私のエッセイ~第六十五弾:「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」の衝撃!!!(番外編1)~その後の宮崎勤 (※) 「宮崎勤の上申書」を最後に追加しました。
皆さん、こんばんは!ご機嫌いかがですか・・・?
まだ、夏の暑さが残り続ける時候・・・どうか、ご自愛ください。
今宵は、「番外編」と題しまして、その後の宮崎勤がたどった経緯を、おろぬきではありますが、お届けします。
これらは、先日、古いファイルから発見しました、私のかつてのHP「クレッセントムーンの涙」のアーカイブ保存です。
では、さっそく見て行きましょう。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
【その後の宮崎】
1989年7月23日、強制わいせつ罪容疑で八王子署に逮捕された
宮崎の性器は、子供のような状態だったという。
「まるで、鉛筆のようだったということです。
発育不全のソレに合わせるように、宮崎は、陰毛を自分で剃ってもいたそうです。」
(捜査関係者。)
[『週刊文春』1989.8.31【宮崎勤 血と肉体の秘密】]
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「彼の性器は、27歳の青年とは思えないようなモノだったそうです。
その大きさは鉛筆くらいしかなく、子供のようだったといいます。
また、驚くべきことに、陰毛も自分で剃って、そこはツルツルだったというんです。」
(報道関係者。)
[『女性セブン』1989.9.14【ロリータ・コンプレックス】]
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1989年8月11日のA子ちゃん殺しの再逮捕から一週間余り経った頃、警視庁の、ある捜査幹部は、こうこぼしたと言われる。
「アイツは、頭は悪くないんだが、どうも話のテンポが変わっている。幼いというか、話の切り替えについて来れないというか・・・。よくしゃべる割りに、捜査が進まないんだ。」
捜査官がひとつの行動を訊くと、宮崎は事細かに、延々と説明し続ける。
あまりに細かいので、制止して別のことを訊くと、ポカーンとした表情を見せて、言葉が出てこない。
それが、意識的にトボけ、はぐらかしているとも言い切れない様子なのだそうだ。
ちょっと分かりにくいが、この捜査幹部は、こんな宮崎の様子を「幼児性」という言葉で表現しているわけだ。
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取調室で宮崎が見せた「幼児性」は、実はA子ちゃん事件自供の当初からのものらしい。
取調官は宮崎に話しかける時に、「ツトム君」と、名前をクンづけで呼んでいるが、この呼びかけが、堅く閉ざされていた事件解決への扉を開け放つ、きっかけになった。
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捜査員は宮崎容疑者を、「ツトム君」と呼ぶ。
宮崎が事件をすんなり自供したのは、取調官が「友達感覚」で、穏やかに接したことが大きいとされている。
恐らく、居丈高に聴取を取っておれば、今日の成果を上げるのは難しかったであろう、と。
それは間違いなく、警察の“功”である。
宮崎と被害者の幼女たち、取調官と宮崎・・・・・極端な二つの関係いずれの場合も、他者に対し“親密な交流を持てる素養”が、大きな鍵、いや、“武器”となった。
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犯行自供当時の取調べの様子。
「ツトム君、君が生まれてきてから、今までにしてきた悪いことを全部話してみろよ。
気分が楽になるぞ。どうだ、ウン?」
といった語り口で誘い水を向けたら、伝えられるように、「ポロッと」(捜査員。)
A子ちゃん殺人の自供が飛び出したというのだ。
「その瞬間は、捜査員もビックリだったらしいですよ。
なにせ、宮崎の言い方が、『これから私の言うことを、真剣に聞いて下さい。』と前置きして、それから何月何日どこでどうした、と順を追って、次々と話したといいますからね。」
