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第9話:学び舎通りの地図

昼の鐘が二つ。音は短く、すぐ空に吸い込まれた。

窓を細く開ける。紙と油と香草の匂い。メーティスの匂いだ――と、自分に言い聞かせる。


「行ってきます」


私が外套の紐を締めると、ルカが軽く頷いた。


「本日は三つ。学び舎通りで地図、舟宿で時刻、道具屋で札紐。順番は地図から」


「了解。歩幅は合わせる」


「間も」


二人で階段を降りる。宿の女将が声をかけた。


「札は見えるように下げておくれ。午後の見回り、今日は多いよ」


「はい」


私は滞在札を外套の胸元に出し、紐の結び目を一つだけ固くする。札の角は丸い。メーティスの角は、たいてい丸い。





通りは明るい。文字は丸く、旗は薄色。

学び舎通りは、市の真ん中を少し外れたところ。古本屋が三つ、文具屋が二つ。子どもが本を抱えて走っていく。


古本屋の扉を押すと、鈴がやさしく鳴った。


「いらっしゃい」


腰の低い老人が、丸眼鏡の奥からこちらを見る。

棚には地図の束。年が書いてある札も丸い字だった。


「地図が欲しいのですが」


「どこの?」


「この市と、川筋。新しめのものを」


老人は指を二本立て、積みの中を探る。


「二年前の版があるよ。去年は改版されてない。雨季の流れが今の線に近い」


「こちらで」


私は二枚の地図を手に取る。紙は軽い。折り目は浅い。

ルカが横で静かに言う。


「川幅、ここが広がっている。舟宿までの抜け道も変わっている」


老人が頷く。


「橋の下に新しい屋台が並んだのさ。人が増えると、地図も太る」


私は笑った。こういう説明は好きだ。


「学び舎の方へ行くなら、午後は風が逆だよ。紙を抱える手を換えるといい」


「助かります」


銅貨を置く。老人がふと、私の札の紐を見た。


「結びが堅いね。落ちはしないが、解けにくい。夜に外すなら、ここを一つゆるめな」


「ありがとうございます」


店を出ると、通りの掲示板に役人が紙を貼っていた。

丸い字で「巡回強化」「札は見えるように」。

役人が振り向く。


「札のご提示を」


ルカが先に出す。私は一歩遅れて札を示す。

役人は軽く頷いた。


「はい、結構。昼から風が出る。札を裏に回さないように」


「お気遣い、ありがとうございます」


王国の~という言い方は、どこにもない。ここでは、それでいい。





舟宿は川沿い。水の匂いと油の匂いが混ざっている。

梁から時間板が下がり、紙片に時刻が手書きされていた。


受付の男が顔を上げる。


「お二人さん、乗るかい?」


ルカが先に答える。


「今日は乗らない。時刻を知りたい」


男は板を指で叩く。木の音が乾いていた。


「上りは朝、下りは夕。荷が多ければ臨時が出る。人だけなら、薄金一枚。荷があるなら荷札を買いな」


私は紙片の端を指で押さえ、目に入れる。


「明日も同じですか?」


「風と水次第。今の季は大きくは変わらない」


「紹介状は要りますか」


「要らない。荷が重いときだけ、先払い。人は当日でいい」


男がちらり、と私の滞在札を見る。

札が胸元で揺れ、角が光った。


「札がしっかり見える。いいね。落とすと厄介だ」


「心得ます」


帳場の隅に、筆を持った若い書き役がいた。

紙に何か書いている。目が少しこちらに寄った。

ルカがほんの少し、体を私の前にずらす。

そのまま、私たちは板の時刻を写し、礼をして引いた。


外の風は川の上を滑ってくる。地図がめくれかけたので、私は手を換えた。

学び舎通りの老人の言った通りだ。





道具屋は、宿の道すがら。

紐、針、封蝋、紙。並びは王国と大差ないのに、配置の間合いが違う。

女主人が手を止めた。


「何をお探し?」


「札紐。ほどけにくくて、夜に外しやすいもの」


彼女は笑った。


「うちの紐は、昼に堅く、夜にやさしい。触ってごらん」


私は手に取る。表面はさらり、芯は柔らかい。

ルカが首を傾ける。


「結び目の向きはどちらに」


