40
「お食事をお持ちしました。食べられますか?」
そっと声を掛けると、カーライズはゆっくりと目を開ける。
「子どもたちは」
「向こうで、マルティナさんが見てくれています。だから安心してください」
「そうか。よかった」
そう言うと、カーライズは安堵したように頷いた。
親にも捨てられた子どもたち。
でもカーライズのように、自分の身よりも子どもたちを心配し、常に気に掛けている人もいる。
そう思うと、少し救われたような気持ちになる。
「何かあったのか?」
そんなことを思っていると、カーライズがリアナを心配そうに見ていることに気が付いた。
「い、いえ。あの……」
彼とは一年間、同じ屋敷で夫婦と暮らしておきながら、一度も顔を合わせることなく、話すこともなかった。
そんな相手と、こんな至近距離で話をしている。
それを不思議に思いながら、カーライズの気遣うような視線に、思わず先ほどのことを話してしまっていた。
「あの子たちが、自分の親にそんなことを言われたと思うと、つらくなってしまって……」
「ああ。私も、それを聞いたときは怒りを覚えたよ」
カーライズもその話を知っていたらしく、リアナの言葉に同意するように頷いた。
「私がこの町に辿り着いたときは、生きる気力をなくしてしまっている子どももいた。こんな子どもたちが、ひとりで生きていけるはずがない」
「はい……」
せめてここにいる子どもたちだけでも、何とかできないだろうか。
リアナには何もない。
ただの修道女でしかないのだ。
何もできないことに、罪悪感を覚えてしまう。
「心配するな。ここの子どもたちのことは、私が引き受けよう」
そんなリアナに、カーライズがそう声を掛けた。
「え?」
「ここまで関わったからには、最後まで責任を持つ。だから、そんな顔をするな」
優しく頭を撫でられて、リアナは慌てた。
「あっ……、ありがとう、ございます」
温かい、大きな手。
その手に触れられた瞬間、胸がどきりとした。
たしかにカーライズなら、それだけの資金も権力もある。
彼は、キリーナ公爵家の当主なのだ。
子どもたちは、もう大丈夫だ。
そう思った途端に、涙が溢れてきた。
「……ごめんなさい。泣くつもりは……」
今まで流してきたのは、悲しみの涙だった。
でも、この涙は違う。
安心しても涙が出るのだと、リアナは初めて知った。
「君も、きっと苦労してきたのだろうね」
そんなリアナに、カーライズは優しく告げる。
「だから、子どもたちの境遇を心配して、共感することができる。そう言えば、まだ君の名前を聞いていなかったね。私は、カーライズという。子どもたちはライと呼んでいるから、そう呼んでほしい」
「は、はい。私は……」
名前を答えようとして、躊躇う。
彼の前で、ラーナと名乗っても良いだろうか。
でもマルティナはリアナのことをラーナと呼んでいるし、今さら違う名前を名乗るわけにはいかない。
それに本名を名乗る勇気も、まだなかった。
「ラーナと、申します」
震える声でそう告げると、さすがにカーライズは少し驚いたような顔をした。
けれど、それをすぐに押し隠し、穏やかな笑みを浮かべる。
「ラーナか。よろしく頼む」
かつて、誰からも嫌悪されていた名前を優しく呼ばれた。
不思議と胸が高鳴る。
どうしたらいいのかわからない感情に陥って、リアナは胸を押さえた。
(そんなに優しい声で、名前を呼ばないで……)
自分の感情なのに、どうしたらいいのかわからなくなって、戸惑ってしまう。
「あの、食事をどうぞ」
食欲はあまりなさそうだったが、子どもたちのためにも早く元気になってほしいと言うと、何とか食べてくれた。
それから熱冷ましと、呼吸が楽になる薬を飲んでもらう。
「この薬も、高価なのか?」
「いえ、これは修道院で作っている薬です。山から薬草を摘んできて、それを煎じて作ります」
「そうなのか。私にはまだ、知らないことがたくさんあるな」
そう言って興味深そうに、薬の瓶を眺めている。
彼の瞳には、以前のような昏い影はなく、その濃い藍色の瞳は、興味深そうに輝いていた。
以前とは、まったく別人のようだ。
カーライズは、人を探していると言っていた。
その人の姉にも頼まれているが、顔も知らない相手だという。
きっと自分のことだろうと、リアナは思っていた。
けれど、それを確かめる勇気がない。
姉にはもう、自分のことは忘れてしあわせになってほしい。
それに、カーライズに自分が『悪女ラーナ』だと知ってほしくない
自分が元妻で契約結婚の相手であったと知れば、きっとこんなに優しく名前を呼んでくれないだろう。
「ラーナ、どうした?」
俯いたリアナを心配して、カーライズがそう尋ねる。
最初から敵意のある相手に蔑まれても、何とも思わなかった。
つらいことがあっても、姉のためだと思うと頑張れた。
でも、こんなに優しく名前を呼ばれたあとに、彼に蔑むような視線で見られたら、疎ましく思われてしまったら、きっと耐えられない。
「まさか、熱が?」
「だ、大丈夫です!」
額に触れられそうになって、慌てて身を引く。
「少し顔が赤いようだが……」
「元気ですから、ご心配なく」
そう言って勢いよく立ち上がってみせると、カーライズはそんなリアナを見て笑う。
「そうか。でも無理はないように」
「……はい」
優しく微笑みかけてくれる姿に、こんなに切ない感情を抱くなんて思わなかった。
あと10話で完結です。
最後までどうぞよろしくお願いいたします!