3
ケリー家から帰る馬車の中、両親はとても上機嫌だった。
エマの腕の中にはダリアの花束が抱えられている。
可愛らしい満面の笑顔でダリアの庭園が素晴らしい!と褒めたたえていると、それに気分を良くしたオーウェンの母親が帰り際にわざわざ包んでくれたのだ。
白くコロンと丸い形に、芯に近い中央の花びらが柔らかなピンク色になっている、とても可愛らしいダリアだった。
エマはその花を眺めては、庭園の綺麗な景色と楽しかった時間を思い出し、知らず知らずのうちに笑顔になっていた。
「エマ、あなたダリアが好きだったのね。知らなかったわ」
エマを微笑ましく見ていた母親がふいにそんな事をつぶやいたので、エマは少しムッとしてしまった。
ダリアはずっと前から好きな花だった。
前にお邪魔した先の庭園で見かけてから、とても好きになったのだ。
その帰り道、どんなに素晴らしかったか今みたいに母親に興奮して話していた記憶がある。
それなのに母親は知らなかったと言うのだ。
この人は自分の娘に興味がないのかと少し悲しい気持ちにもなったが、エマ自身もどこのお宅の庭だったかすっかり忘れてしまっていたので、そんなところは似ているのかもしれないと複雑な顔をしていた。
ケリー家への訪問から数日が経ったある日、エマは父親から話があると呼び出された。
父親からの話はエマにとっては信じられないものだった。
上機嫌な様子の父親から語られたのは、なんとオーウェンとの婚約の話だった。
――そんな、まさか
エマはあまりに驚いてしまって、その後なんと返事をしたのか覚えていない。
それから数日は花瓶に飾られたダリアを見つめては、ドキドキと高鳴る胸を押さえていた。
まさかオーウェンと自分が婚約することになるなんて、そんな事があっていいのか焦燥感にかられるような、不安と高揚が入り混じった感情を持て余していた。
そうこうしているうちに、また母親と共にケリー家を訪れる事になった。
オーウェンとの婚約が決まって以来、初めて顔を合わせる事になる。
緊張から顔を強張らせていたエマだったが、オーウェンに誘われダリアが咲き誇るあの四阿へとまたやって来ていた。
四阿にはお茶とお菓子が用意されており、エマは緊張で乾いた口を潤そうとそのお茶を一口飲んでみる。
「美味しい」
爽やかなオレンジの香り、紅茶の渋みと果実のほんのりと優しい甘みが口いっぱいにひろがり、とても美味しいフルーツティーだった。
エマは自然と笑顔になっていた。
「気に入ったか?このクッキーも美味いぞ」
オーウェンはクッキーをひとつ摘み上げたかと思えば、なんとエマの口元までクッキーを差し出してきた。
「あ、あの、ケリー様」
「オーウェン」
「えっ――」
「だから、オーウェンだ」
「オ、オーウェン様?」
首を少し傾けながらその名を呼んでみると、オーウェンは満足そうに頷いて、眩しそうに黒曜石の瞳を細め優しく微笑んだ。
そして摘み上げていたクッキーをエマの口へと押し込んできた。
されるがままにエマはそのクッキーを食べたが、心臓がうるさいくらいにドキドキと高鳴り、味など全くわからなかった。
エマはあまりの恥ずかしさに耐えられなくなり、とうとう顔を真っ赤に染め上げ俯いてしまった。
『―――――』
――また、声が聞こえた気がした
エマはキョロキョロと辺りを見渡してみたが、やはりここにはオーウェンとエマの二人しかいない。
「どうした?」
オーウェンは不思議そうにエマを見ている。
どうやらオーウェンには何も聞こえていないらしい。
こんなに近くにいるオーウェンに聞こえないという事は、やはりエマの気のせいなのだろう。
気を取り直そうと思ったが、オーウェンの顔を見ることが出来ない。
心臓の高鳴りは少し落ち着いてきたが、真っ赤に染まった顔はまだその熱が引いていない気がする。
「エマ?どうした?」
