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リアナがひとりで先に帰ってきたカロータ伯爵家は、明かりが消えていて真っ暗だった。
今のカロータ伯爵家には、最低限の使用人しかいない。
それも、両親のときから仕えてくれていた人たちばかりなので、夜会などで遅くなる際には、先に休んでいるように伝えている。
だからひとりで先に帰ってきたリアナを、迎え出る者は誰もいなかった。
リアナは馬車を出してくれた御者に礼を言うと、真っ暗な屋敷に戻る。
自分の部屋に戻り、ひとりで着替えを済ませると、途端に疲れを感じた。
思っていたよりも緊張していたようだ。
姉が帰ってくるまで、もう少し時間が掛かるだろう。
少し休もうかと思ったところで、部屋の中に置いてあったドレスが目に入る。
(ああ、私にはもうひとつ、姉様のためにしなくてはならないことがあったわ)
一年後に予定されている結婚式の準備もホード子爵家が仕切ってくれるが、ドレスはこちらで用意することになっている。
だからリアナは、母親から引き継いだドレスを手直しして、それに装飾や刺繍を足して、華やかに仕上げる予定だった。
こうして婚約披露パーティが開かれたからには、ドレスもなるべく早く用意しなくてはならない。
それに疲れてはいたが、初めてのパーティに参加してかなり緊張していたらしく、すぐには眠れそうにない。
リアナは姉が戻ってくるまで、ドレスを縫うことにした。
姉がしあわせになれるように、祈りを込めて、丁寧に針を進めていく。
集中していると、あっという間に時間は過ぎていく。
屋敷の前に馬車が止まり、姉が帰ってきたことに気が付いて、リアナはドレスを置いて立ち上がった。
「おかえりなさい」
帰ってきた姉は、たくさんの人に祝福され、ナージェにも大切にされて、しあわせそうな顔をしていた。
けれど出迎えたリアナを見た途端、その笑顔が曇る。
リアナが姉のために『悪女ラーナ』として、婚約披露パーティに参加したことを思い出したのだろう。
「……ごめんなさい。私のせいで」
「姉様」
リアナは姉の謝罪を遮って、笑顔でそう言った。
「疲れていない? 今日はもう着替えをして、休んだほうがいいわ」
まだ謝罪しようとする姉を、無理やり寝室に押し込む。
姉はこの日のために事前に準備をしてきて、今日も朝からかなり緊張していた様子だった。
きっと疲れから、すぐに眠ってしまうだろう。
そしてリアナも自分の部屋に戻る。
結婚式までは一緒にいたかったが、姉のしあわせのためには、一刻も早くこの屋敷を出た方がいいのかもしれない。
(ドレスを、早く仕上げないと……)
姉の、しあわせそうな笑顔。
そして、自分に向けられた罪悪感。
亡き両親のこと。
疲れていたはずなのに、そんなことを考えていたら眠れなくなり、リアナは朝までドレスの手直しをしていた。
それから数回。
リアナは姉とナージェが参加する夜会に、ラーナとして出席した。
「どうしてわざわざ、エスリィーと同じ夜会に参加する?」
正式に姉の婚約者となり、カロータ伯爵家にも頻繁に出入りするようになったナージェから、直接そう言われたこともある。
もちろん、姉と『悪女ラーナ』が別人であることを、広く知れ渡るようにするためだが、そんなことを彼に言うつもりはない。
「どこに行こうと、私の自由でしょう?」
彼が訪問する日は、わざわざ着替えて派手な格好をしたリアナは、そう言って挑発的に笑った。
「今後のカロータ伯爵家の評判に関わる。私が当主となったら、もう自由にさせるつもりはない」
彼はそんなリアナに、厳しい表情でそう告げる。
それは当然だが、リアナはその前に家を出るつもりだ。
「そう。でも、まだ当主ではないわ」
その姉の、未来の幸福のために必要なのだ。
でもナージェにわかってもらう必要はない。だからそう言い返すと、彼の視線がますます厳しいものとなる。
「両親の残した借金の返済のために、エスリィーはずっと苦労をしてきた。それなのに君は、亡くなった娘の名前を勝手に名乗ってトィート伯爵を騙し、その金で贅沢に遊んで暮らしていた。恥ずかしいと思わないのか?」
そんな話になっているのかと、リアナは目を見張る。
姉が両親の借金を返済するために、苦労してきたのは事実。
だが姉を亡き娘の名で呼ぶようになったのは、トィート伯爵である。身につけていたドレスや装飾品はすべて、その娘の持ち物だ。
派手に見えるドレスや装飾品が年代物であることも、その当時、リアナはまだ十一歳の子どもだったことにも、ナージェは気が付かない。
彼だけではない。
きっと誰も、その矛盾を指摘することはないのだろう。
「あなたには関係ないでしょう? それに、あまり私を邪険にすると、お姉様が悲しむわよ」
それは脅しではなく事実で、ナージェがリアナを責める度に、姉は罪悪感で苦しんでしまう。
姉を悲しませないでほしい。
だから、自分のことは放っておいてほしい。
そんな願いを込めて告げた言葉も、ナージェにとっては姉を引き合いに出して脅したように思えてしまったようだ。
「卑怯なことを。亡きご両親も、君には失望しているだろう」
「……そうでしょうね」
自嘲気味にそう笑い、リアナは彼のもとを離れた。
悪意のある言葉にさすがに胸が痛いが、これは姉が、五年間ずっと経験してきたことだ。
ラーナとして人前に出たときに向けられる、侮蔑に満ちた視線。そして一部の男性の好色な視線。
姉が耐えてきたのだから、自分も頑張らなくてはならない。
そのしあわせのためなら、これくらいは何でもないと思っていた。