(取材記者。)
[『サンデー毎日』1989.9.17]
【宮崎勤 留置場の「素顔」と「肉声」】
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『夕刊フジ』(1989.8.23)の【「おい、ミヤザワ」に「宮崎です」】より。
深川署の朝食は、主にパン。
宮崎はこのパンに、マーガリン、ジャムをたんねんに四隅まで塗りつけ、多い日には、4枚もたいらげる。
M理ちゃん、そしてE香ちゃん殺しを自供した日も、食欲は旺盛で、夕食、翌朝の朝食もペロリとたいらげた。
ご飯の食べ方が変わっている。
ハシに、ごく少量の飯粒を乗せながら、何度も何度も口に運ぶ。
就寝は、夜十時。
消灯後がすぐに寝息をたて、うなされる様子もなく、朝まで熟睡するという。
あくまで平静、淡々と過ごす宮崎からは、「おびえる気持ちも、申し訳ないという気持ちも見えない。
人間の感情がないのだろうか。」
と、捜査員は不思議がる。
ただ一度だけだが、こんなことがあった。
起床時間を過ぎても起きない宮崎に、署員が間違って、「おい、ミヤザワ」と、声をかけた。
その時、この“無表情”と見られた男が、「宮崎です。」と言って、ニヤリと笑顔を見せた。
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宮崎は1989年9月8日、狭山署に身柄を移され、一ヶ月余りの留置場生活を送ることになった。
『朝日新聞』(1989.9.8)の【「大変悔いが残る」宮崎、少し涙】より。
合同捜査本部によると、取調官が宮崎に、「殺した4人の幼女と遺族に対して、今はどういう気持ちなのか。」
と尋ねたところ、宮崎は目をそらし、少し涙を浮かべながら、「大変悔いが残ります。取り返しのつかないことをしてしまった。」
などと話し、これまでに見られなかった“後悔”の感情を示したという。
・・・この朝も宮崎は、三階の留置場を出る時、看取係や取調官に、「お世話になりました。」と、頭を下げたという。
『毎日新聞』(1989.10.19)には、
【捜査員に冗談も 留置場の宮崎】という見出しの記事が掲載されている。
当初は、落ち着かないのか、捜査員に食ってかかり、「理屈っぽい」と言われることもあった。
手錠を掛けるときには、腰縄(捕縄)を掛ける。
この掛け方が、警視庁と埼玉県警では少し違う。
宮崎は、「なぜ警視庁と違うのか。」「今までの方がずっと便利。」と、周囲の捜査員に文句を言ったという。
現場検証で汗をふくため、捜査員がハンカチを宮崎に渡している。
検証が終わり、留置場に戻ってきた際に、「ハンカチを返すように」と言うと、
「なぜ返さなくてはいけないのか」と、いらだたしげに言ったこともあったという。
だが、取調べが進むと、捜査員とも人間関係ができてくる。
冗談を言い合ったり、捜査員をたしなめたりすることもあった。
宮崎は、警視庁の現場検証でサンダルを履かされたが、M理ちゃんの自宅近くの現場検証を前に、「サンダルでは歩きづらいので、替えてほしい。」と申し出た。
捜査員が、「では、ズックにしよう。ぜいたくを言うと、ゲタになっちゃうぞ。」と言うと、宮崎は、
「そのうちに竹馬になっちゃいますね。」と笑ったという。
現場検証や取調べ中の宮崎は、犯行状況を真剣に考え、思い出している。
M理ちゃんの現場検証の時、宮崎は手をアゴに添え、犯行当時を思い出そうと、じっと考え込んでいた。
捜査員が「どうした?」と訊くと、「うるさいなぁ。真剣に考えているんだ。」
最近の宮崎は、すっかり留置場生活にも慣れた。
鼻歌交じりで取り調べを受けるなど、リラックスしている。
被疑者は、手持ちの現金で、お菓子や日用品を買うことが許されている。
宮崎はスナック菓子ばかりを買い込み、「こんなに食べると太るなぁ。」
また、就寝前に、「明日の朝は必ず7時に起こしてください。8時から、現場検証に出かけるんです。」
と、捜査員に念を押したこともある。
ある捜査員は、最近の宮崎のことを、「よく笑うようになった」という。
・・・留置場では、署員に注目され、大切にされる。
「これまでの生活で、そんなことがなかったのだろうか?」と、捜査員。