突然ふいに名前を呼ばれ、今度こそエマは完全に固まってしまった。
オーウェンは困ったように眉を寄せ一生懸命エマに話しかけているが、固まってしまったエマにはその声は届いていない。
それからどれくらいの時間が経ったのか、エマがようやっと思考停止から元の状態に戻った頃には自宅に辿り着いていた。
数日後、オーウェンからはなぜか謝罪の手紙とダリアの花束が贈られてきた。
思考停止状態に陥っていたエマは、あの時オーウェンとどんな会話を交わしたのか全く記憶になかった。
手紙の返事に何と書こうか迷ったが、素直に緊張してしまった事、それから贈られてきたダリアがとても綺麗で嬉しかった事を綴った。
それからは手紙のやりとりや、数か月に一度はお互いの家を行き来する交流がずっと続いている。
最初こそぎこちなかったが、だんだんとエマの緊張もほぐれてきて、今では自然にオーウェンと会話できるようになっていた。
オーウェンの元へ訪れる時は、決まってあの四阿で過ごすことが多かった。
会話はあまり続かず、たまに無言になってしまう事もあるが、その沈黙さえも心地良く、オーウェンと過ごす時間はエマにとってかけがえのないものになっていった。
※ ※ ※
ケリー家の立派な庭園ほどではないが、フローレンス家にも庭園がある。
エマは庭で咲き誇る花を見つめながら、取り留めのない思考を巡らせていた。
オーウェンと出会ってからもう5年の月日が経っていた。
最初に見かけた時はまさか自分が彼の婚約者になるなんて、想像さえしていなかった。
それどころか、なぜか近づいてはいけない気すらしていたのだ。
オーウェンの事を思い浮かべると、途端にくすぐったい気持ちになる。
最初は見た目がとても好みだと思っていたが、一緒に過ごすうちに彼の不器用だけど優しい人柄にどんどん惹かれていった。
最近オーウェンは急に大人っぽくなってきた。
騎士団長である父親に稽古をつけてもらっている様で、線が細かった身体にも筋肉がつき、日増しに精悍な顔つきになっている気がする。
婚約者という事はいつか彼のお嫁さんになるのだ。
二人で隣に並び合う未来を想像して、エマは一人顔を赤くしながら微笑んでいた。
12歳になったエマは、いつものようにケリー家の四阿でオーウェンと二人で過ごしていた。
最近の話題の多くはオーウェンの父親から指導される稽古についての話だ。
とは言っても、オーウェン自身から進んで話す事はないので、こちらからうまい具合に様子を聞き出している。
話を聞いているとその様子が見えてくる様で、剣を振るう勇ましい姿を思い浮かべては笑みを零してしまっている。
――稽古を見たいといったら見せてもらえるだろうか?
オーウェンならきっと恥ずかしがって見せてくれない気がする。
今度オーウェンの母親のソフィア様にこっそりとお願いしてみよう。
『―――――』
――まただわ
エマは少し悩んでいた。
オーウェンと四阿で過ごしていると、たまに声が聞こえる事があるのだ。
その度に周りを見渡してみるが誰もおらず、どこから聞こえてくるのかもわからない。
オーウェンが気にする素振りがないので、この声が聞こえているのはどうやら自分だけのようなのだ。
最初は気のせいだと思っていた。
しかし、最近はやけにはっきりと聞こえるようになってきていた。
でも不思議なことに、声は聞こえるのに何を言っているのかはまるでわからない。
オーウェンに相談してみようかとも思うが、なんて説明したらいいのだろう。
――気味が悪い
エマは深いため息を吐き、眉をしかめながら紅茶を飲もうとカップを持ち上げた。
『――やめて!』
エマの耳をつんざく様な悲痛な叫び声がはっきりと聞こえた。
持ち上げかけたカップがするりと指先から滑り落ち、ガシャンと倒れる。
驚いたオーウェンが立ち上がり、何かを言っている――
その声を聞きながら、エマの意識はプツリと途切れた。