第9話:学び舎通りの地図
昼の鐘が二つ。音は短く、すぐ空に吸い込まれた。
窓を細く開ける。紙と油と香草の匂い。メーティスの匂いだ――と、自分に言い聞かせる。
「行ってきます」
私が外套の紐を締めると、ルカが軽く頷いた。
「本日は三つ。学び舎通りで地図、舟宿で時刻、道具屋で札紐。順番は地図から」
「了解。歩幅は合わせる」
「間も」
二人で階段を降りる。宿の女将が声をかけた。
「札は見えるように下げておくれ。午後の見回り、今日は多いよ」
「はい」
私は滞在札を外套の胸元に出し、紐の結び目を一つだけ固くする。札の角は丸い。メーティスの角は、たいてい丸い。
◇
通りは明るい。文字は丸く、旗は薄色。
学び舎通りは、市の真ん中を少し外れたところ。古本屋が三つ、文具屋が二つ。子どもが本を抱えて走っていく。
古本屋の扉を押すと、鈴がやさしく鳴った。
「いらっしゃい」
腰の低い老人が、丸眼鏡の奥からこちらを見る。
棚には地図の束。年が書いてある札も丸い字だった。
「地図が欲しいのですが」
「どこの?」
「この市と、川筋。新しめのものを」
老人は指を二本立て、積みの中を探る。
「二年前の版があるよ。去年は改版されてない。雨季の流れが今の線に近い」
「こちらで」
私は二枚の地図を手に取る。紙は軽い。折り目は浅い。
ルカが横で静かに言う。
「川幅、ここが広がっている。舟宿までの抜け道も変わっている」
老人が頷く。
「橋の下に新しい屋台が並んだのさ。人が増えると、地図も太る」
私は笑った。こういう説明は好きだ。
「学び舎の方へ行くなら、午後は風が逆だよ。紙を抱える手を換えるといい」
「助かります」
銅貨を置く。老人がふと、私の札の紐を見た。
「結びが堅いね。落ちはしないが、解けにくい。夜に外すなら、ここを一つゆるめな」
「ありがとうございます」
店を出ると、通りの掲示板に役人が紙を貼っていた。
丸い字で「巡回強化」「札は見えるように」。
役人が振り向く。
「札のご提示を」
ルカが先に出す。私は一歩遅れて札を示す。
役人は軽く頷いた。
「はい、結構。昼から風が出る。札を裏に回さないように」
「お気遣い、ありがとうございます」
王国の~という言い方は、どこにもない。ここでは、それでいい。
◇
舟宿は川沿い。水の匂いと油の匂いが混ざっている。
梁から時間板が下がり、紙片に時刻が手書きされていた。
受付の男が顔を上げる。
「お二人さん、乗るかい?」
ルカが先に答える。
「今日は乗らない。時刻を知りたい」
男は板を指で叩く。木の音が乾いていた。
「上りは朝、下りは夕。荷が多ければ臨時が出る。人だけなら、薄金一枚。荷があるなら荷札を買いな」
私は紙片の端を指で押さえ、目に入れる。
「明日も同じですか?」
「風と水次第。今の季は大きくは変わらない」
「紹介状は要りますか」
「要らない。荷が重いときだけ、先払い。人は当日でいい」
男がちらり、と私の滞在札を見る。
札が胸元で揺れ、角が光った。
「札がしっかり見える。いいね。落とすと厄介だ」
「心得ます」
帳場の隅に、筆を持った若い書き役がいた。
紙に何か書いている。目が少しこちらに寄った。
ルカがほんの少し、体を私の前にずらす。
そのまま、私たちは板の時刻を写し、礼をして引いた。
外の風は川の上を滑ってくる。地図がめくれかけたので、私は手を換えた。
学び舎通りの老人の言った通りだ。
◇
道具屋は、宿の道すがら。
紐、針、封蝋、紙。並びは王国と大差ないのに、配置の間合いが違う。
女主人が手を止めた。
「何をお探し?」
「札紐。ほどけにくくて、夜に外しやすいもの」
彼女は笑った。
「うちの紐は、昼に堅く、夜にやさしい。触ってごらん」
私は手に取る。表面はさらり、芯は柔らかい。
ルカが首を傾ける。
