013.行商獣人少女の脱力
――稀代刻哉が、チーターによって理不尽に斬り付けられてから、およそ一時間。
アダマントドラゴンが倒れていた洞窟からほど近い、街道沿いである。
「なに、これ」
ひとりの小柄な少女が、一振りのナイフを手につぶやいた。誰にも聞こえないような小声である。
それはナイフと言うには、あまりにも歪な作り。まるで金属の板をそのまま叩いて延ばしたような形だ。
彼女の目の前には、他にも似たような形のナイフや剣が十数本、ずらりと並べられていた。
それら『売りに出された物』をじっと眺める少女。
猫のように瞳が大きくて、やや吊り目がちである。赤銅色の長い髪をツインテールに結ぶ。頭部からは本物の猫のように、赤銅色の毛並みをまとった耳がぴょこんと生えていて、時折落ち着きなく左右に動いている。
中学生――くらいに見えるだろうか。手足や身体付きはスレンダーと言うよりも、どこか病的な細さだった。手や腕、ふくらはぎだけでなく、お腹周りにも細かな傷が刻みつけられ、白い肌に映える。
なぜそこまで傷ついているのがわかるか。
この少女の格好が、まるで水着のような布地の少ない服を、胸元と腰回りにまとうだけだからだ。
彼女の名はリコッタ。
美しく可憐な獣人少女である――彼女が年相応に健康であったならば。
すれ違う者たちは皆が振り返り、彼女を見つめるだろう――周囲にいるのがまともな人間であったならば。
今。
獣人少女リコッタの前に立っているのは、絵画から出てきた人形のような顔形をした人間たちである。
彼らがゆめKoとそのパーティだということまでは、リコッタは知らない。ただ、彼らが『チーター』と呼ばれる人間離れした存在で、その中でも別格の強さを持った連中であることは知っていた。
リコッタは唾を飲み込む。
いつものとおり、彼女は自らに与えられた役割を演じた。
「まったく。なにこのヘンな武器! こんなのじゃ薪割りにも不便だわ。1……いや、2ゴルよ。2ゴル!」
腰に手を当て、強気に買いたたく。
ゆめKoたちに否定的な反応がなかったことを見届けてから、袋からくすんだ色の通貨を掴み、慎重に数を数えてから、ゆめKoに渡す。リコッタは通貨を渡す相手を彼女と決めていた。それ以外のチーターは怖くて無理だった。
「さあ、他にはなにがご入り用?」
決まり文句を告げる。
するとゆめKoは地面を指差した。
そこには、あらかじめ広げてあった商品の図目録がある。リコッタは彼らが欲しているものを背後の道具箱から取り出し、通貨と引き換えに渡す。
――リコッタは行商人である。そういうことになっている。
やがてゆめKoたちが買い物を済ませ、踵を返すと、リコッタは大きく手を振って見送った。
「また来なさいよーっ!」
手の動きと合わせて、長いツインテール、そしてふさふさの尻尾を揺らす。ゆめKoらチーターが道の向こうに消えていくまで、そうしていた。
やがて十分に距離が離れたところで――彼女はその場に両膝を突いた。
長く、重いため息をつく。
息が地面に落ちるのと連動するように、リコッタの表情から活力が抜け落ちた。
目線を地面に向けたまま、腰の通貨袋を触る。
「重……」
今日のチーターたちは、買うほうがメインだった。あちらが売ってきたものといえば、あの不格好な武器擬きのみ。リコッタは『誰かが作った失敗作だ』と判断した。チーターたちも否定しなかった。
つまりは、見た目通りのガラクタなのだ。
リコッタは、『儲ける』ことに本心では無頓着である。儲けが出て、手持ちの通貨が増えれば、それだけ重量も増える。細身の身体に、バランスを崩すような重さの金は負担にしかならない。
彼女はちらりと後ろを振り返る。
リコッタから少し離れた場所に、太った男が立っている。背中には大量の荷物。普通の人間にはまず持ち運べない量だ。
彼もまたチーター。だが、先ほどの『客』と違い、彼には行動の自由がない。
男チーターの役目は、リコッタたちの監視。
リコッタにとって男チーターは、名前も知らなければ、何を考えているのかもわからない、不気味で、恐ろしくて、そして絶対に逆らえない相手だ。
――半月前、リコッタと彼女の仲間たちは、反逆の罪で故郷を追い出された。
この広い土地を彷徨いながら役に立つ素材を拾い集める。同時に、各地を旅して回るチーター相手に商売をして通貨や物品を得る。得たすべてを故郷に納める。その繰り返し。
それが、リコッタたちに与えられた罰である。
男チーターは、彼女らが罰から逃れないように派遣された監視役であり、荷運び役であり、拷問官であった。
最初、仲間はリコッタを含めて五人いた。
ひとりは早々に脱走を試みて、チーターに殺された。
ひとりはモンスターに食われた。
ひとりは飢えと疲労と絶望で発狂し、やはりチーターに殺された。
今も生き残っているのは、たったふたり。
リコッタは立ち上がると、近くの岩陰に向かう。男チーターの視線を感じながら、リコッタはそこで休んでいる少女に声をかけた。
「リナータ。具合はどう?」
「おねえちゃん」
かさかさの唇から声が漏れる。もはや骨と皮だけとなった体つきだが、元はリコッタと同じように美しく、リコッタよりも発育が良い獣人少女だった、双子の妹。
リコッタは水筒を差し出す。さきほど買い取り、腰に吊るしたナイフ擬きがかちゃりと鳴った。
「水、飲める?」
「ありがとう」
妹が自分で水筒を口に運ぶ様子を見て、リコッタは安心した。
「あのお客さんたち、たしか凄い実力者だったはず。近くに凶悪なモンスターがいるのかもしれないわ。今日は早めにキャンプまで戻りましょう」
「うん。そうだね」
「売り上げはわたしが持っていくから。『あの人』も罰しないはずよ。安心して」
あの人――とは男チーターのことだ。
妹はもう一度、「うん。そうだね」と繰り返した。
今日は調子が良さそうね、口調がはっきりしてる――とリコッタは思った。
リコッタは息を整えると、妹を背負うべく屈み込む。妹は体重が軽くなっているといっても、その分リコッタも体力筋力が落ちている。
だが、唯一残った家族のためなら頑張れた。
――正確には、妹がいるから摩耗した思考でも正気を保っていられた。
「いくよ、せーのっ」
力を振り絞って、背負う。
どさ……とすぐ側で音がした。
リコッタは視線を下に降ろす。先ほど妹に手渡していた水筒が、妹の手からこぼれ落ち、草地の地面を一回、二回と転がった。
いつもより、妹の身体が重く感じた。
「リナータ?」
水筒を持っていた手が、だらりと垂れ下がっている。
リコッタはそれ以上妹の名を呼ぶことはせず、急いで彼女を背中から降ろした。岩に寄りかからせると、妹の頭は重りを乗せた秤のようにがくりと垂れた。
妹の頬を両手で包み、顔をのぞき込む。
そうだねと微笑んだまま、彼女の瞳からは生気が消え去っていた。
リコッタは悟った。妹は残った生命力をかき集めて、かつて元気だった頃の声で返事をしたのだと。
それは姉を心配させまいとした気遣いだったのだろう。きっと、妹の中では返事をした後もいろいろと気遣うつもりだったのだろう。
けれど、たった一言、二言で、あっけなく、彼女の生命力は底を尽きたのだ。
まるで通い慣れた山道から、一瞬の不注意で転落するように。
「さあ、起きて」
震える声で呼びかけても、妹はもう目覚めない。




