マウンテン・ヌードル
私みたいなのが世の中って言っちゃうとちょっとあれなんですけど、世の中っていろんな三種の神器があるじゃないですか。
登山にもそう呼ばれてるやつがあって、もうあれなんで、クイズ形式とかじゃなくて正解まで言っちゃうんですけど、まずは靴なんですよね。これまじで大事ですから。
登山道って言っても落ち葉が敷き詰められてるみたいな、通称フカフカゾーンなんてやつは実際のところ全行程の一割もなくてですね、ほとんどは木の根っこが張り出してるゴツゴツした悪路ですし、沢沿いの涼しげなコースなんかを安易に通ろうもんなら、拳くらいの石がゴロゴロしてるわけですよ。だから学校の遠足みたく、履き慣れたスニーカーなら大丈夫っしょ、なんて浮ついた気持ちで臨んじゃうとですね、そりゃもう足首はくねるし足裏の皮は剥けるしで、カジュアルで決めたつもりが最後にはとんだ修行スタイルになっちゃうんですよね。そうなっちゃうのもちょっとあれですから、なんていうか、もろもろの自分のスタイルとかってあると思うんすけどそこはちょっと我慢して、山登り丸出しの芋っぽいデザインの靴を履くしかないんですけど、でもそれってやっぱ芋っぽいだけあって靴底はめっちゃ硬いし、足首なんかもちゃんと固定されてて怪我のリスクも下がるし疲労だって軽減されちゃうんですよ。え、なんか私の口ぶり嘘っぽくないっすか、大丈夫っすかね。大丈夫っすね、はい。
それで二つ目はですね、ザックです。リュックサックじゃなくてザックです。山を登る人はみんなリュックのことをザックって呼ぶんです。ただ、ドイツ語のrucksackを略しただけで、リュックもザックもまったく同じ意味なんですけど、なんかそっちの方が山に慣れてる感あってかっこいいっすよね。そんで、これもですね、普段から使ってるリュックじゃやっぱり肩が疲れちゃうんですよ。荷物も多いですし、とにかく歩きますし。時間が経つにつれ、疲れを通り越して刺すように上半身が痛くなってきます。だからですね、腰と胸のところにベルトがあって、身体にちゃんと固定できるタイプにした方が荷重が分散して動きやすくなりますし、ちょっと大袈裟な見た目になっちゃうんで街中じゃ浮いちゃってあれなんですけど、靴と違って可愛いのもそこそこあるんで、そのへんはまぁ靴に比べたら大丈夫っす。
そんで最後は雨具っすね。私も普段カッパなんか着ないすけど、山の天気って変わりやすいっていうか、山頂とかって低山でもけっこう寒かったりするんすけど、それに加えて汗をかいちゃってると立ち止まったときに思ったよか短時間で冷えちゃうんで、そんなときに雨具って防寒着にもなりますし、ちゃんとしたやつはけっこう高価なんですけど、やっぱ軽いしかっこいいし、ケチってもあとでどうせいいやつがほしくなるのが心情ってもんで、だから最初に買うやつってけっこう悩ましいんすよね、ノリで行くと簡単に死にますし、と言った。ものすごく意気込んで話した。
「足立さんも一緒にどうですか」
「疲れるじゃん、山とか」
足立さんは目も合わせずに言った。
私だって目なんか合わせない。
っていうか、それどころじゃない。おむすびしか見てない。目の前のベルトコンベアの上を流れるおむすびを追うのに必死だった。正確には、縦に四列で右から流れてくる俵型おむすびに、味付け海苔を乗っけるのでいっぱいいっぱいだった。
左どなりにいる足立さんは、私が海苔を乗せたおむすびを優しく握るみたいにして巻きつける仕上げの係だ。なにそれ、クソ楽ちんそう。いやでも、もちろん仕上げなだけあって、海苔が微妙にズレてたりするのを修正しつつやらなきゃだから雑な仕事じゃダメなやつなんだけど……端から見てるとやっばりすんごい簡単そうに見えるなそれ。それに比べて私のこれ。カサカサでブカブカのビニール手袋を装着して、ベタつく味付け海苔の束からそれを一枚ずつつまんで乗っけるとか、まじで正気の沙汰じゃないんだけど。
実際には一ヶ月、体感では七、八年くらいこの作業をやってるけどいつまで経っても慣れないし、ってか誰でもできる簡単な軽作業ってなんだよ、こんな仕事なくなっていいから早く機械化してよ。人間のやる仕事じゃないよこれ。大切な部分を踏みにじられてるっつーの。