・・・しかし、罪の意識は希薄だ。
謝罪や反省の言葉や様子はない、という。
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1989年10月19日、宮崎は狭山署より、東京拘置所に移された。
逮捕されてから宮崎は、父親宛に10通以上の手紙を書いている。
拘置所から出した4通の手紙には、『週刊現代』によれば、「“恨みつらみ”が、今田勇子流で綿々と綴られていた。」そうだ。
そのタイトルは、
【幼女連続殺人犯宮崎勤容疑者が拘置所から出した「4通の手紙」】。
「宮崎は父親宛の手紙を、警察署に留置されていた頃から書いてます。
“なぜもっとオレに話しかけてくれなかった。いくら相談しても、相手にしてくれなかったじゃないか。
オレは、お前のような人間になりたくない。
一流大学に行きたかった。
一流企業に就職していれば、こんなことにはならなかった。”
と、そんな手紙が多かったようです。」
(宮崎家の知人。)
最近の手紙の中には、
「このままではオレは死刑になる。死んでもいいのか。私選弁護団を組織しろ。」
という意味内容のものもあったというのだ。
家族は、冬物の下着と上着、それに果物などの差し入れをしている。
しかし彼は、「これまで3ヶ月間で、3度しか差し入れがない。こんなものはいらない。」と、怒りを見せたという。
「結局は、拒否した衣服を身につけ、果物も食べてる。
それどころか、拘置所では、朝の食事から麦飯の“おかわり”をしている。
さすがに看守は、女性週刊誌は見せていないが、新聞と午後6時からのテレビは、1時間ほどは見せてるそうです。」
(司法関係者。)
宮崎容疑者は、検察官から、長い時で3~4時間に及ぶ取調べを連日受けている。
その最中は淡々としているが、突然怒鳴ったり、泣き出したりすることもあるという。
“悲劇”を起こした罪の償いは、まだこれからだ。
検察側は、事件の動機を、「わいせつ目的」として起訴した。
捜査段階で詳細な自白をしたとされた宮崎被告は、90年3月30日、東京地裁の初公判で、「殺意はなかった」「わいせつ目的で誘拐したことはない」
などと起訴事実の一部を否認したうえ、「(女児の一人の)両手を焼いて食べた」と、衝撃的な陳述をした。
事件全体については、「覚めない夢の中でやった感じ」と述べた。
その後の被告人質問で、誘拐時の状況を、「女の子に出会って、急に子供の頃に帰ったような気持ちになった。一心同体になってドライブの中にあった」などと説明。
殺害については、「信頼していた女の子が泣き出して急に裏切ったとき、全身がネズミ色で、顔もネズミの『ネズミ人間』が出て来て、逃げ帰るとき、女の子が倒れていたような気がする。」
などと、意味不明の供述を繰り返した。
遺体は「肉物体」で、遺体の切断行為は、「子供の頃にTVで見た、改造人間の改造手術」「女の子の(遺体の)血を飲んだ」
と明かし、
「夢の中に(被害者の)子供たちが現われ、ありがとうと言っている」とも供述した。
公判出廷中の宮崎被告は、法廷内でのやり取りには興味を示さず、常に便箋に何かを描き続けた。
「私の車とビデオテープを全部返してほしい」
「(被告人質問は)ハレの舞台」 などと述べたこともあり、宮崎被告の不可解な言動は「演技」と疑う見方もある。
1,2審は「拘禁」の影響と判断し、動機を「わいせつ目的」と認定した。
だが、審理に携わった経験のある法曹関係者は、「彼の心の奥底までは、誰にも分からない」と話す。
生い立ちと近況
東京拘置所の宮崎被告は、月刊誌「創」と10年近くに渡って手紙を交わしている。
これまで、2度の「死刑判決」を受けている。
一審の死刑判決については、「何かの間違い」。
控訴審判決は、「何も聞いてません。寝ていました。」と感想を寄せた。
1962年8月、東京都五日市町(現あきる野市)で生まれた。
生まれつき両手の障害を患い、手のひらを上に向けることが出来なかった。
「手を理由にいじめられるのが嫌だったのに、両親は何もしてくれなかった。」(逮捕後の供述。)
印刷会社の経営で両親が忙しいため、家族がそろって食事をする機会も、ほとんどなかったという。
両親に代わり、被告を可愛がったのは祖父だった。
