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第4話:一ヶ月の距離

夜明け前の、インクを溶かしたような闇の中、ヴァイスフェルト公爵家の裏門に、一台の馬車が静かに停まっていた。

王家の紋章も、公爵家の紋章もない。長距離移動に耐えうる、地味だが頑丈なだけの箱馬車。

それが、これから始まる二人の偽りの旅路の、最初の舞台装置だった。


執事の服を身にまとったクラウスは、手綱を握り、御者台に座っていた。馬を静かに制しながら、その視線は、闇の中のあらゆる物音と気配を、冷徹に探っている。


やがて、エレオノーラが父アルブレヒトに付き添われ、姿を現した。

豪奢なドレスも、鋭いスパイの顔もそこにはない。

簡素だが仕立ての良い旅装に身を包み、わずかに不安げにうつむく、か弱き令嬢。完璧な「仮面」だった。


見送りは、父ただ一人。言葉はない。

アルブレヒトは娘の肩に一度だけ強く手を置いた。

その言葉にしない重みに込められた、万感の想いをエレオノーラは痛いほど感じ取っていた。

彼女は父にだけ分かる、ごく微かな頷きを返し、クラウスが差し出す手を取り、馬車へと乗り込んだ。


扉が閉まり、車輪が軋む。

誰にも知られることなく、歴史の裏側で、二人のスパイは敵国へと旅立った。





王都を発ってから、二週間が経過した。

エレオノーラとクラウスを乗せた馬車は、王国の幹線街道をひた走り、中立国メーティスとの国境を目指していた。


エレオノーラは、揺れる馬車の客室で、ただ一人、静かな時間を過ごしていた。

クラウスは、常に御者台に座り、手綱を握っている。二人の間に、任務に必要な言葉以外の会話は、一切なかった。


彼女は、帝国の地図を広げ、地形と街道を完全に記憶する。諜報部から渡された、帝国の主要貴族のリストに目を通し、その家系、性格、そして弱点を、一言一句、脳に刻み込む。


食事や休憩のために宿場町に立ち寄る時だけが、二人が顔を合わせる唯一の時間だった。

しかし、そこにも会話はない。

エレオノーラが宿屋で休息を取る間、クラウスは馬の世話と、馬車の整備、そして周囲の監視を続ける。彼が仮眠を取るのは、エレオノーラが目覚めている時間だけ。二人は、決して同時に、無防備な姿を晒すことはなかった。


まるで、精巧に作られた二体の人形が、それぞれの役割を、ただ完璧にこなしているかのようだった。

エレオノーラは時折、窓の隙間から、御者台に座るクラウスの、彫像のような後ろ姿を眺めた。


そこには、プロとしての警戒心と、完璧な規律だけがあり、人間的な感情は、ひとかけらも感じられなかった。

(これが、国王陛下の言っていた『難』。あるいは、これこそが…)

