第5話:国境の朝
夜の薄皮が、窓硝子にまだ貼りついている。
鳥は沈黙し、宿の奥で湯の泡だけが小さく弾けた。
エレオノーラは目を開け、天井板の節を静かに数える。
床に踵を置く。木が一度だけ鳴る。洗面器の水で頬を冷やし、指先で髪の乱れを整える。鏡は要らない。今日に必要な顔は、今日のために作ればよい。
外套の内側の縫い目を指でなぞり、縫い目の下の細工の位置を確認する。
短剣の柄、予備の印、薄い封蝋。――在るべきものが在る。呼気が静かに落ち着く。
扉の外、布の擦れる気配。
「準備は」
エレオノーラが低く言う。
「完了」
短い返事は、昨夜の気配を含まず、淡く乾いた朝の声だった
◇
食堂には薪の匂いが漂っていた。
女将が鍋をかき回し、皿に薄いスープを注ぐ。焼き直した硬いパンが二つ。
「朝は冷えますよ。検問までは馬で半刻。道は南に折れて、それからまっすぐ」
「承知しました」
エレオノーラは礼を言い、パンを割る。湯気がわずかに上がる。
クラウスは塩の粒の大きさを見て、指でひとつ潰した。
食べる音は少ない。二人は必要な量だけ口に入れ、必要なだけ水で流し込み、席を立つ。
「鍵を」
クラウスが銀貨を置く。
「確かに。お気をつけて」
女将の笑顔は薄い。薄いが、職業としては充分だ。
◇
裏庭の空気は湿って冷たい。
馬の鼻面に手を添えると、荒い息が白く散った。
「荷の締め直し」
クラウスが手綱を掛け直し、結び目の向きを整える。
エレオノーラは自分の小さな包みの紐を同じ角度で締めた。
「合図の再確認を」
「三回叩く――停止。二回――続行。一回――交代」
「視線の合図」
「右から左をゆっくり三つ――監視あり。左から右を速く二つ――監視薄い」
「よろしい」
御者台へ上がる段差は低い。
「御者は私が」
「不要。前に目を置くのは一人で足りる」
「了解」
それ以上は重ねない。役割は既に決められている。
◇
馬車が通りへ出る。
店の看板が半分だけ上がり、パン籠を担いだ少年が小走りに角を曲がる。
誰も彼らを見ない。見ないまま、視界の端で数える。
街道はやや上り。丘の上に小さな塔が二つ。旗は湿って動かず、塔の根元に灯がぼんやりと二つ見えた。
列ができている。荷車、家族連れ、旅芸人。声は低く、動きは鈍い。
「様子を見る」
エレオノーラが言い、窓の布を二指でわずかに上げた。
「門は一重。門楼に二。地上に三。書き付けが一。列を捌く者が二」
クラウスは別角度で見て、淡々と続ける。
「馬を止める位置が悪い。坂の中腹で停車。車輪の外れが二台。列は遅くなる」
小柄な役人が列を行き来し、耳打ちをしている。端にいる旅人の肩を軽く押し、別の列へ誘う仕草。
「誘導がある」
「乗る理由は乏しい」
言葉はそれだけ。判断は一致している。
列の後尾につく。
前の荷車の男が帽子に触れて会釈した。
「今日は詰まってる。書き役の兄ちゃんが手を痛めたらしくて」
「そうですか」
エレオノーラは短く返す。
男は続ける。
「親切な役人がいてね、横から入れてくれる時もある。急ぐなら――」
「不要」
クラウスが遮る。口調は平板。
男は肩をすくめ、前を向いた。会話は終わる。
列は少しずつ進む。
門前では、書き役の男が紙の端を押さえながら印を何度か押し直している。左手に白い布。
門楼の兵の一人はあくびを飲み込み、もう一人は下を見ている。地上の兵は靴を鳴らし、列を観察する。
それぞれの癖が、朝の湿り気の中で明るい。
「検問の質問推定」
エレオノーラは低く、早口にならないよう区切って言った。
「行程、目的、滞在予定。身分の裏取り――推薦の出所。最後に、暦の合わせを問う可能性」
国ごとに暦の呼び方は異なる。王国の暦を答え、求められれば即座に相手国の暦へ言い換える。それが自然な旅人の証になる。
「答え方は決めている」
「ええ」
御者台の板に、クラウスが指を二度軽く叩いた。
続行。
前の荷車が進む。
一台分だけ近づくごとに、兵の目の焦点が少し手前で合い、すぐ流れていくのが見える。
地面は固い石。車輪が乗る音にばらつきがある。
「表情は」
「令嬢。疲労は隠す。視線は落としすぎない」
「声の高さ」
「半音下げる」
「いい」
言葉は簡潔に、必要な確認だけ。
互いに余剰を差し出さない。差し出さないことが、今は最も効率がいい。
列の脇を、先程の小柄な役人がまた通り過ぎた。
「お二人さん、荷が軽いなら、こっちの――」
クラウスが視線だけを向ける。
役人は笑みを濃くし、すぐ別の旅人へ向かった。
誘導は繰り返される。それが仕事なのだろう。
エレオノーラは手袋の縫い目に親指を滑らせ、呼吸の間隔を整えた。
扇は持っていない。代わりに、言葉の前に置く沈黙が扇の役割を果たす。
門前の石畳に、車輪が乗った。
書き付けの紙の匂いが、湿った空気の中で微かに立つ。
兵の目がこちらに集まる。数は十分に数えた。数えたものは、恐れを半分にする。
エレオノーラは顎の角度をわずかに調整し、口角を半分だけ動かした。
声を出す直前に、呼気を一つ落とす。
「おはようございます」
その言葉が、石の朝にまっすぐ落ちた。
波紋は小さく、だが確かに広がった。