの書き言葉です」
クラウスが低く告げる。
「大丈夫」
エレオノーラは短く返した。声の高さを半音だけ上げる。帰る声に。
橋の欄干を掠めて、川の水が細かく光った。
あの白い線は、もう背中にある。
「――行きましょう」
「はい」
馬の足が、列の影に入る。次の門が、すぐそこにある。
最後までお読みいただきありがとうございました。
本話より偽装名を使用します。混乱防止に明記します。
エレオノーラは対外的に「セリナ」、クラウスは「ルカ」と名乗ります。