表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/10

プロローグ

【初めてお読みになる皆様へ】

この物語の全ての始まりとなる前日譚です。長編となりますが、まずはこちらをお楽しみください。


【短編をすでにお読みいただいた皆様へ】

多大な応援、誠にありがとうございます!

このプロローグは、公開済みの短編と全く同じ内容となっております。

次の「第一章 第1話」からが完全新作の物語となりますので、そちらへ読み進めていただけますと幸いです。

夜会を彩る、天井から吊るされた巨大なシャンデリア。その無数の水晶が放つ光は、まるで昼間のような明るさでホールを照らし、磨き上げられた大理石の床に金色の星屑を散りばめていた。


優雅なワルツの旋律、貴婦人たちの扇子がはためく音、そして当たり障りのない会話で満たされた空間。そのすべてが幸福と繁栄の象徴のように輝いている。

けれど、私の耳には、そのすべてが、今から始まるくだらない茶番劇のための、大げさで空々しい前奏曲にしか聞こえなかった。


私の視線の先、ホールの中心で、一際華やかな輪ができていた。その中心にいるのはもちろん、このゴールデンバウム王国の第一王子、クリストフ殿下と、彼が寵愛する男爵令嬢、リリアーナ・メラー。リリアーナは、庇護欲をそそる小動物のようにクリストフ殿下に寄り添い、金の髪を揺らしながら可憐に微笑んでいる。その姿は、計算され尽くした「無垢」の結晶だ。


「まあ、ご覧になって。リリアーナ様のなんと愛らしいこと。それに比べてヴァイスフェルト公爵令嬢は…」

「いつも仏頂面で、見ているこちらが凍えてしまいそう…」


すぐそばを通り過ぎた令嬢たちの囁き声が、わざとらしく私の耳に届く。私は気にも留めず、手にしたグラスの中の赤い液体を、ゆっくりと揺らした。血のように赤いそれは、今宵の結末を暗示しているかのようだ。





私の名前はエレオノーラ・フォン・ヴァイスフェルト。

ヴァイスフェルト公爵家の長女であり、クリストフ殿下の正式な婚約者。

――そして、表の顔は。

傲慢で嫉妬深く、夜会の華であるリリアーナをとことんいじめ抜く、絵に描いたような『悪役令嬢』だ。


「エレオノーラ、少しは慎んだらどうだ。君のその刺々しい視線が、リリアーナを怯えさせているのがわからないのか」


不意に、すぐそばで苦々しげな声がした。いつの間にか輪を抜けてきたクリストフ殿下が、眉間に深いシワを寄せて私を見下ろしている。彼の完璧に整えられた顔立ちは、不機嫌さによってその美しさを歪めていた。


「まあ、殿下。わたくしがどなたを見ていようと、わたくしの自由ですわ。それに、わたくしの視線ひとつで壊れてしまうほど、あの方は脆弱でいらっしゃるのかしら? この国の未来の王妃になるかもしれない方が、それでは心許ないですわね」


わざとらしく扇で口元を隠し、クスクスと意地悪く笑ってみせる。クリストフ殿下の顔が、怒りで微かに赤らんだ。それでいい。もっと私を嫌悪すればいい。私が「悪」であればあるほど、あなたの愛するリリアーナの「善」は輝きを増し、敵は油断するのだから。


「君という女は、どうしてそう捻くれているんだ! リリアーナの優しさや純粋さが、君には眩しすぎるというのか!」

「優しさ? 純粋? まあ、殿方はいつだっておめでたいものですのね」


私は冷たく言い放ち、彼に背を向けた。追いかけてこないことはわかっている。彼はすぐにリリアーナの元へ戻り、私の「仕打ち」を慰めるのだろう。そのやり取りこそが、敵を安心させる格好の材料となる。


すべては、与えられた任務のため。孤独な、しかし誇り高い任務のためなのだ。





私がこの『悪役令嬢』という仮面をかぶり始めてから、もう二年が過ぎようとしていた。

始まりは、国王陛下から直々にいただいた、あまりにも重い秘密の命令だった。


二年前、まだリリアーナが社交界に現れる前。私とクリストフ殿下の関係は、決して悪いものではなかった。幼い頃から定められた婚約者として、互いに尊重し、未来の国王と王妃として、この国をどう支えていくかを語り合った夜もある。穏やかで、知的な彼は、私の良き理解者だった。

