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白、ピンク、オレンジ、赤――
明るい色でまとめられたダリアが飾られている。
新しくオーウェンから届いたダリアの花をエマはじっと見つめていた。
エマが四阿で倒れ寝込んでしまってから、オーウェンからは何度もお見舞いとしてダリアの花束が贈られてきていた。
あれからもうひと月近く経とうとしている。
このままずっとこうしていても、何も解決せずどうしようもない事はわかっていた。
最近のエマはようやっと落ち着きを取り戻しつつあり、頭の中を駆け巡る記憶と、様々な感情とも少しずつ向き合えるようになってきていた。
エマはダリアを見つめていた瞳を一度ギュッと瞑り、大きく深呼吸をしてみた。
そして、ダリアの手前に置いてある手紙に視線を向け、それにゆっくりと手を伸ばした。
オーウェンからの手紙は花と同じく何度か届いていた。
しかし、エマはそれらを読む気にはなれずに、未開封のまま全てを文机の引き出しにしまい込んでいた。
あの日、オーウェンの目の前で倒れてしまったのだ。
それからはひと月も手紙の返信もなく音沙汰のない状態が続いてしまったので、きっと彼には心配をかけてしまっているだろう。
エマはそっと手紙を開いた。
見慣れたオーウェンの字が目に入る。彼の書く字はとても丁寧で美しい。
手紙のやりとりをするようになってから、彼に恥じないようにエマも美しい字が書けるように密かに努力していた。
そんな彼が書いてくれた手紙の内容は、どれも心からエマの事を心配してくれる言葉で溢れていた。
読むと温かな眼差しを向ける彼の姿が思い浮かび、エマの胸に締め付けられるように鈍い痛みが走った。
あのオーウェンの瞳が、いつかエマを冷たい瞳で見る日がやってくる。
いつの間にか二人の間には大きな隔たりができて、手を伸ばしても届かない遠い存在になってしまう。
今までの記憶がそれは変えられない未来なのだとエマに告げている。
エマは読んでいた手紙を胸に抱いて、静かに目を閉じた。
終わらせるなら早い方がいい。今ならまだ・・・そう思って唇を噛みしめる。
本当はもうわかっている。諦めるにはエマの気持ちは大きくなりすぎている。
それでもこれ以上いたずらに時間が経ってしまえば、その痛みは増すばかりで、取り返しのつかない事になってしまう。
どうするべきなのか、という答えはもう最初から出ている。
どんなに辛くても遅かれ早かれそうするしかないのだから、少しでも早い方がいい。
エマは筆を取り、オーウェンに返事を書いた。
心配をかけてしまった事、贈られたダリアにとても癒された事、今までの感謝の気持ちをたくさん書き連ねた。
どれも本心からの言葉で、そこには偽りはなかった。
しかし、最後に自分の気持ちを偽った。
この思いがオーウェンに伝わらないように。そして、エマは手紙を書き終えた。
――オーウェンからはどんな返事が来るのだろう
もう手紙などは来ないかもしれない。それどころかきっと怒らせてしまうだろうから、もう二度と会う事もないままになるだろう。
エマはオーウェンへの手紙の最後にこう書いたのだ【婚約を解消して欲しい】と。
エマの瞳には涙が溢れていた。
どれだけ泣いても涙は枯れてはくれない。温かく見守ってくれてはいるが、家族にも長い間心配をかけさせてしまっている。
いい加減にしっかりしなくてはいけない。数日後にはきっとこの手紙の事も両親の耳に入り、今のままではいられなくなるだろう。
エマはその日が来るのを覚悟して待っていた。
それからは意外なほど穏やかな日々が続いていた。
いつ両親に呼び出されるかという心配はあったが、もうオーウェンの事で悩まなくてすむと思ったエマは心が次第に軽くなっていくのを感じていた。
今はまだオーウェンを慕う気持ちが強く、忘れることなんて出来そうにないが、きっと時間が解決してくれるだろうという気持ちになれたのだ。
そして、その日は突然やってきた。
エマはいつもの様に自室に籠っていた。
もう一日中ベッドに横たわって寝込むことはなくなったが、あまり部屋から出る気にはなれずに本を読んだり、刺繍をしながらゆっくりと部屋の中で過ごすのが最近のエマの日常になっていた。
その日も同じように過ごしていると、部屋の外がいつもより騒がしいような気がした。
とうとう手紙の事が両親に伝わったのだと思い、少し緊張しながら部屋の扉を見つめていた。
部屋の扉が静かにノックされ、返事をするとガチャリと扉が開いた。
両親がいると思っていたエマは、扉の向こうにいる人物に驚き目を見開く。
――なぜここに?
エマは予想外の人物が現れた事に、戸惑っていた。
続いて入ってきた母親のマリーが、穏やかな表情でエマと今入ってきた人物に目をやり、言葉をかける。
「エマ、心配して来てくださったのよ。いつも綺麗なお花も贈ってくださって、ご迷惑をおかけしたのだから失礼のないようにね。それではオーウェン様、あとはどうぞよろしくお願いしますね」
「お気遣いありがとうございます」
母親はオーウェンに一礼すると部屋から出て行った。
エマはオーウェンが現れた事に驚き、何も言葉にすることは出来ず、二人だけになった部屋には気まずい沈黙が広がった。
先にその沈黙を破ったのはオーウェンだった。
エマの全身を観察するように眺め、険しい表情で口を開いた。
「起きていてもう大丈夫なのか?」
「はい・・・大丈夫です」
エマはそう言うのが精一杯だった。
なぜここにオーウェンがいるのだろうか。覚悟を決めたはずの心はその姿を目にすると簡単に搔き乱されてしまう。
あの手紙には確かに婚約を解消して欲しいと書いた。さっきの母親の態度を見るとまだそれを知らされていないらしい。
オーウェンは何をしに来たのだろうか。
きっとエマから婚約の解消を求めた事にひどく腹を立て、怒っているのだろう。
エマはこれからオーウェンがどうするつもりなのかわからず、不安な気持ちでその場に立ちすくんでいた。
あまりに緊張していたのか、エマは思わず立ち眩みの様なものを覚え、身体を少しふらつかせてまった。
するとすかさずオーウェンの手が伸びてきて、エマの身体を支えた。
「無理をさせているな。長居するつもりはない」
そう言ってエマをゆっくりとソファーに座らせ、向かいにオーウェンも座った。
オーウェンの「長居するつもりはない」という言葉に、エマの心は深く暗い沼にでも沈みこんでいく様な感覚だった。
オーウェンはこれからエマに死刑宣告にも近い宣言をする。それもさっきの言葉のように無駄に時間をかけることなく、さっさとすませてしまいたいのだろう。
エマは怖かった。
もう二度とオーウェンに会うことはないと思っていた。
むしろそうであって欲しいとさえ思っていた。
婚約の解消はエマのいないところで決まり、あとはその事実を両親から聞かされるだけですむと思っていたのだ。
それなのにその予想を裏切り、オーウェンは今目の前にいて、これから直接その話をしようとしている。
全身の血の気が引いていく様な気がした。
エマはこの耐えがたい時間が早く過ぎ去ってしまうように願うしかなかった。