それでも飽きっぽい私にしては、わりと続いてる方ではあるんだけど。まぁまぁ時給いいし。足立さんもいるし。この人ちょっとあれだし。
お弁当工場の作業員は衛生面とか異物の混入を防ぐ目的で、全身のほとんどを白い作業着で包み隠す。もちろんちゃんとマスクもするし、露出しているのは目元と手の平くらいなもんだから、誰が誰だかわかんない。課長とか工場長とかの偉い人たちはフードに赤やら黒のラインが入っててぱっと見だわかるんだけど、私たちバイトはみんながみんな真っ白だ。
それなのに足立さんはやたらと目立つ。素はすごく長い金髪なんだけど、その束ね方が雑なのかフードに収めるのが下手なのか、いつも後頭部あたりがエイリアンみたく膨らんでるし、ヤンキーだから誰よりも治安の悪い歩き方で無意識に周囲を威嚇する。それに加えて白い作業靴には見たことのない色のマジックで摩訶不思議な紋様が描かれてる。要するにちょっとあれなんだ。
ちなみに、私はちゃんと黒マジックでアキレス腱のあたりに駒川と書いてる。川の字だけへにょへにょになっちゃったからやり直したいんだけど、そんな理由じゃ新品と交換してもらえないし、ある程度の使用感があった方が食材加工とか炊飯なんかの他部署に舐められることもないから我慢してる。足立さんくらい熟練になると、白い靴の先端のゴムが変色してきてオレンジ色っぽくなるんだ。わりとかっこいい。
「ちょっと、海苔ごときに必死すぎでしょ。山の話どうなったの」
「だから席替えしてくださいって。ほんと、これ、わたし向いてないんですよ」
足立さんは一瞬だけ手を止めて、クツクツとかいって噛み殺して笑った。ベルトコンベアの終着点では、俵型おむすびをバカでかいバットに敷き詰めてる呉さんも笑ってる。オマエ踊り上手ネ、とか言いながら。いや、だからお前ら場所を代われよ。ピエロじゃねぇんだよ。
私たちが丹精込めて作ったおむすびは、夜勤の人たちの手によってウインナーやら玉子焼きなんかと一緒に容器に詰められてやっとミニおむすび弁当となり完成する。私はまだその完成品を見たことがない。髪の毛が混入した事故品なら階段の踊り場で展示されてるから見ることもあるけど、商品としてどこで売ってるんだかもぜんぜんわかんなかったし、なんなら興味もなかった。
「っていうか、山はですね、とにかく静かでいいんですよ」
「じゃあひとりの方がいいんじゃないの」
図星すぎて小さく舌打ちした。でも、ひとりで登山道を歩くのは単純に怖い。遭難だとか道迷いのリスクもグッと高くなる。地元にいたころは家族が付き合ってくれてたけど、今はそういうわけにはいかないんだ。だから私は山への同行者を求めてる。邪魔されない程度の同行者だ。足立さんなら、距離感とか雰囲気がそれにしっくりくる気がする。言うなれば四つめの神器になり得る人物だ。しかしながらヤンキーだ。一筋縄ではいかない。だけど作戦はある。こちら側に取り込む材料をちゃんと準備してある。私には用意があるのだ。
「足立さんってカップ麺好きですよね。いつも休憩のとき食べてますし」
「あー、けっこう好き。なんか私に似合うでしょあれ」
「あぁ、たしかに」
弁当工場でわざわざカップ麺を食うこともないと思うんだけど、ほら、ちょっとなんか嫌味じゃん。でも通常の生活じゃ見ることのない量の白米とか惣菜が、一緒くたにされて廃棄されるのを見てると同じようなものを食べる気がしないのもわかる。それに足立さんの言う通りけっこう似合ってる。ほんとは作業着のままで外に出ちゃダメなんだけど、新鮮な空気が吸いたい、とか言っていつも搬入口の側で食べてる。ヤンキーだから素行が悪い。でもヤンキーだからこそそれが似合うし、欲求に素直なところはちょっと羨ましくもあった。
「マウンテンヌードルって聞いたことありすか」
「ない。なにそれ。新しいやつ?」
「いえ、そうじゃないんですけど、山に登る人たちは山頂で食べるカップ麺のことをマウンテンヌードルって呼ぶんですよ」
「初めて聞いたー」
無理もない。私が考えた言葉なんだから。
「山で食べるカップ麺って、すげぇ美味いんです。ほら、山頂の方だとちょっと寒くて、なんか知らないすけどいつもより麺にコシがあって」
「この私にカップ麺を語るの」