これこそが、一流の諜報員として、あるべき姿なのかもしれない。

エレオノーラはそう結論付けた。二人の間にあるのは、職務上の関係性のみ。

それ以上でも、それ以下でもない。それでいい。

その方が、任務を遂行するには都合がいいのだから。





凍てついたような均衡が、初めて崩れたのは、旅を始めて十七日目の夜だった。


王国の中央山脈を越えようとしていた馬車を、季節外れの激しい嵐が襲った。

降りしきる豪雨で道はぬかるみ、馬車の車輪が完全に泥にはまってしまったのだ。

夜の森、吹き荒れる風雨。

このままでは朝を待たずに馬が体力を消耗しきってしまう。

クラウスは即座に判断を下し、近くにあった今は使われていない狩人の小屋へと避難することを決めた。


暖炉の火だけが、湿った小屋の中を頼りなく照らしている。

外では、木々をへし折らんばかりの風が唸り声を上げていた。

エレオノーラが濡れた外套を乾かしながら暖炉の前に座っていると、クラウスがどこからか見つけてきた乾物と鍋で、手際良く簡素なスープを作り始めた。

その姿に、エレオノーラはわずかに目を見張った。

彼の手つきは、まるで熟練の料理人のように無駄がなく洗練されていた。

暗殺術や解錠術を語る時と同じ、プロフェッショナルのそれだった。


エレオノーラは初めて、任務とは関係のない興味から彼に問いかけた。

「…意外ですわね。あなたのような方が、料理をなさるなんて」


クラウスは味見をしながら、顔も上げずに答えた。

「生き残るための、ただの技術だ。毒を盛られても、自分で安全な食事を確保できなければ、諜報員は三流だからな」

その声には、やはり何の感情も乗っていなかった。

だが、出来上がったスープを木製の器に入れ、エレオノーラに差し出すその手つきは、なぜかほんの少しだけ優しく見えた。


熱いスープが冷えた体に染み渡っていく。

エレオノーラは暖炉の火を見つめながら、無意識にドレスの胸元に隠した小さなロケットをそっと握りしめた。

その姿を、クラウスが黙って見ていたことに、彼女は気づかなかった。





旅は続いた。


嵐の夜に交わした、あの短い会話を、二人が思い返すことはなかった。

しかし、馬車の中の空気は以前とはほんの少しだけ変わっていた。


完全な静寂が破れ、互いの存在を認め合う穏やかな沈黙へと変わっていた。

それが、二人の間の新しい「距離」だった。


そして、国境を翌日に控えた最後の宿場町での夜。

二人は別々の部屋を取った。

明日からは、いよいよ本当の戦いが始まる。

エレオノーラはこれからの任務計画を脳内で再確認し、浅い眠りについた。


――そして、悪夢を見た。

それは過去の任務の記憶か、あるいはこれからの未来への不安か。

断片的なイメージが彼女の意識を苛んだ。


「…っ!」

エレオノーラは小さな悲鳴と共に、ベッドの上で跳ね起きた。

心臓が激しく波打ち、全身に冷たい汗が滲んでいる。


(…夢?)

安堵の息をつこうとしたその瞬間。


控えめに、コンコンと扉が二度叩かれた。


エレオノーラの全身が、再び緊張に凍り付く。

スパイの勘が、尋常でない事態だと告げていた。


彼女は音もなくベッドを抜け出し、枕の下に隠していた短剣を抜き放ち、扉へとにじり寄った。

そして息を殺し、囁くように問う。

「…どなた?」


扉の向こうから、聞き慣れた低い声が聞こえた。

「…俺だ。クラウスだ」

「…何か御用でしょうか」

エレオノーラは警戒を解かないまま問い返す。


数秒の沈黙の後、扉の向こうから静かな声が返ってきた。

「…いや。何か物音がしたように思ったが、気のせいだったらしい。休め」

「…ええ。お気遣い、どうも」


それだけの会話だった。

エレオノーラは扉の向こうの気配に、全神経を集中させる。

クラウスの足音が遠ざかっていく。…いや違う。彼はすぐには立ち去らなかった。


扉のすぐ向こうで、中の様子をうかがうように、一分ほどただ静かに佇んでいた。

その守るような気配を、エレオノーラも扉のこちら側で、息を殺して感じていた。


やがて、彼の気配は完全に消えた。

エレオノーラはようやく、張り詰めていた体の力を抜いた。

手の中の短剣が、汗でじっとりと濡れている。


二人の間にあった分厚い氷の壁。

それはまだ溶けたわけではない。

だが、その壁の向こう側から、ほんの僅かな人間的な温もりが、確かに伝わってきた。

その事実に、エレオノーラは戸惑いを隠せなかった。


一ヶ月の距離。

それは馬車が走った物理的な距離であると同時に、二人の魂の間の、あまりにも長く、そしてほんの僅かだけ縮まった、距離の名前でもあった。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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