短大卒業後、親類の紹介で就職した都内の印刷会社は、職場に溶け込むこともなく、3年で退職した。
中学生の頃からテレビのアニメ番組を録画し、自室には大量のビデオテープや、コミック雑誌が積み上げられた。
集めたビデオは、5793本。
部屋の様子が報道され、自分の世界に閉じこもる被告のイメージを強く印象付けた。
だが大半は、最初の事件を起こす3ヶ月前の、祖父の病死後に収集したものだったという。
「おじいさんとしょうぎをさしたことを思い出します。」
「創」の2005年12月号でも、宮崎被告は、祖父への思いを明かしている。
その一方で、父親を「父の人」、母親を「母の人」と呼び、父親の自殺については、「胸がスーッとしました。」と書いた。
自分の家族や被害者の遺族に申し訳ないと思ったことは、「ありません。」
ただ、夜はあまり眠れず、「幻聴がして、つらいです。」という。
「最高裁の判決は、どうなると思いますか?」の、問いに対する答えは、「無罪だと思います。」
・・・2006年の年明けにも、最高裁判決が下される見通しだ。
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宮崎被告の死刑確定へ/最高裁が上告棄却
2006.1.17付 四国新聞社
東京都と埼玉県で、1988-89年、幼い女の子4人が相次いで連れ去られ、殺された「連続幼女誘拐殺人事件」をおこし、誘拐・殺人・死体損壊・死体遺棄など、6つの罪に問われた
元印刷業手伝い、宮崎勤被告(43)の上告審判決で、最高裁第3小法廷は、17日、1・2審の死刑判決を支持し、被告の上告を棄却した。
これにより、宮崎勤被告の死刑が確定する。
4人の裁判官、全員一致の判決だった。
判決理由で、藤田宙靖裁判長は、最大の争点だった、
「善悪を判断して行動する能力(刑事責任能力)」の有無について、「極端な性格的偏り(人格障害)で、精神障害ではない」として、完全責任強力を認めた1・2審の判断を、「正当と認められる」と支持。
その上で、「性的欲求や、死体を撮影した珍しいビデオを持ちたいという収集欲に基づく、自己中心的、非道な動機で、酌量の余地はない」と、死刑の理由を述べた。
~ ~ ~ ~ ~
管理者「ブラック・ジョーク」のコメント(← 当時私が作ったHP「クレッセントムーンの涙」のときの私のハンドルネームです。)
足掛け17年にも及ぶ裁判は、「宮崎勤死刑」という形で終焉したが、無残にも、奪われた4人の女の子たちの命は戻らない・・・。
生きていれば、21歳から24歳の、まさに「青春を謳歌する」年齢になっていたはずだ。
もしかしたら、結婚して、お子さんにも恵まれていたかもしれない。
・・・しかし、宮崎勤が、正式に「死刑囚」となったことで、ご遺族の方はもちろん、無念の想いで亡くなった女の子の魂も、ごくわずかでも報われたこととお察しする・・・。
宮崎死刑囚は、いずれ「絞首刑」となり、刑場の露と消えるが、刑の執行まで、あと数年は生きていることだろう・・・。
最後まで自分の裁判には無関心で、「死刑判決」を聞いても取り乱す様子もなく、作家の吉岡忍氏に判決についてのコメントを求められても、「何かの間違い」と述べ、謝罪や反省の言葉は一切なかった。
今、改めて、亡くなった女の子のご冥福を祈り、2度とこのような惨劇が繰り返されないよう、そして、いつまでもこの事件を忘れることのないよう、強く祈念して、いったん筆を置きたいと思う・・・。
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上記の私のコメント・・・こうして読み返しますと、あれから十数年がたっているというのに、今だ似たような凶悪事件が次から次へと出て来て・・・まだまだ「社会の闇の部分」は深いままだなぁ、と改めて感じます。
では、次のエッセイは、「著名人のコメント」をお届けします。 m(_ _)m
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
(※) 追加資料です。宮崎勤の「供述調書」を紹介しますね。
宮崎勤の上申書(1)
住所 東京都西多摩郡 五日市町小和田○○○
氏名 宮崎勤26歳
一.
