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「院長先生、勝手なことを言って申し訳ございません。どうか、隣町に行かせてください」
「お願いします」
マルティナに続いて、リアナも頭を下げた。
「隣町に足を踏み入れたら、もう流行病が収まるまで、ここに帰ってくることはできないわよ」
「もちろん、それは承知しております」
リアナが答えると、マルティナも頷いた。
「今回の流行病は、数年前のものと比べても恐ろしいものよ。それも、わかっているのかしら?」
リアナとマルティナは顔を見合わせて、頷いた。
「覚悟の上です」
「そう。ならば、これを飲んでからいきなさい」
院長はそう言って、机の上に液体の入った小瓶をふたつ置く。
「これは……」
「流行病の予防薬です。何とかふたつだけ、手に入りました。けれど、これはあくまで予防薬。けっして病に罹らないという保証はありません」
予防薬があるという話は、聞いていた。
それも一部の裕福な市民たちの手にしか渡らないもので、彼らは病が流行っている場所にはけっして行かないのに、高価な予防薬を買い占める。
貴族たちに行き渡っていないのは、彼らは流行病が発生するような場所とは無縁だからだ。
そんな高価な予防薬が、ふたつもここにある。
「どうして、これが……」
この修道院は、経済的な余裕はあまりなかったはずだ。
「少し、昔の伝手を使ったの。マルティナは絶対に隣町に行くと言うと思ったから、マルティナとふたりで行こうと思って」
そう言って、院長はリアナを見た。
院長は、ある裕福な商会の代表の妻だった。
そんな噂をされていたことを思い出した。
「まさか、あなたも行くと言うとは、思わなかったわ。ここは私たちに任せてもいいのよ。あなたにはまだ、未来があるもの」
「いいえ」
リアナは首を振る。
「どうか、行かせてください」
そう言うと、院長は頷いてくれた。
「わかったわ。しばらくマルティナのパンが食べられないのは、寂しいわね。花壇の世話は、私がやっておくわ。気を付けてね」
「はい。ありがとうございます」
リアナはマルティナと一緒に頭を下げて、予防薬を飲む。
大変だったろうに、隣町に行きたいと言うだろうマルティナのために、院長は必死に予防薬を探してくれたに違いない。
それからマルティナとふたりで荷造りをして、昼過ぎには隣町に出発した。
事情を知ったこの町の人たちが、食糧や衣服などを分けてくれる。
「気を付けて行くんだよ」
「人がいなくなった町には、盗賊も出る。鍵の掛かる部屋で暮らすようにね」
そう言って、気遣ってくれた。
たくさんの物資で荷物があまりにも多すぎてしまい、歩くのが大変だった。
荷物の重さでふらつきながら必死に歩き続け、何とか日が暮れる前に、隣町に辿り着くことができた。
きっと町は、ひどい状態だと思っていた。
マルティナが流行病を経験したときは、町中に遺体が転がり、苦しむ人々のうめき声が響き渡っていたという。
歩きながらそんな話を聞いていたので、リアナも覚悟はしていた。
けれど実際には、町は無人のように静かで、誰も倒れていない。
盗賊に荒らされてもいない様子である。
「教会に行ってみましょう」
マルティナにそう言われて、リアナも頷く。
この町に施療院はなかったが、たしか教会で病人の面倒を見ていたはずだ。
ふたりは教会に向かう。
入り口には、鍵が掛かっていて入れない。だから裏口に回ってみたが、ここは施錠されていなかった。
顔を見合わせて、ゆっくりと扉を開く。
するとそこには、複数の子どもたちが集まって、食事の支度をしていた。
扉を開ける音に気が付いた子どもたちが、リアナとマルティナを見て驚いていた。
「お姉ちゃんたち、誰?」
その中でも一番年上と思われる子どもが、警戒した口調でそう尋ねる。
まだ十歳くらいだろうか。
黒髪の可愛らしい少女だった。
「隣の修道院から来たのよ。ここに住んでいるのは、これで全員?」
数えてみると、子どもは六人ほどだ。
マルティナがそう尋ねると、少女は首を振る。
「ううん。もっと奥にたくさんいるよ。ここにいるのは、ライ様のお陰で元気になった子たち」
「ライ様?」
「うん。お父さんもお母さんも、知り合いの人たちも、みんな私たちを置いて逃げちゃったの。ご飯もないし、体も苦しいし、どうしたらいいのかわからないとき、助けてくれたのがライ様だったの」
その人は若い男性で、旅の途中だったようだ。
子どもたちだけが取り残された町があると聞き、たくさんの食糧を持って、この町に来てくれた。
各家を回って取り残された子どもたちを教会に集め、ずっとひとりで看病してくれたのだと言う。
「私たちより先に、この町の子どもたちを助けようとした人がいたんだね」
マルティナは、嬉しそうにそう言った。
子どもたちを見捨てる大人ばかりではないと、リアナも嬉しくなる。
「でもどうしてライさん、じゃなくてライ様なの?」
マルティナが聞くと、少女は首を傾げる。
「本当はもっと長い名前だったけど、覚えられなくて。そうしたら、ライ様がライでいいって言ってくれたの」
ライ『様」』なのは、子どもから見ても、明らかに上流階級の人だったからのようだ。
「その方は、今どこに?」
そう尋ねると、少女は途端に泣き出しそうな顔をする。
「一番具合の悪い子を、ライ様は毎日看病してくれていたの。そしたら、ライ様も病気になってしまって……」
重症の子どもと一緒に、教会の奥の部屋にいるらしい。
元気になった子どもは、再び病になってしまうことを懸念して、その部屋に立ち入ることを禁止されていた。
「お姉ちゃんたち、お願い。ライ様の様子を見てきてほしいの。あれからもう三日も経過しているから……」
周囲にいた子どもたちも、少女に呼応するように泣き出してしまった。