俵型おむすびがむにゅっと潰された。潰れたまま流れていったそれを呉さんは、もったいないよ、とか言って、もったいなさそうな素振りを感じさせない投球フォームでゴミ箱へと投げ棄てた。バコンって音がしてゴミ箱が倒れたけど全員無視した。そんなことでラインは止められない。
「え、足立さん、ちょっと怒ってるじゃないすか」
「怒ってない」
わかりやすく、大変に怒っていらっしゃるご様子だった。
「とりあえずその、マウンテンヌードルってやつは食べたいから」
でも己の怒りを鎮めるための提案はちゃんとしてくれる。
「三種の神器とかわかんないから、コマちゃん、買い物付き合って」
直球で素直で話が早いところも好感が持てた。
「わかりました、山のことなら任せてください」
「あ、お金ないから貸しといて」
「いいっすよ」
なんていうか、こういうの勤務外の事柄について、私も足立さんも面と向かって話す方じゃないんだけど、お弁当工場の作業着を着てベルトコンベアの上を流れるおむすびを見つめながらっていう特殊な状況だからわりと上手く話すことができたのかもしれない。
自分が好きなものを他人に告白するときってけっこう慎重になるっていうか、その人が好きなもの知ることでその人自身のことを値踏みする感覚が自分にあるから、あんまりペラペラと話すもんじゃないと思ってた。たとえば、同級生と帰り道に、事務職やってお昼休みに、ライブハウスでお酒を飲みながら、そんな場面でそんな関係だったんじゃ、足立さんにこんなことは話せなかったかもしれない。
おむすびを作る工程にいる人間は誰も彼もが等しくおむすびに憎悪する。だから結束する。それはある種の極限状態に近いから、普段は口にしないようなことも吐露してしまうし、流れてくるおむすびに対して集中力が研ぎ澄まされてるから、余計なことなんて考える余力なんてなくて、受け入れるか拒絶するかをノータイムで選択する。そこに社会的な配慮とか、日時的な距離感とかっていう曖昧さは存在しない。俵型おむすびと同様に白か黒だ。だからすぐに決まった。私と足立さんと明日山に登る。
※
朝六時に登山口に近い駅で待ち合わせた。足立さんは遅刻しない人だから、なんとなく喫煙所に向かった。見慣れた人がいた。やっぱり、と思った。ザックを背負ったまま社交ダンス待ちみたいな姿勢で煙草をふかしてる。やたらと背筋が伸びて見えるのは、ザックの背面に組み込まれたフレームのせいだ。なんでわかるかって、あれと同じ物を私は使ってるから。なんなら今も背負ってるし。
「おはようございます」
「ちょっと。それおかしくない」
「え、なにがですか」
「おそろじゃん」
「あ、そっすね」
「そっすねじゃなくて」
「いや、違うんすよ。私がかわいいなって思うやつを勧めてたら、たまたま全部上から下までお揃いになったっていうハプニングで、だから品質にはまったく問題ないですし、それに色違いです。バレないですよ」
そう言うと、足立さんはため息をつくみたいにして煙草の煙を吐き出した。それからハプニング、と呟いて小さく笑った。お金はちゃんと返してくれた。やっぱり足立さんを誘って正解だった。
「けっこういる」
「あー、もう終わりかけっすけど、紅葉シーズンですからね。もっと早い電車があればよかったんすけど」
登山口に向かって並んで歩き出した。みんな同じ方向に歩いてるけど、いざ山に登り始めると混雑は気にならない。ほとんどの山では登山道はひとつじゃないし、目的地だって歩くペースだって人それぞれで違うから自然とばらけるんだ。この山には何度も登ってことがある。注意する点がないわけじゃないけど迷い道もしないし、鎖やロープが取り付けてあるような難所もない。だからって楽勝っすよ、とは伝えてないからか、足立さんはさっきからちょっと落ち着きがない。
「ねー、川、川があるよコマちゃん。お魚いるかなー」
「お魚」
「ちょっと、そういうの強調しないで、単なるミスだから」
「あ、はい」
落ち着きがないのは緊張からくるものではないらしかった。
足立さんは街ですれ違えばただのヤンキーなんだろうけど、職場で会うときは作業服姿だし今も全身山装備だし金髪は束ねてるから目立つこともないし、なんなら橋の欄干から身を乗り出して川魚のことをおさかなって呼んじゃって照れちゃうとかヤンキーのくせにかわいいが剥き出しになっててちょっと迷惑なくらいだった。
