【26】
「トルド、いいか、危険だと思ったらすぐ戻るんだぞ。それだけは約束してくれ」
甲板に続く扉の前まで来て、ディークがトルドの肩をつかんでそう言った。
その顔は真剣そのもので、もし首を縦に振らなければ無理矢理寝台へと引き戻しそうな勢いがあった。
「危険だと感じたら、すぐ戻る。約束する」
まっすぐその目を見つめてトルドが頷くと、ディークはゆるゆると肩の手をどけた。
『界越え』というのは、大陸と大陸を隔てるように存在する海流を、決められた魔法の言葉で乗り越えることをいう。
不思議なことにその海流付近に近づくと、舵が効かなくなり船が勝手に動き出す。正しい言葉がついた船は海流を渡り、そうでないものは元来た道へと戻される。逆らいさえしなければ、それは船にとって何よりも安全だった。
だから、界越え付近になると船乗りたちはみな休息するのが習慣になっている。
人もそうでないものも、界越え海域では何の力もないからだ。
「見たことがあるの奴っているのか?」
船首の見える場所に座り込んで、トルドはディークにそう聞いた。
「女神って奴をか? そうだな、お前のオヤジさんは見てんじゃねーか?」
「親父が? そんな話聞いたことないぜ」
「そりゃ、滅多に人に話すもんじゃないからな」
「なんで?」
「神様って奴が関わることだから」
そう、顔をしかめたディークに、トルドは溜息をついた。
「なんだ、その溜息は。言っちゃなんだが、この言葉はお前のオヤジさんの口癖だぜ」
「俺は聞いたことがない」
トルドは物心ついた頃には父と共に船に乗っていたが、親子のように会話することなど殆んどなかった。
他の船員たちと同等、もしくはそれ以下として扱われていた。
「……すまん。でも本当だ。俺の界渡りの話はみんなオヤジさんの受け売りだよ」
少しむっとしたトルドに、ディークは軽く頭を下げた。
「いいよ、それより、親父が女神に会ったって」
「この船に言葉をもらう時会うだろ?」
「へえ、そうなのか。俺はてっきりどこかの魔法使いにでもかけてもらうんだと思ってた」
「まさか、そんな簡単にかけられたら、界なんていらないだろう?」
そんなことも知らないのかと、ディークは笑った。
「神様って奴が関わることだから、誰も教えてくれない」
ふてくされてそう嫌味を言う。
ディークは舌打ちした。
「普通は教えてもらえないさ……そろそろ界渡りが始まるぜ」
ぐん、と1段と強く船が何かに引っ張られた。
慌てて近くのローフに捕まりながら、前方へ目をやると水の壁がそそり立っていた。
「あれが、界?」
「そう、みたいだな」
トルドもティークも茫然と空を見上げる。
その場は昼でも夜でもない不思議な光が満ち、海の水が空に向かって昇っているのがよく分かった。
音がしそうなほど急な勢いで水が駆け上がっているのに、辺りは漣しか聞こえない。
「女神は何処にいるんだ?」
「さあな」
船はぐんぐんと進んでいき、船先がその飛沫を受けるかというところで、淡い光を放ち始めた。
やがて水の壁に突っ込むとこまで来て、船が止まった。
「何でこの船はこんなところで止まってるんだい?」
突然ディークとトルドの前で、水が吹き上がりそう声がした。
女神かとそちらを向こうとしたが、何故か体がうごかない。
「おや、起きてる者がいたのかい」
驚いたような声とともに、2人の前にその姿が現れる。
全身が水で出来た、女だった。
「危険だから眠らせろと言っておいたはずだけどね。……おや、お前は見たことがある……ああ、あいつの子だね」
向こうが透けて見えるその眼が細められ、その腕がトルドに伸ばされる。額に少しだけ触れて、眉を寄せる。
「自由にとは言ったけど、海の決まりまで教えるなとは言わなかったけどね……知らなかったとはいえ、お仕置きは必要だ」
女はトルドから離れると、ディークに近づいた。そして、足首を掴み持ちあげる。
「う、うわぁ」
「ディークっ!」
体が解放されると同時に、トルドはディークに手を伸ばした。上手く腕を捕まえる。
「トルド、逃げろっ、約束したろう? 危険になったら逃げるって!」
「逃げれるかよっ」
ディークの振り払おうとする動きを封じて、手に力をこめる。助けられないとは思えなかった。