だが、すべては変わった。リリアーナ・メラーという少女の登場によって。


『エレオノーラ。そなたの賢さと、国を思うその忠誠心を信じ、打ち明ける』


陛下の執務室。分厚い絨毯が足音を吸い込む部屋で、私はひざまずき、そのお言葉を拝聴していた。窓の外は嵐で、雷鳴が遠くで轟いていたのを覚えている。


『我が息子クリストフの周りに、不穏な影がある。どうやら隣国、アルビオン帝国の息がかかった者たちが、リリアーナ・メラーという娘を使い、王子に取り入ろうとしている。だが、確たる証拠がない』


リリアーナ・メラー。田舎のしがない男爵家の娘。しかしその出自の低さこそが、貴族たちの警戒を解き、同情を集める武器となった。彼女が王立学園に特待生として編入してきてから、クリストフ殿下はまるで魔法にでもかかったかのように、彼女に夢中になったのだ。


『奴らの目的は、おそらく王家の内情を探り、いずれクリストフを傀儡として王位に就け、この国を内側から食い破ることだろう。エレオノーラよ、そなたにしか頼めぬ任務がある』


陛下は地図を広げ、アルビオン帝国との国境線を指し示した。そこには、近年不穏な動きを見せるベルンシュタイン公爵領が広がっている。


『クリストフの婚約者として、わざと“悪役令嬢”を演じるのだ。リリアーナを嫉妬し、いじめることで、周囲の同情を彼女に集めさせよ。そうすれば敵は油断し、君をただの愚かな女だと侮るだろう。その仮面の下で、リリアーナと、その背後にあるベルンシュタイン公爵、そして帝国の繋がりを示す証拠を掴むのだ』


それは、私のすべてを捨てるに等しい任務だった。友人、名誉、そしてクリストフ殿下との穏やかな未来。そのすべてを犠牲にして、国中の嫌われ者になれという命令。

しかし、私は迷わなかった。


「ヴァイスフェルト家の名誉にかけて。このエレオノーラ、必ずや任務を遂行いたします」


深く頭を下げた私に、陛下は「すまぬな」と、父親のような声で呟いた。





それからの日々は、まさに仮面舞踏会だった。

わざとリリアーナのドレスにワインをこぼし、彼女の教科書を隠し、クリストフ殿下との逢瀬を邪魔する。学園の誰もが私を非難し、クリストフ殿下の私への愛情は、日に日に冷たい憎悪へと変わっていった。


忘れもしない。ある雪の日、リリアーナがわざとらしく中庭の凍った噴水に落ちたことがあった。もちろん、彼女が自分で足を滑らせただけだ。しかし、ずぶ濡れで震える彼女を抱き起したクリストフ殿下は、何も言わずにそばに立っていた私を、生まれて初めて、本気で憎しみのこもった瞳で睨みつけた。


「君の仕業か。満足か、エレオノーラ」


違う、と叫びだしたい喉を必死で押さえつけ、私は扇の影で嘲笑を浮かべた。


「あら、ご冗談を。あのようなみすぼらしい方に、わたくしが手を汚す価値もございませんわ」


その一言が、決定的に私たちの心を裂いた。

彼は二度と私を愛おしげな目で見なくなった。


だが、その孤独こそが、私に力を与えてくれた。誰も近づかないからこそ、私は誰にも気づかれずに情報を集めることができた。夜会でわざとグラスを倒して騒ぎを起こし、その隙にベルンシュタイン公爵の密談を盗み聞きした。リリアーナの侍女を買収し、彼女の部屋から帝国製の特殊なインクで書かれた手紙の切れ端を手に入れたこともあった。


一つ一つの証拠がパズルのピースのように集まっていく。そのすべてが、今宵、この卒業記念夜会で、一枚の絵として完成するのだ。

私の任務が終わる、その瞬間に。





「クリストフ殿下、リリアーナさん。ダンスのお時間ですわよ」


私はあえて二人の間に割って入り、からかうように微笑んだ。リリアーナはビクッと体を震わせ、クリストフ殿下の腕の後ろに隠れる。本当に、最後の最後まで見事な大根役者だ。