「結び目の向きはどちらに」
「上から入れて、右へ倒す。落としたい時だけ、左へ」
「一本、ください」
薄金を置く。女主人がふと、私の手袋を見た。
「縫い目が細かい。いい仕事。手袋は、踵ではなく指先から脱ぐと傷まないよ」
「覚えておきます」
店を出たところで、通りの端を二人組の見回りが通る。
丸盾、短槍。足音はそろっている。
私たちは足を止めず、歩幅だけ半歩詰めた。
視線は、札へ誘導。通り過ぎる。
ヒヤリは、形にならなかった。
◇
宿へ戻る前に、露店でパンを二つ。
焼き色が軽い。中はふわり。
私は一口ちぎって、思わず言う。
「柔らかい」
店主が笑った。
「歯の弱い客もいるからね。尖らせないのが、うちのやり方」
尖らせない。
この街の音も、言葉も、角がない。
私の胸の糸が、少しだけ緩む。
◇
宿に戻ると、女将が指で廊下の棚を示した。
「夜の前に、札の向きを一度だけ見直しな」
「はい」
部屋に入る。
窓を少し開け、机に地図を広げる。
一枚は今朝買った市の地図。もう一枚は川筋。
ルカが椅子を引き、私の横に座る。
「線を合わせる」
「うん」
私は鉛筆で印を付ける。丸い点。
王国で癖になった角印は使わない。ここは丸い。
「舟宿までは、人通りの多い道を使う」
「理由」
「普通に見える。普通は、強い」
「同感だ。帰り道は一本ずらす」
「迷ったら、旗の薄い方へ」
「合図は変えない」
「三回叩く――停止。二回――続行。一回――交代」
「視線の合図は」
「右から左をゆっくり三つ――監視あり。左から右を速く二つ――監視薄い」
「よし」
ルカが右手で地図の角を押さえ、左手で札紐を指に巻いた。
「札紐を替える。昼は堅く、夜はやさしく」
私は頷く。
「ほどけないために、ほどける方法を持つ。好きね、そういうの」
「生き残るための手順だ」
会話は短い。必要な分だけ。
◇
鐘が三つ。
廊下に出る。棚の札はどれも角が丸く、向きが揃っている。
私の札も向きを直し、紐の結び目を右へ倒す。
女将が通りかかって言った。
「大丈夫だね。明日の朝、棚を見に来るよ」
「よろしくお願いします」
その時、階段の下から声がした。
「札の見回り」
二人組の見回りが来た。昼の二人とは別の顔。
先頭の男が笑う。
「今日は多いんだ。祭りの仕込みで、人が増える」
「そうなのですね」
「明日から、橋の上に夜灯がつく。暗がりで札を落とす人が増える。気をつけな」
「気をつけます」
男は私の札を見て、すぐ視線を外した。
通り過ぎる足音が遠ざかる。
私は息をひとつ吐く。
「よく通した」
ルカが言う。私は頷く。
「“いない”を作れている」
「この国の、普通を覚えてきた」
「まだ初日」
「初日の距離は、詰めすぎない」
その言い方が、少しだけおかしくて、私は笑ってしまいそうになった。
笑わない。笑いは、次の合図の時に使う。
◇
部屋に戻る。
灯を落とし、地図をたたむ。紙が鳴る音が柔らかい。
私は窓の外を見た。旗の影がゆっくりと揺れている。
「明日の順番」
ルカが言う。
「朝一で舟宿、次に文具屋で薄紙、昼に古本屋でもう一度。午後は路地の抜け道を一本ずつ覚える」
「了解。足の癖を早く拾う」
「合言葉は要らない」
「はい」
「休む」
ルカが立つ。扉の前で、振り返らない声。
「札は枕元に」
「わかってる」
扉が静かに閉まる。
私は滞在札を外套から外し、紐を新しいものに替えた。
結び目を右に倒し、札を枕元へ置く。
窓を閉める前に、夜の気配を一つ吸い込む。
紙と油と香草の匂い。
メーティスの夜だ――と、今度は自然に思えた。
「大丈夫」
声は小さく、でもさっきよりずっと簡単に出た。
明日は、線をもう一度重ねる。
普通の歩幅で。
普通の間で。
普通の速さで。
それが1番、強い盾になる。