第1話:束の間の平穏
夜が、明けた。
シャンデリアの喧騒も、嘲笑と喝采が入り混じったあの夜会の熱も、まるで遠い昔の夢のようだ。
公爵家の自室に戻ったエレオノーラは、窓から差し込む朝日を浴びながら、鏡の前に座っていた。昨夜、彼女が纏っていた豪奢な真紅のドレスは、今や『悪役令嬢』という役目を終えた舞台衣装のように、無造作に椅子にかけられている。
侍女をすべて下がらせた部屋は、心地よい静寂に満ちていた。
彼女は慣れた手つきで、頭が痛くなるほどきつく結い上げていた髪から、きらびやかな髪飾りを一本、また一本と抜き去っていく。そして、挑発的に見せるために引いた紅を、湿らせた化粧綿でゆっくりと拭い去った。
仮面が、一枚、また一枚と剥がれていく。
鏡に映るのは、もはや『悪役令嬢』ではない。かといって、ただの令嬢エレオノーラ・フォン・ヴァイスフェルトでもない。
二年間に及んだ長期間の潜入任務を完遂した、一人の諜報員の、静かで、そしてどこか空虚な瞳があった。
「…………」
無意識に、詰めていた息をひとつ吐く。
二年間の、長い長い芝居の幕が、ようやく下りたのだ。
解放感と、それによく似た奇妙な空虚感を胸に、エレオノーラはいつものように自分で淹れた、香りのないシンプルな紅茶を一口すする。その素朴な温かさが、強張っていた心身にじんわりと染み渡っていくようだった。
昨夜の出来事、そして二年間の監視記録の全てを記述した報告書は、すでに父であるヴァイスフェルト公爵の手を経て、国王陛下の下へ送達済みだ。
これで、終わった。
ようやく手に入れた、束の間の、そして待ち望んだ平穏な朝。
――その静寂を破るように、部屋の扉が控えめにノックされたのは、その時だった。
「エレオノーラ。入るぞ」
「お父様」
入ってきたのは、この公爵家の主、アルブレヒト・フォン・ヴァイスフェルト公爵だった。国王の右腕と謳われる切れ者であり、娘の極秘任務を知る数少ない協力者の一人でもある。
彼は娘の姿を一瞥すると、安堵と、誇らしさと、そして深い労りが入り混じった複雑な表情で、重々しく口を開いた。
「……よく、やり遂げたな」
「お父様こそ、ご助力に感謝いたします」
エレオノーラは静かに頭を下げる。彼女の表情に、任務を終えた高揚感はない。ただ、淡々とした事実の確認があるだけだった。
そんな娘の様子に、アルブレヒトは小さくため息をつき、本題を切り出した。
「今朝方、王宮から連絡があった。昨夜の件の後始末についてだ」
「して、クリストフ殿下は」
「殿下は、国王陛下から直々の叱責を受け、一ヶ月の謹慎処分を言い渡されたそうだ。まあ、王子という立場上、表立った罰はあれが限界だろう。だが、王位継承の道は、これで事実上、絶たれたも同然だ」
「そうですか」
エレオノーラは、かつての婚約者の末路を、ただ一言で受け止めた。その瞳には、憐憫も、喜びもない。
アルブレヒトは続ける。
「リリアーナ・メラーとその一家は、昨夜のうちに王宮騎士団によって身柄を拘束された。背後にいたベルンシュタイン公爵を始めとする貴族たちも、全員捕らえられた。現在、彼らとアルビオン帝国との繋がりについて、厳しい尋問が行われている」
「……結構でございます」
「お前は、本当に……」
娘のあまりの冷静さに、アルブレヒトは言葉を飲み込んだ。これが、自分の娘が生きる世界の常なのだと、改めて思い知らされる。誇らしく思うと同時に、父親として、胸が締め付けられるような痛みも感じていた。
彼は、一度だけ咳払いをして、公爵としての仮面を被り直した。
「報告を続ける。陛下から、そなたの『反逆の企みを未然に防いだ功』に対し、個人への感謝状と、ヴァイスフェルト家への多額の報奨金が正式に下賜された。これで、先の夜会での一件で、我が家の体面に傷がついたと見る者もいなくなるだろう」
「…結構でございます」
「うむ」
エレオノーラの素っ気ない返事を聞くと、父は立ち上がった。
「私は、陛下への詳細報告のため、これから王宮へ行く。…例の『道』を使えば、すぐに着く」
彼は扉へと向かい、そして、ドアノブに手をかけたまま、一度だけ、娘を振り返った。
その目は、威厳ある公爵ではなく、ただの父親の目をしていた。
「…エレオノーラ」
「はい、お父様」
「後のことは気にするな。今日は、ただの娘として、ゆっくり休め。…いいな」
「…はい」
エレオノーラが小さく頷くのを見て、父は今度こそ、迷いなく部屋を出ていった。
その背中を見送り、エレオノーラは再び一人になる。
(ただの、娘として…)
父の最後の言葉を、彼女は胸の中で反芻する。
もう何年も忘れていた、その温かい響きに、ほんの少しだけ、心が安らぐのを感じた。
エレオノーラは椅子に深く腰掛け、目を閉じた。
そうだ、休もう。二年間の疲れを癒し、明日からは――
そこまで考えた、その時だった。
廊下の向こうから、侍女のものではない、慌ただしい複数の足音が聞こえてきた。
何事かと眉をひそめたエレオノーラの耳に、階下からのメイドの悲鳴に近い声が届く。
「お、お嬢様、大変です! おも、表門に、王家の……黒塗りの馬車が……!」
黒塗りの、馬車。
その言葉に、エレオノーラの背筋に、冷たいものが走った。
王族が公式に使う、金糸で飾られた華やかな馬車ではない。王家の紋章だけを小さく掲げた、装飾のない黒塗りの馬車。
それは、国王が極秘の任務を帯びた者を遣わす時にのみ使われる、王直属の「影」の乗り物だった。
エレオノーラは窓辺に駆け寄り、眼下を見下ろす。
そこに停まっていたのは、間違いなく、あの黒塗りの馬車だった。周囲を固めるのは、見慣れた近衛騎士ではなく、顔も知らない、気配を消した屈強な護衛たち。
任務は、終わったはずではなかったのか。
混乱する彼女の部屋の扉が、今度は躊躇なく、力強くノックされた。
扉の向こうから、感情を一切排した、低い男の声が響く。
「エレオノーラ・フォン・ヴァイスフェルト様。国王陛下より、極秘の御召しにございます。――今すぐに」
エレオノーラは、ゆっくりと天を仰いだ。
机の上の紅茶は、まだ温かい湯気を立てている。
私の『平穏』は、どうやら紅茶が一杯冷めるほどの時間も、許されてはいないらしい。
彼女は自嘲とも諦めともつかない、微かな笑みを口元に浮かべた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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