第2話:王の密命
車輪が石畳を転がる、硬質な音だけが響いていた。
王家の紋章を掲げた黒塗りの馬車は、公爵家の使いのそれとは比較にならぬほど静かで、揺れが少ない。だが、その滑らかな乗り心地とは裏腹に、エレオノーラの心は張り詰めていた。
窓は厚いカーテンで覆われ、外の景色をうかがい知ることはできない。対面に座る、見慣れぬ近衛騎士は石像のように微動だにせず、ただ前を見据えている。通常の謁見であれば、こんな物々しい護衛も、秘密めいた馬車も必要ない。
(――これは、ただの呼び出しではない)
エレオノーラは冷静に思考を巡らせる。
二年間の任務で暴いた陰謀。その報告書を、陛下はすでにお読みのはずだ。ならば、この極秘の召集は、その報告書の内容に起因する、新たな「何か」が始まった証拠に他ならない。
私の『平穏』は、やはり幻想だったか。
自嘲の笑みが浮かびそうになるのを、彼女は意識の底に沈めた。スパイに、感傷は不要だ。
◇
やがて馬車は、王宮の正門ではなく、衛兵すら少ない裏手へと回り込み、ひっそりと停止した。騎士に導かれるまま降り立った先は、公式の謁見の間ではなく、国王が私的な執務に使う、地図と書物に囲まれた小部屋だった。
部屋にいたのは、国王陛下と、そして父であるヴァイスフェルト公爵、ただ二人だけ。
その場の緊迫した空気が、これから始まる話の重さを物語っていた。
「エレオノーラ。急な呼び出し、すまなかったな」
「滅相もございません、陛下。お召しとあらば、いかなる時も」
礼を取るエレオノーラに、国王は疲れたように頷き、単刀直入に本題を切り出した。
「昨夜、そなたから受け取った報告書、読ませてもらった。見事な働きだ。改めて、礼を言う」
「もったいなきお言葉です」
「だがな、エレオノーラよ。そなたが暴いたあの陰謀は…どうやら、巨大な竜が戯れに伸ばした、一本の爪先に過ぎなかったようだ」
国王は机の上に置かれた、一枚の羊皮紙を指し示した。それは、リリアーナ・メラーの自室から押収された、暗号で書かれた密書だった。
「我が国の暗号解読班が、三日三晩、総出で当たっても、いまだその半数も解読できておらん。だが、判明したいくつかの言葉だけでも、事態の深刻さは計り知れない」
国王は、苦々しげに言葉を続ける。
「判明した言葉は三つ。『第一段階の完了』、『次なる駒』、そして…『鷲』だ」
「『鷲』…」とエレオノーラが反芻する。
「そうだ。…数年前から、我が国の諜報部が掴んでいた、アルビオン帝国の謎の組織を示す符丁があった。確か…『黒鷲』と言ったな」
国王の目が、鋭い光を宿す。
「今回の件で、ようやく点と点が繋がった。リリアーナは駒に過ぎん。帝国の背後には、我々が今まで噂でしか知らなかった諜報機関…『黒鷲』が、間違いなく存在する」
やはり、帝国。
エレオノーラの予測通りの言葉に、彼女の表情は変わらない。だが、その内心では、敵の底知れなさに、わずかな肌寒さを感じていた。
「このままでは、我々は常に後手に回る。次に奴らがいつ、どこで、何を仕掛けてくるか、全く分からんのだ。王国は、内側から静かに蝕まれ、滅びるやもしれん」
国王は椅子から立ち上がると、窓の外の夜景を見つめ、そして、決然とした声で振り返った。
「そこで、そなたに新たな密命を下す」
ゴクリ、と父が息を飲む音が聞こえた。
エレオノーラは、ただ静かに、次の言葉を待つ。
「押収した密書には、帝国の次なる計画の実行日が、二ヶ月後だと記されていた。もはや、一刻の猶予もない」
「――帝国へ、潜入せよ」
それは、あまりにも短く、そしてあまりにも、無謀な命令だった。
「敵の懐に飛び込み、諜報機関『黒鷲』の正体を暴き、奴らの次なる計画を突き止め、未然に防ぐのだ。そなたの悪役令嬢としての顔は、もう知られた。だが、諜報員としてのそなたの『素顔』は、まだ誰も知らん。これ以上の適任者は、王国にはおらぬ」
エレオノーラは、数秒の沈黙の後、深く、静かに頭を下げた。
その声に、迷いも、恐れもなかった。
「――御意に」
その返事を聞き、国王は安堵の息を漏らすと同時に、父親のような優しい目をした。
「…すまぬな。そなたにばかり、重責を負わせて」
「我が身は、王国のために」
「うむ。だが、いくらそなたでも、一人ではあまりに危険がすぎる。今回は、そなたの補助役として、一人の相棒を同行させる」
相棒、という言葉に、エレオノーラはわずかに眉を動かした。単独での任務を信条とする彼女にとって、それは歓迎すべき言葉ではなかった。
そんな彼女の心中を察したように、国王は面白そうに口の端を上げた。
「なに、心配するな。腕は、王国でも指折りだ。…もっとも、その性格は、少々、いや、かなり『難あり』だがな」
国王は隣の部屋に続く扉へと視線を送る。
「もう、入ってよかろう。紹介しよう、エレオノーラ。彼が、そなたと生死を共にすることになる、相棒だ」
国王の言葉に応じるように、重厚な扉が、ゆっくりと、音を立てて開き始めた。
エレオノーラは、その開かれゆく扉の闇を、スパイの冷徹な目で見据えていた。




