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けれどこのときのカーライズは、リアナにたいして関心を持たなかった。
一年後に爵位を譲るための準備で、色々と忙しかったこともある。
違約金のことを持ち出して脅したからか、リアナはカーライズの前に現れることもなく、部屋で静かに暮らしているらしい。
姉の婚約者のナージェからは、リアナが愛人時代の裕福な暮らしを忘れられず、借金をしているのではないかと聞いていた。実際、報酬として支払った金は、すべて他の誰かの支払いに使ったようだ。
興味はなかったので詳細は聞かなかったが、ひとりだけ、かなりの金額を支払った相手がいたらしい。
きっとその相手に借金を支払うために、この契約結婚を引き受けたのだろう。
相手がトィート伯爵の愛人である『悪女ラーナ』であることを忘れるくらい、リアナは静かに暮らしていた。
外出は、馴染みの場所のような修道院だけ。
監禁のような待遇に文句を言うこともなく、邪魔にならないよう静かに暮らしている。
最初は、一年後に離縁されないように、計画的に無害な女性を装っているのだと思っていた。
純粋で無垢な振りをして、愛しているような振りをして、相手を騙す女性は存在している。
元婚約者のバレンティナのように。
リアナもきっと、そうなのだと。
けれどカーライズは、トィート伯爵のことを思い出す度に、本当にそうだろうかと疑問に思う。
彼は頑固そうな外見に反して、情の深い人物だった。
早くに亡くしてしまった妻と娘を今でも愛していて、娘を思い出すからという理由だけで、自暴自棄になって町を彷徨っていたカーライズを拾ってくれた。
そんな人が、いくら狡猾とはいえ、若い女性に簡単に騙されるだろうか。
ラーナを頼む、と言ったトィート伯爵の瞳には、恋に浮かれた愚かな男の瞳ではなかった。
そこから感じたのは、ただ純粋な愛情だけ。
だからこそ、カーライズはトィート伯爵をそこまで騙した『悪女ラーナ』に、嫌悪感を抱いていた。
リアナは契約時の約束通り、ひとりでパーティに参加することもあった。
その際には、執事は悪女であることを印象づけるために、わざと華美なドレスや装飾品を身に付けさせたと言っていた。
従者の報告によると、やはりリアナの印象は最悪のようだ。
貴族学園にも入学していない、礼儀知らず。
男性にばかり声を掛ける。
既婚者にも熱視線を送る。
そんな報告ばかりであった。
それを聞いて、やはり悪女であるのだと納得する反面、それが契約時の約束なのだから、無理に悪女を演じている可能性もあるのではないかと考えてしまう。
どうしてそんなことを考えてしまうのか、自分でもわからない。
恩人であるトィート伯爵が、若い女性に簡単に騙されてしまうような男だったと、思いたくないからだろうか。
そうしているうちに、大きな事件が起こってしまった。
リアナが参加したパーティに、元婚約者であるマダリアーガ侯爵令嬢のバレンティナも参加していたのだ。
バレンティナはカーライズがリアナと結婚してからも、何度も手紙を送ってきた。
キリーナ公爵夫人になるのは自分だから、早く悪女と別れて、自分を迎えに来てほしい。そう書かれていた。
幼い頃から、いずれキリーナ公爵夫人になるのだと言い聞かせられていたせいか。
彼女の執着は、カーライズの想像以上だった。
だが、バレンティナの父であるマダリアーガ侯爵は、早々にそんな娘の新しい婚約を決めていた。
彼の計画では、そのうちカーライズはリアナと離縁して、爵位を譲る予定である。
バレンティナはキリーナ公爵夫人ではなく、キリーナ公爵令嬢になるのだ。
だから、それに相応しい相手を選んだようで、それなりに資産家で家柄も良い、侯爵家の令息だった。
けれどバレンティナは、父の命令にも従わずに、カーライズに手紙を送り続ける。
彼女がそこまで自分に執着する理由が、カーライズ自身にもわからなかった。
そんなバレンティナと、彼女の立場を奪ったことになっているリアナが出会ったのだから、何も起こらないはずがなかった。
ここからの話は、世間の噂と、従者からの報告で随分違っていた。
世間では、リアナはバレンティナをわざと挑発して、彼女を怒らせ、そんな侮辱に耐えかねたバレンティナが、ついリアナにワイングラスを投げつけてしまった。
でもそれはリアナの作戦で、彼女はそれを難なく避ける。
その背後には、恋人に会いたくてお忍びで参加していた第三王女のロシータがいた。
バレンティナの投げつけたワイングラスは、よりによってロシータ王女の顔に当たってしまう。
未婚の王女の顔を傷付けたバレンティナは、咎められ、婚約も解消されて、修道院に入ることになってしまった。
すべて、バレンティナを陥れようとしたリアナの作戦だと。
たしかに、世間に広まっている『悪女ラーナ』の噂を考えれば、それが正しいように思える。
だがキリーナ公爵家に仕える従者からの報告は、真逆のものだった。
リアナを見つけたバレンティナは、取り巻きたちを連れて、散々彼女を罵った。
――没落貴族のくせに。
――教養も気品もない、派手で下品な女。
――トィート伯爵の愛人だったのに、公爵夫人になるなんて厚かましい。
そんな聞くに堪えない言葉が、リアナに浴びせられていたらしい。
それでもリアナはまったく反応せず、それにかっとしたバレンティナが、彼女にワイングラスを投げつけた。
そこに運悪く、第三王女のロシータがいた。
従者は、そう報告した。
キリーナ公爵家に忠誠を誓う彼が嘘を言うはずがないし、カーライズもバレンティナの性格はよく理解している。