私は、昨年(1988年)8月22日の3時頃、埼玉県入間市入間○○団地
(入間ビ○ッジだと思います。)
の近くの歩道橋を歩いていたK野M理ちゃんに、
「すずしそうな所へ行こう」
と声をかけ、
私の車(ラングレー八王子55な293)で、ゆうかいし、
自分の家へつれてゆこうかどうか迷ったあげく、
五日市と八王子の小みね峠の山の中に連れてゆき、
地面に休ませ、両手で、M理ちゃんの首をしめて殺しました。
この山の中へつれてゆくと中、スコールのような雨がふったことや、
車の中で、M理ちゃんの顔を、父から借りたポラロイドカメラで、
二枚とりました。
その後私は、M理ちゃんの骨を自宅に持ち帰り、頭の部分を
黒色ビニール袋に入れ、自宅うら庭で、
あとの骨と一緒に自宅の前の畑で、色んなものと一緒に、
工場にあった印刷機を洗う油をかけて、燃やしました。
この焼いた骨は、工場か自宅にあった段ボール箱に入れて私が書いた
「M理 遺骨 焼 正明か鑑定」
と新聞の文字を切りはりして、
それを自宅のコピーで拡大してそれを骨の入った段ボール箱に入れて
M理ちゃんの自宅の玄関の前に、置きました。
これも私のやったことに間ちがいありません。
宮崎 勤
平成元年8月13日
警視庁深川警察署長
警視正 Y 殿
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宮崎勤の上申書(2)
住所 東京都西多摩郡 五日市町小和田○○○
氏名 宮崎勤 26歳
一.
私は昭和63年12月上旬頃、
埼玉県川越市○○上の川越グ○ーンXXXという団地の中で、
N波E梨香ちゃんに、あったかいからとかなんとか言って声をかけ
自分の車(ラングレー八王子55な293)の中に誘拐し、
正丸峠のと中の駐車場に車をとめ、
この車の中で、E梨香ちゃんの首を両手でしめてころしました。
車の中で、E梨香ちゃんの遺体をビニールひもで、両手両足をしばり、
はだかのまま名栗村の少年の家の近くの道路から
近くの森の中にその日の夜すてました。
遺体をどこかにすてようと場所を走っている時、
車の車りんの一こが、みぞにはまってしまい、
動けなくなってしまったのです。
遺体をつんでいるし、だれかにみつかったらこまると思い、
ここにすてるしかなかったのです。
遺体を森の中にすててから、車の所にもどってみると、
とうりがかりの2人ぐらいの男の人が来て、
その内の一人の人が私の車を運転して助けてくれました。
このE梨香ちゃんも、私が、殺しましたことにまちがいありません。
宮崎 勤
平成元年 8月13日
警視庁 深川警察庁
警視正 Y 殿
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
・・・以上です。
では、次の「著名人のコメント」でまたお会いしましょう。 m(_ _)m