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「ラーナ、ちょっと手伝ってくれる?」
「ええ、すぐに行くわ」
マルティナにそう言われて、リアナは返事をした。
ここでリアナは、『ラーナ』と名乗っていた。
この修道院を訪れた際に名前を聞かれたリアナは、咄嗟にラーナと名乗ってしまった。
姉が探しに来るかもしれないので、本名は名乗れないと思っていた。
けれどリアナはこれまで、ずっと姉とふたりきりで生きてきた。知り合いも友人もほとんどいない。
だから咄嗟に出てきた名前が、このラーナだけだったのだ。
最初は少し後悔した。
あまり良い思い出のある名前ではなかったからだ。
ラーナと呼ばれる度に、悪意に満ちた言葉と、蔑んだ視線を思い出す。
けれどトィート伯爵の娘のラーナの名前が、悪女の代名詞のようになってしまったのは、主にリアナのせいだ。
姉を守るために、悪女の名を利用した。
だからせめて、ラーナの名前でひとりでも多くの人を救いたい。
そう思い直して、そのままラーナと名乗ることにした。
「ありがとう、ラーナ。これをお願いね」
マルティナに頼まれて、リアナは食事の準備を手伝う。
彼女がパンを焼いている間に、スープを作る。
ふと、リアナはキリーナ公爵邸での食事を思い出した。あの具沢山のスープは、今まで食べたものの中で一番おいしかった。
(パンもとても柔らかくて……。よく庭園を眺めながら、食事をしていたわ)
ここで暮らしていると、なぜかキリーナ公爵邸のことばかり思い出す。
姉を助けるため、借金返済のために朝からずっと忙しく働いていたリアナにとって、自分の時間をこんなにもゆっくりと持てたのは、あのときが初めてだった。
もともと外にはあまり出ないし、会いに行く友人も親戚もいない。
好きな花を眺め、好きなだけ縫い物や刺繍をして、材料費や薪の残量を気にすることもなく、おいしい食事を食べることができる。
ときどき食事が届かないこともあったが、パーティに参加することさえなかったら、あんな生活が何年続いても、問題なく暮らせたのではないかと思う。
「隣町で、流行病が発生したらしいわ」
全員そろっての食事を終えたとき、修道院の院長が、憂い顔でそう言った。
「流行病……」
夫と子どもを流行病で亡くしたマルティナの顔が青ざめる。
リアナは彼女の背に、そっと手を添えた。
「生き残った人たちが、施療院に逃げ込んでくる可能性があるわ。でも、ここの病人のことを考えると、受け入れは慎重に。場合によっては、受け入れを拒否しなくてはならないことも覚えていて」
「……はい」
修道女たちは、それぞれ顔を見合わせて頷いた。
施療院では、どんな人でも受け入れることになっているが、流行病は別である。
隔離施設などないこの場所では、施療院の中で流行してしまったら、大変なことになる。
受け入れた結果、多くの命が失われてしまうかもしれないと考えると、院長の言葉は当然だ。皆はそう思っている様子だった。
でも、マルティナだけは何も言わずに俯いていた。
もし受け入れを拒否された患者が、彼女の亡くなった子どもと同じ年頃だったとしたら、マルティナは院長の言葉に従えるだろうか。
自分よりも先に亡くなった子どもに対する愛が、悲しいまでに深いことは、トィート伯爵を見ていたのでよくわかっている。
マルティナのためにも、流行病が早く終結することを願った。
けれど流行病は収まるどころか、ますます猛威を振るうようになっていく。
その病は子どもが罹りやすいようで、隣町では流行病に罹った子どもだけを置き去りにして、他の住人が逃げたという話だ。
その話を院長から聞いたリアナは、言葉を失った。
(そんな……)
無関係な大人だけではなく、その子どもの親たちでさえ、病を恐れて逃げ出したようだ。
この流行病は、それだけ恐ろしいものなのか。
他の修道女たちもこの話を聞いて、しばらくは隣町に近寄らないようにしようと話し合っていた。
(マルティナさん……)
リアナは彼女が、思い詰めたような顔をしていることが、気になった。
その日の夜、リアナはまったく眠れずに窓から外を眺めていた。
ここからそう遠くない隣町に、親にも見捨てられて、病に苦しむ子どもたちがいる。
そう思うと、とても眠ってなどいられなかった。
流行病がどれだけ恐ろしいものか、リアナも話で聞いてよく知っている。
町ひとつが全滅してしまったという話も、あったくらいだ。
だから、流行病の患者を受け入れないと決めた院長も、一家全滅を避けるために子どもを置いていった親も、苦渋の決断だったとわかっている。
わかっていても、苦しかった。
せめて様子を見に行きたいと思っても、もしリアナが病を持ち帰ってしまえば、話は修道院と施療院だけでは終わらない。
この町全体に、流行病が広がってしまう可能性がある。
せめて町の入り口に食糧だけでも置いておけないかと思うが、この修道院には余計な蓄えはまったくなく、切り詰めて生活しているくらいだ。
リアナ個人にも、資産はなかった。
自分の無力さが悔しい。
悪女と呼ばれ、蔑まれるよりも、苦しんでいる子どもがいるのに、何もできないことの方がつらいと思い知った。
朝になっても一睡もできなかったリアナは、少しでも頭をすっきりさせようと、庭にある井戸に顔を洗いにいく。
すると、同じような顔をしたマルティナに会った。
「ラーナも、眠れなかったみたいね」
「……はい」
ラーナと呼ばれ、この名前を名乗ろうと思った理由を思い出す。
この名前を悪女として貶めてしまった代わりに、ひとりでも多くの人を救うことができれば。
そう思っていたはずだ。
「マルティナさん、私、隣町に行こうと思います」
ただ、様子を見に行くだけのつもりはない。
流行病が落ち着くまで、向こうに住んで子どもたちの面倒を見ようと思っていた。
その決意を告げると、マルティナは驚いたような顔をして、リアナを見た。
「私も今日、院長先生にそう言おうと思っていたんだよ。でも、ラーナはまだ若いんだから、もっと自分を大切にしなきゃ」
「いいえ」
マルティナは優しくそう言ってくれたが、リアナの決意は覆らなかった。
「こうしている間にも、苦しんでいる子どもがいるかと思うと、胸が痛くて。このまま何もせずに普通に生活していくなんて、できませんでした」
一晩だけで、こんなに苦しいのだ。
このまま何もせずにいたら、もっと苦しくなるに違いない。
そう言うと、マルティナは少し考えたあと、リアナに言った。
「その苦しさは、私にもよくわかる。このままじゃ、もっと酷くなっていくこともね。じゃあ一緒に、院長先生のところに行こうか」
「はい」
突然院長室を訪れたマルティナとリアナの姿に、院長はふたりの目的が何なのか、わかっていたのだろう。
「マルティナは来るだろうと思っていたけれど、ラーナもなの?」
そう言って、少し困ったように笑った。