「トルド、いいから、逃げろ」
「いやだっ」
さらに激しく腕を振られて、トルドは悲鳴に近い声をあげた。
「今なら、助けられる。だから、離さない!」
「トルド、もう分かってんじゃないか。俺を助けれないって、さ」
「ディーク……」
耳元にそう声が聞こえて、トルドはディークを見た。手を掴んいるディークは何も言ってない。でもディークの声は続く。
「もういいから離せ。これ以上さ、あの時のことで悩むなよ」
「でも」
「でもも何もない。お前にはやることがあるはずだ」
言われて、トルドの脳裏に黒い髪と赤いリボンの男の顔が浮かんだ。
「思い出したか? なら、その手を離せ」
姿は見えない。でもいる。トルドは掴んでいた手から力を抜いた。
「先に進まなくちゃならないんだな」
「そうだ。ほら、出口はあっちだ」
促されて、トルドは船室に続く扉がある方へと目をむけた。
出口は光に包まれてる。
「ディーク、また会えるか?」
「……俺はいつでもお前のそばにいるって知ってるだろ? さ、行けよ」
ディークの声は笑っている。
トルドは辺りを見回してから、光に向かって歩き出す。
その背中に、声が聞こえた。
「お前の新しい友達、すげえな。いつかお前の役に立ってくれるかも。大切にしろよ」
☆☆☆
神殿は熱気に包まれている。
長く不在だった巫女を、国の安定を約束する者をついに選ぶ日が来るのだ。浮き足だつのも分からなくない。
神殿と国の運営はすべて占いや予言によって行われる。前の巫女が突然その役目を降ろされた上次の巫女が決まらないまま、長い時がたっていた。当然今回の巫女選びに対する期待は深まるばかり。
「ラウル、どうする? もし彼女が選ばれたら?」
本殿の少し前まで来たところで、トゥルーが言った。ラウルは足を止め振り返る。
「どうする? どうするって、どうすりゃいいんだ? 俺に何ができる?」
「ラウル、オレは」
ラウルは何か言いかけたトゥルーに背を向け、そのまま本殿に入った。
トゥルーは追いかけてはこないはずだ。
トゥルーは知っている。ここに彼女がいることを。
「ラウル」
記憶の通り、入ってすぐ呼び止められた。
声は女、それも少女のもの。
声の主は知っている。声を聞く前からそこにいることは知っていた。あの時とおなじように。
白い髪と赤い炎のような瞳の聖なる乙女。
「……」
名を呼ぼうとしたが、何故か声が出なかった。
でもその人には聞こえたらしい。嬉しそうに顔をほころばせる。
その笑顔に、思わず違う言葉を言いそうになって、口を塞いだ。
「ラウル。やっぱり来てくれたね。一緒に逃げよう」
少女が嬉しそうにラウルの腕に絡みつく。
「逃げ道は確保してあるんだ。みんな、私たちの味方だよ」
「やめろ」
引っ張られそうになって、ラウルはその腕を振り払った。
少女は驚いたように見上げてくる。
「君はもう知っているだろう? 俺の答えはあの時と変らない。俺が君がここにいることを知ってたように、君も分かってるはずだ。俺の答えを」
「ラウル? 何を言ってるんだ? 一緒に逃げてくれるだろ?」
少女は顔を歪めて縋りつく。
「あの時の君はそんなことしなかったろ? そして、俺の答えを黙って聞いていた。俺は答えを変えない。何度考えようと、何度この場に立とうとね」
少女はふらりとあとずさった。
ラウルは少女の蒼白になった顔を見つめて、少し笑った。
「そんなに怖がらなくてもいい。俺は君が何をしても怒ったりしない。ただ、言っておけばよかったとは思ってたことはあるんだ」
ラウルは少女に近づいて、その瞳を覗き込んだ。
「きっと、それを後悔してたんだ。俺は……」
「ラウル?」
「君が、好きだよ。きっと迎えに来るから」
ラウルは照れくさそうに、頭をかいた。少女は顔をしわくちゃにして笑った。
ラウルもつられて笑った。
笑って、笑ってるうちに、世界は色あせ光に包まれ始める。
どこか遠くからトゥルーの呼ぶ声が聞こえた。
ラウルは深い満足感を覚えながら、その声に答える。
そして、ラウルの意識は薄れて言った。
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