「エレオノーラ、もうやめてくれ! 君のその態度には、もううんざりなんだ!」


クリストフ殿下が、ついに堪忍袋の緒が切れたというように声を張り上げた。

待っていた言葉だ。周囲のざわめきが、ピタリと止まる。皆が、固唾を飲んで私たち三人に注目している。最高の舞台が整った。


「まあ、うんざりだなんて。わたくしは殿下の婚約者として、当たり前のことを申し上げているだけですのに」

「婚約者だと? その立場を盾にして、君はどれだけリリアーナを傷つければ気が済むんだ!」


殿下はリリアーナの肩を強く抱き寄せ、まるで世界中の悪から彼女を守る騎士のように、私を睨みつけた。その瞳には、かつての優しい光はなく、ただ燃えるような憎しみと、深い侮蔑の色があるだけだった。


そして、ついにその時が来た。

クリストフ殿下は大きく息を吸い込み、ホール中に響き渡る声で、高らかに宣告した。


「エレオノーラ・フォン・ヴァイスフェルト! この場を借りて、貴様との婚約を破棄する!」


シーンと静まり返ったホールに、その言葉は劇的な宣告として広がった。

すぐに、抑えきれないどよめきと、私に対する嘲笑が入り混じった囁きが聞こえてくる。「当然の報いだ」「あの傲慢な令嬢もようやく年貢の納め時か」。リリアーナは、殿下の腕の中で、か細く泣きじゃくっている。それが勝利に打ち震える涙だということは、私にはお見通しだったが。


さあ、エレオノーラ。ここからが、あなたの本当の舞台よ。


私は、ゆっくりと背筋を伸ばした。扇をパタンと閉じ、クリストフ殿下を、そして彼に守られるリリアーナを、真っ直ぐに見据える。予想されていたであろう絶望や怒りではなく、むしろ心の底からの安堵に満ちた、穏やかな微笑みを浮かべて。


「婚約破棄、ですか」


私のあまりに落ち着いた、そしてどこか嬉しそうな声に、クリストフ殿下は一瞬、虚を突かれたような顔をした。


「……よかった。本当に、よかった。これで、わたくしの任務はすべて終了ですね」


「な……に?」


私の言葉の意味を理解できず、殿下が間の抜けた声を漏らす。周囲の貴族たちも、何が起こったのかわからず、ざわめきを大きくしている。





私は、ホールにいる全員に聞こえるように、しかしあくまで冷静な声で、言葉を続けた。


「クリストフ殿下。いいえ、もう殿下とお呼びする必要もありませんわね。クリストフ様。あなたとのこの婚約は、そもそもが国王陛下より拝命した、ある重要な任務を遂行するための、隠れ蓑に過ぎませんでしたのよ」


「任務……だと? 一体、何の話をしているんだ!」


動揺を隠せないクリストフ様に、私は憐れみにも似た感情を覚えた。この方も、ある意味では被害者なのだ。リリアーナという毒蜘蛛が張り巡らせた甘い罠に、まんまと囚われてしまったのだから。


「わたくしに与えられた任務。それは、『王国の敵を監視し、その正体を暴くこと』。クリストフ様、あなたはあまりに純粋で、人を疑うことをご存じない。その心の隙に、悪意が忍び寄っていたのですよ。だからこそ、陛下はわたくしをあなたの傍に置かれたのです。あなたを、そしてこの王国を、内側から蝕む者たちから守るために」





私はそこで一度言葉を切り、視線をリリアーナへと移した。彼女の肩が、小さく震えている。もはやそれは、か弱い少女の演技ではない。紛れもない、恐怖による戦慄だった。


「リリアーナ・メラーさん。いいえ、アルビオン帝国の密偵、コードネーム『リリー』。あなたの芝居も、なかなか見事でしたわ。辺境の貧乏男爵令嬢という身分を隠れ蓑に、その可憐な容姿と計算され尽くした言動で殿下に取り入り、王家の情報を盗み出す。実に見事な手腕ですこと」


リリアーナの顔から、サーッと血の気が引いていくのが見て取れた。彼女が庇護を求めるように見上げたクリストフ様も、ただただ呆然と私とリリアーナを交互に見るばかりだ。


「そ、そんな……何を馬鹿なことを……! エレオノーラ様は、わたくしへの嫉妬のあまり、おかしな妄想を!」


かろうじて絞り出したリリアーナの反論は、あまりに弱々しかった。


「妄想ですって? ではお尋ねしますが、あなたが月に二度、王都のはずれにある廃教会で、アルビオン帝国大使館の武官と密会を重ねていたのは、どのような『お茶会』だったのかしら? その武官が帝国でも指折りの諜報員であることも、調べはついております。ああ、それからあなたの困窮しているはずの男爵家に、どこからか多額の金銭が定期的に振り込まれていた記録も、すべて揃っておりますわよ」


