第3話:最初の不協和音
重厚な扉が、軋みながらゆっくりと開いていく。
その向こうの闇から、一人の男が静かに姿を現した。
上質だが、装飾の一切ない濃紺の旅装。貴族的な優雅さよりも、鍛え上げられた実用的な体躯が印象に残る。人混みに紛れれば、誰も二度と正確には思い出せないであろう、癖のないアッシュブラウンの髪。そして、感情の温度を一切感じさせない、落ち着いたヘーゼルの瞳。
エレオノーラは、一目で理解した。この男は、自分と「同類」の人間だと。
男は部屋に入ると、まず国王とヴァイスフェルト公爵へ、完璧な所作で礼を取った。そして、その視線をエレオノーラへと移す。それは品定めするような、冷徹で、一切の遠慮のないプロフェッショナルの目だった。エレオノーラもまた、表情筋一つ動かさず、氷のような瞳で正面から彼を見返す。
息詰まるような沈黙を破ったのは、国王だった。
「彼が、クラウスだ。諜報部における、私のもう一本の『刃』だ」
クラウス、と呼ばれた男は、エレオノーラから視線を外さないまま、その薄い唇を開いた。
その第一声は、この場の誰の予想も裏切る、無礼極まりないものだった。
「――足を引っ張るなよ、元・悪役令嬢サマ」
その言葉には、侮蔑よりも純粋な、プロとしての厳しい牽制が込められていた。父である公爵の眉が、ぴくりと動く。
しかし、エレオノーラは動じなかった。彼女はただ、完璧な淑女の微笑みを唇に浮かべると、鈴の鳴るような、しかし刃のように冷たい声で言い返した。
「それはこちらの台詞ですわ。あなたのその『難』が、任務の障害にならないことを、心から祈っておりますわ」
その瞬間、クラウスのヘーゼルの瞳に、初めて、ごく微かな興味の色が浮かんだのを、エレオノーラは見逃さなかった。
国王は、二人の間に散る火花を見て、満足げに、しかしどこか面白がるように口の端を上げた。
「…話が早そうで、何よりだ」
国王は立ち上がると、扉に向かう。そして、振り返り、最後に二人に告げた。
「クラウス、エレオノーラ。貴様らは、王国で最も切れる二本の『刃』だ。だが、刃は、時に己の鞘をも傷つける。互いを鞘とし、決して折れるな。…よいな」
国王が先に部屋を出ていく。最後に残った父アルブレヒトは、エレオノーラのそばに一瞬だけ立ち止まり、誰にも聞こえぬほどの声で、一言だけ、娘に囁いた。
「――生きて、帰れ」
そして、父もまた、扉の向こうへと消えていった。
重い扉が閉められると、部屋には再び二人の諜報員だけが残された。
一瞬の、沈黙。
エレオノーラは、父の最後の言葉を胸の中で反芻する。無意識に、ドレスの胸元に隠した小さなロケットに触れていた。それは、この謁見の直前に、父から「母様の形見だ」と手渡されたばかりのものだった。同時に、父が語っていた言葉を思い出す。「陛下は、ヴァイスフェルト家の働きに報いると約束してくださった。家のことは、何も案ずるな」と。
「感傷に浸っている暇はないぞ」
その追想を断ち切ったのは、クラウスの冷たい声だった。
エレオノーラが顔を上げると、彼はすでに部屋の地図を広げ、値踏みするような目でこちらを見ていた。
「なるほどな。見かけ倒しではなさそうだ。お前の二年間の任務報告書は読んだ。その手腕は、本物だ」
「あなたこそ。ただの無礼な男ではないようですわね」
ここから、二人の最初の「腹の探り合い」が始まった。
そして話題は、帝国への潜入計画へと移る。
「家の再興のため、帝国の有力貴族との良縁を探しに来た、中立国の没落伯爵令嬢とその執事」
この、完璧な偽装身分には、クラウスも異論はなかった。
しかし、その具体的なアプローチで、二人の意見は鋭く対立した。
「危険すぎる。その方法では、我々が『黒鷲』にたどり着く前に、ただのスパイとして処理されるのが関の山ですわ」
エレオノーラが、クラウスの示した急進的な計画を、冷静に、しかしきっぱりと否定する。
「慎重すぎては、好機を逃す。敵の警戒レベルが最も低い、この初期段階でこそ、大胆に切り込むべきだ」
クラウスも、一歩も引かない。
エレオノーラの慎重さは、一つの駒の動かし方が盤面全体を左右する、チェスプレイヤーの思考。
クラウスの急進は、一瞬で急所を突かなければ反撃される、ナイフファイターの論理。
最高の諜報員である二人の哲学は、根本から異なっていた。
二人の間に生まれた、最初の「不協和音」。
それは、これから始まる長く危険なワルツが、決して容易なものではないことを、雄弁に物語っていた。
エレオノーラは静かに目を伏せる。
(この任務、最大の障害は、帝国の『黒鷲』ではないのかもしれないわね)
その内心での呟きを、隣に立つ男が聞きつけるはずもなかった。
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