登山道の入り口あたりの邪魔にならないところで準備体操をした。私は屈伸運動をしたり足首をぐるぐるさせる程に留めておいたけど、足立さんはやたら入念に身体をほぐすもんだから見てるこっちが疲れてきた。まだ山には入ってないけど土だか枯葉なんだかが発酵するような匂いがする。不思議と穏やかな気持ちになる。だからってこの空気を閉じ込めて部屋の芳香剤にしたいとは思わないんだけど。
「どのくらいなの」
「休憩いれて二時間くらいすかね」
錆びついたブリキ人形みたくぎこちなく頷く足立さんに対して、さも深刻そうな、やたら含みを持たせた重い頷きを返しておいた。
でも二時間なんてほんとあっという間で、実際にあっという間に山頂に着いたし、道中すれ違う人はほとんど山装備なんてしてなくて、なんならカジュアル丸出しで余裕みたいな顔をしてた。足立さんもそれには気づいていたみたいだけど、あえてなのか、私たちの大げさな装備についてひとつも言及することはなかった。人はたくさんいるのに、まるで私たちだけが登山をしてるような気分になれて楽しかった。
「記念写真とかします?」
「それよかお腹すいたかなぁ」
「そっすね。じゃあ、あっちに東屋があるんで、そこで」
「マウンテンヌードルー」
思わず苦笑いしてしまったけど、ここまで来て真相を明かすのもちょっと無粋な気がしたのでやめておいた。
雑にザックを下ろしてお湯を沸かす準備に取りかかる。足立さんはおむすびの入ったレトロな花柄のタッパーを取り出して微笑んだ。工場からパクってきたらしい。タコさんウインナーやら玉子焼きなんかも入ってる。
「これ作るのも飽きたなぁって思ってたんだよね」
「そうなんですか」
「そう。っていうかあれ飽きない人とかいるの」
まぁたしかに。時給はいい方だし、そこで割り切れない人には向かないかもしれない。
「でもコマちゃんが入ったから、なんとなく、もうちょっと居ようかなって思ってる。嬉しい?」
「え、あー、まぁまぁっすかね」
まぁまぁかよ、って言い終える前におむすびを頬張った。お湯が沸いた。
二人してカップ麺のフタをペリペリめくる。私はカレー味で足立さんは普通のやつ。普通のやつにしか入ってないエビを一つだけ分けてくれた。世界中のエビのなかでいちばん美味しいらしい。
「飽きちゃうとさ、よその国の戦争みたくそれまでのことを綺麗に忘れちゃうんだよね」
「あー、全体的にぼんやりするやつですね。思い出話とかいっこも出てこないっす」
足立さんは、それは病気なんじゃない、と言った。自分自身じゃよくわからなかったから否定もできなかった。医師の意見を求めたいところだった。
それから、まだ体感では一分ほどしか経ってないにも関わらず蓋をめくって視線を投げかけてきた。食べないの? とでも言いたげたな感じで。
「ちょっと早くないですか」
「猫舌だから食べてるうちに麺が伸びちゃうんだよ」
フォークで持ち上げた麺は、見るからにまだ硬そうだったけど、それでも足立さんはふぅふぅして啜った。たいそう御満悦な様子だった。私も足立さんに習って食べてみた。じゃがいもはまだ乾いててスナック菓子みたいで美味しかった。
「マウンテンヌードル、美味しい」
「気に入ってもらえたらよかったです。今度は別の山に行きましょう。山ごとに味がすこし変化するらしいんです」
「そうやって適当なこと言って、私を引きずり込むつもりなんでしょ」
「そんなことないっすけど、そうっすね」
「どっちだよ。まぁいいけど」
足立さんは視線を落としてカップ麺に集中した。
もしかしたら、私が登山に飽きるかもしれないし、足立さんがカップ麺に飽きるかもしれない。そうなったらお互いに今日のことなんて忘れちゃいそうだけど、それならまた別の楽しそうなことを見つられたらいいな、と思った。
「サーフィンヌードルって知ってますか」
「え、サーフィンもすんの?」
「波乗りしながら食べるカップ麺は美味いっすよ」
「いや、無理あんでしょそれ」
「それがですね、サーフィンにも三種の神器ってやつがあってですね」
「まずボードなんでしょ」
「よくわかりましたね」
大袈裟に目を見開くと足立さんは呆れたように笑った。思い出とかいらない。とりあえずの今と、ぼんやりとしたこれからがあればそれでよかった。
おにぎりを頬張った。けっこう美味しくできててちょっとだけ嬉しかった。
(了)