「上から入れて、右へ倒す。落としたい時だけ、左へ」


「一本、ください」


薄金を置く。女主人がふと、私の手袋を見た。


「縫い目が細かい。いい仕事。手袋は、踵ではなく指先から脱ぐと傷まないよ」


「覚えておきます」


店を出たところで、通りの端を二人組の見回りが通る。

丸盾、短槍。足音はそろっている。

私たちは足を止めず、歩幅だけ半歩詰めた。

視線は、札へ誘導。通り過ぎる。

ヒヤリは、形にならなかった。





宿へ戻る前に、露店でパンを二つ。

焼き色が軽い。中はふわり。

私は一口ちぎって、思わず言う。


「柔らかい」


店主が笑った。


「歯の弱い客もいるからね。尖らせないのが、うちのやり方」


尖らせない。

この街の音も、言葉も、角がない。

私の胸の糸が、少しだけ緩む。





宿に戻ると、女将が指で廊下の棚を示した。


「夜の前に、札の向きを一度だけ見直しな」


「はい」


部屋に入る。

窓を少し開け、机に地図を広げる。

一枚は今朝買った市の地図。もう一枚は川筋。

ルカが椅子を引き、私の横に座る。


「線を合わせる」


「うん」


私は鉛筆で印を付ける。丸い点。

王国で癖になった角印は使わない。ここは丸い。


「舟宿までは、人通りの多い道を使う」


「理由」


「普通に見える。普通は、強い」


「同感だ。帰り道は一本ずらす」


「迷ったら、旗の薄い方へ」


「合図は変えない」


「三回叩く――停止。二回――続行。一回――交代」


「視線の合図は」


「右から左をゆっくり三つ――監視あり。左から右を速く二つ――監視薄い」


「よし」


ルカが右手で地図の角を押さえ、左手で札紐を指に巻いた。


「札紐を替える。昼は堅く、夜はやさしく」


私は頷く。


「ほどけないために、ほどける方法を持つ。好きね、そういうの」


「生き残るための手順だ」


会話は短い。必要な分だけ。





鐘が三つ。

廊下に出る。棚の札はどれも角が丸く、向きが揃っている。

私の札も向きを直し、紐の結び目を右へ倒す。

女将が通りかかって言った。


「大丈夫だね。明日の朝、棚を見に来るよ」


「よろしくお願いします」


その時、階段の下から声がした。


「札の見回り」


二人組の見回りが来た。昼の二人とは別の顔。

先頭の男が笑う。


「今日は多いんだ。祭りの仕込みで、人が増える」


「そうなのですね」


「明日から、橋の上に夜灯がつく。暗がりで札を落とす人が増える。気をつけな」


「気をつけます」


男は私の札を見て、すぐ視線を外した。

通り過ぎる足音が遠ざかる。

私は息をひとつ吐く。


「よく通した」


ルカが言う。私は頷く。


「“いない”を作れている」


「この国の、普通を覚えてきた」


「まだ初日」


「初日の距離は、詰めすぎない」


その言い方が、少しだけおかしくて、私は笑ってしまいそうになった。

笑わない。笑いは、次の合図の時に使う。



部屋に戻る。

灯を落とし、地図をたたむ。紙が鳴る音が柔らかい。

私は窓の外を見た。旗の影がゆっくりと揺れている。


「明日の順番」


ルカが言う。


「朝一で舟宿、次に文具屋で薄紙、昼に古本屋でもう一度。午後は路地の抜け道を一本ずつ覚える」


「了解。足の癖を早く拾う」


「合言葉は要らない」


「はい」


「休む」


ルカが立つ。扉の前で、振り返らない声。


「札は枕元に」


「わかってる」


扉が静かに閉まる。

私は滞在札を外套から外し、紐を新しいものに替えた。

結び目を右に倒し、札を枕元へ置く。


窓を閉める前に、夜の気配を一つ吸い込む。

紙と油と香草の匂い。

メーティスの夜だ――と、今度は自然に思えた。


「大丈夫」


声は小さく、でもさっきよりずっと簡単に出た。


明日は、線をもう一度重ねる。

普通の歩幅で。

普通の間で。

普通の速さで。


それが1番、強い盾になる。

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