私の具体的な指摘に、リリアーナの瞳が絶望に大きく見開かれる。


「それだけではございません。あなたがクリストフ様から聞き出した王宮の警備体制や、近衛騎士団の配置転換に関する情報。それらが、即座にアルビオン帝国側に漏れていたことも、すべて証拠が上がっております。あなたの目的は、いずれ来るべき日に、ベルンシュタイン公爵と結託してクーデターを起こし、クリストフ様を傀儡の王として即位させ、このゴールデンバウム王国を帝国に売り渡すこと。違いますか?」





ホールは、水を打ったように静まり返っていた。誰もが息を飲む中、私は最後の切り札を切る。


「ああ、そうそう。あなた方が最も信頼し、後ろ盾として頼っていたマルクス・フォン・ベルンシュタイン公爵ですが、彼も先ほど、王宮騎士団によって反逆罪の容疑で身柄を拘束されましたわ。あなた方の計画書、仲間たちのリスト、帝国との通信記録。すべて、彼の屋敷の隠し金庫から、わたくしが突き止めた情報通りに押収済みです。もちろん、あなたがた男爵家にも、今頃、騎士たちが向かっていることでしょう」


「そん……な……うそ……」


リリアーナは、がくりと膝から崩れ落ちた。完璧に作り上げられていた可憐な少女の仮面は剥がれ落ち、そこにはただ、計画のすべてが露見した絶望に打ちひしがれる、一人の密偵の顔があった。


私は、そんな彼女を冷たく見下ろした。


「あなたの敗因は、ただひとつ。わたくしを、ただの嫉妬深い愚かな女だと侮ったこと。悪役令嬢を演じるわたくしの派手な行動に気を取られ、その裏で、あなたのすべてが監視されていたことには、最後までお気づきにならなかったようですわね」





そして、私はゆっくりとクリストフ様に向き直った。彼は、信じられないというように首を振りながら、崩れ落ちたリリアーナと、冷徹な表情の私を交互に見ている。その瞳には混乱と、そして今になってようやく現れた後悔の色があった。


「エレオノーラ……君は……ずっと、そんな……重荷を……」

「ええ。あなたに罵られ、軽蔑されるたび、任務が順調に進んでいる証だと、心を奮い立たせておりました。わたくしが悪役であればあるほど、彼女は安心してあなたに近づけましたから。これも国のため、あなたのためと信じて」


私は、この二年間の孤独な戦いを思い返す。それでも、後悔はなかった。


「もう、わたくしの役目は終わりました。婚約破棄、謹んでお受けいたします。どうぞ、あなたがお選びになったその女性と、お幸せに……なれるものなら、ですが」


最後の言葉に、ほんの少しだけ皮肉を込めて、私は優雅にカーテシーをした。それは、元婚約者への別れの挨拶であり、任務完了の敬礼でもあった。


背後で、クリストフ様が「待ってくれ、エレオノーラ!」と叫んでいるのが聞こえた。リリアーナのすすり泣く声も。私を非難していた貴族たちの、当惑と畏怖の視線も感じた。


だが、私はもう振り返らない。


シャンデリアの光が降り注ぐホールを、私はただ一人、まっすぐに横切っていく。ハイヒールの音が、大理石の床に小気味よく響く。それは、重い役目から解き放たれた、自由への足音だった。


扉の前で待ち構えていた近衛騎士が、私に気づき、深く敬礼する。その顔は、私の幼馴染でもあった。彼は、すべてを知っていた数少ない協力者の一人だ。

「エレオノーラ様、お見事でございました。陛下がお待ちです」

「ご苦労さま、アラン。案内してちょうだい」


重厚な扉が、私のために開かれる。その向こうには、夜会の喧騒とは無縁の、静かで穏やかな廊下が続いていた。

扉が閉まる直前、ちらりとホールを振り返る。そこには、真実を突きつけられ、自分の愚かさに打ちのめされて膝をつく、元婚約者の惨めな姿があった。


(浅はかな殿方でしたこと)


心の中でそう呟き、私は完全に背を向けた。

これで、本当に終わり。そして、ここからが、私の本当の人生の始まりなのだ。

廊下の窓から差し込む月明かりが、まるで私の未来を照らすかのように、静かに足元を照らしていた。夜のひんやりとした空気が、熱を帯びた頬に心地よかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