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第5話:国境の朝

夜の薄皮が、窓硝子にまだ貼りついている。

鳥は沈黙し、宿の奥で湯の泡だけが小さく弾けた。


エレオノーラは目を開け、天井板の節を静かに数える。

床に踵を置く。木が一度だけ鳴る。洗面器の水で頬を冷やし、指先で髪の乱れを整える。鏡は要らない。今日に必要な顔は、今日のために作ればよい。


外套の内側の縫い目を指でなぞり、縫い目の下の細工の位置を確認する。

短剣の柄、予備の印、薄い封蝋。――在るべきものが在る。呼気が静かに落ち着く。


扉の外、布の擦れる気配。

「準備は」

エレオノーラが低く言う。

「完了」

短い返事は、昨夜の気配を含まず、淡く乾いた朝の声だった





食堂には薪の匂いが漂っていた。

女将が鍋をかき回し、皿に薄いスープを注ぐ。焼き直した硬いパンが二つ。


「朝は冷えますよ。検問までは馬で半刻。道は南に折れて、それからまっすぐ」

「承知しました」

エレオノーラは礼を言い、パンを割る。湯気がわずかに上がる。

クラウスは塩の粒の大きさを見て、指でひとつ潰した。


食べる音は少ない。二人は必要な量だけ口に入れ、必要なだけ水で流し込み、席を立つ。

「鍵を」

クラウスが銀貨を置く。

「確かに。お気をつけて」

女将の笑顔は薄い。薄いが、職業としては充分だ。





裏庭の空気は湿って冷たい。

馬の鼻面に手を添えると、荒い息が白く散った。


「荷の締め直し」

クラウスが手綱を掛け直し、結び目の向きを整える。

エレオノーラは自分の小さな包みの紐を同じ角度で締めた。


「合図の再確認を」

「三回叩く――停止。二回――続行。一回――交代」

「視線の合図」

「右から左をゆっくり三つ――監視あり。左から右を速く二つ――監視薄い」

「よろしい」


御者台へ上がる段差は低い。

「御者は私が」

「不要。前に目を置くのは一人で足りる」

「了解」


それ以上は重ねない。役割は既に決められている。





馬車が通りへ出る。

店の看板が半分だけ上がり、パン籠を担いだ少年が小走りに角を曲がる。

誰も彼らを見ない。見ないまま、視界の端で数える。


街道はやや上り。丘の上に小さな塔が二つ。旗は湿って動かず、塔の根元に灯がぼんやりと二つ見えた。

列ができている。荷車、家族連れ、旅芸人。声は低く、動きは鈍い。


「様子を見る」

エレオノーラが言い、窓の布を二指でわずかに上げた。

「門は一重。門楼に二。地上に三。書き付けが一。列を捌く者が二」

クラウスは別角度で見て、淡々と続ける。

「馬を止める位置が悪い。坂の中腹で停車。車輪の外れが二台。列は遅くなる」


小柄な役人が列を行き来し、耳打ちをしている。端にいる旅人の肩を軽く押し、別の列へ誘う仕草。

「誘導がある」

「乗る理由は乏しい」

言葉はそれだけ。判断は一致している。


列の後尾につく。

前の荷車の男が帽子に触れて会釈した。

「今日は詰まってる。書き役の兄ちゃんが手を痛めたらしくて」

「そうですか」

エレオノーラは短く返す。

男は続ける。

「親切な役人がいてね、横から入れてくれる時もある。急ぐなら――」

「不要」

クラウスが遮る。口調は平板。

男は肩をすくめ、前を向いた。会話は終わる。


列は少しずつ進む。

門前では、書き役の男が紙の端を押さえながら印を何度か押し直している。左手に白い布。

門楼の兵の一人はあくびを飲み込み、もう一人は下を見ている。地上の兵は靴を鳴らし、列を観察する。

それぞれの癖が、朝の湿り気の中で明るい。


「検問の質問推定」

エレオノーラは低く、早口にならないよう区切って言った。

「行程、目的、滞在予定。身分の裏取り――推薦の出所。最後に、暦の合わせを問う可能性」

国ごとに暦の呼び方は異なる。王国の暦を答え、求められれば即座に相手国の暦へ言い換える。それが自然な旅人の証になる。


「答え方は決めている」

「ええ」


御者台の板に、クラウスが指を二度軽く叩いた。

続行。


前の荷車が進む。

一台分だけ近づくごとに、兵の目の焦点が少し手前で合い、すぐ流れていくのが見える。

地面は固い石。車輪が乗る音にばらつきがある。


「表情は」

「令嬢。疲労は隠す。視線は落としすぎない」

「声の高さ」

「半音下げる」

「いい」


言葉は簡潔に、必要な確認だけ。

互いに余剰を差し出さない。差し出さないことが、今は最も効率がいい。


列の脇を、先程の小柄な役人がまた通り過ぎた。

「お二人さん、荷が軽いなら、こっちの――」

クラウスが視線だけを向ける。

役人は笑みを濃くし、すぐ別の旅人へ向かった。

誘導は繰り返される。それが仕事なのだろう。


エレオノーラは手袋の縫い目に親指を滑らせ、呼吸の間隔を整えた。

扇は持っていない。代わりに、言葉の前に置く沈黙が扇の役割を果たす。


門前の石畳に、車輪が乗った。

書き付けの紙の匂いが、湿った空気の中で微かに立つ。

兵の目がこちらに集まる。数は十分に数えた。数えたものは、恐れを半分にする。


エレオノーラは顎の角度をわずかに調整し、口角を半分だけ動かした。

声を出す直前に、呼気を一つ落とす。


「おはようございます」


その言葉が、石の朝にまっすぐ落ちた。

波紋は小さく、だが確かに広がった。

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