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私の椅子になりなさい


 険しい山脈に囲まれたわずかな平地、そこにへばりついている村落に似つかわしくない屋敷があった。古びてはいるがそれは見すぼしらさではなく流れた時の重みを感じさせ、そのまま京の六条に移築しても違和感なく馴染むであろう。

 その屋敷の離れに年の頃一四、五の一人の少年が臥せっていた。線が細い少年の名は史郎と言う。

 史郎は熱で朦朧とした意識で名前を呼ぶ。

「文妃、文妃」

 音もなく襖が滑り現れたのは着物姿の童女だった。畳にするほどの長い黒髪を後ろにまとめた姿はせいぜい八つか九つにしか見えぬのに、男の芯をうずかせる妙な色気があった。

「ぼっちゃま、まだ熱がさがりませんか」

 その声も童女姿に似合わぬ思慮深い大人の女のものだった。

 文妃は柔らかな白い手を史郎の額にあて、熱を探る。その手はひんやりしていて触られているだけで熱がさがるようで心地よい。

 史郎が物心ついたときには、文妃に世話を焼かれていた。

 甲斐甲斐しいさまに幼い史郎はなんとはなしに血の繋がりを感じ、もしや腹違いの姉ではなかろうかと夢想したこともある。父が妾に生ませた子だから、女中のように弟の世話をしているのではなかろうかと。

 そういう夢想をするのは楽しかった。

 しかし、ある時文妃ではなく母に世話されているときに文妃を呼んでくれないかと頼むと、母は文妃さまをお呼びだてするなんてとんでもない、そう言った。

 文妃は母に樣づけで呼ばれる存在であるらしかった。

 滅多に母が姿を見せぬのは情が薄いからだと思っていたが、そうではなく常に史郎の側に文妃がいるため畏れおおくて近づけない、ということらしかった。

 それを聞いて史郎は文妃が家のなかで虐げられる存在ではなく、敬われる存在であることが嬉しかった。童女がそんなにも敬われることの奇妙は嬉しさに比べれば些細なことであった。

 史郎が成長しても文妃はまったく成長せず童女姿のままだった。

 成長が止まる病気であるとか理屈をつけることはできたが、史郎はそうせず文妃とはそういうものだと飲み込んだ。

「ぼっちゃま、水はいかかですか?」

「うん、お願い」

 頭を支えられ水差しで文妃が飲ませてくれた水は氷もないのに程よく冷え、かすかに柚子の香りがした。

 史郎の唇からこぼれた雫に文妃が頬を寄せ、ついっと桃色の柔らかな舌先で舐めあげる。

 文妃がよくやることだった。いつか舐められるだけでは済まず、食べられてしまうのではないかと思うことがあったがそれはちっとも嫌でもなく、むしろ想像すると体の奥がどんよりと熱くなるのだった。

「ぼっちゃま、寝れそうですか? それともいつものしますか?」

 文妃がわかりきったことを訊く。史郎がいつものを文妃に頼まず大人しく寝ることなどないのに。

 彼女が立ち上がり帯を解く音が密やかに耳に届く。

 史郎は詳しくはないが、文妃がまとうものはすべて絹だと言う。史郎はそれを嬉しく思う。文妃には木綿など着て欲しくはなかった。

 風で散った花弁が降り積もるように、畳の上に文妃が脱いだ着物が積もっていく。

 成熟など欠片もない養女の白い裸身が現れる。人とも思えぬ滑らか過ぎる肌は妙な色気を感じさせた。

 史朗は布団のなかで背中を向けてしまう。裸身を見たとしても文妃は咎めないのだけど、直視するのが恥ずかしくて背中を向けてしまう。

 文妃は史朗の背中に沿うように布団のなかに入ってくる。冷たい裸身が熱で火照った体に気持ちいい。文妃に添い寝され冷えた手で優しく撫で回されると、病も熱も苦しみもすべて文妃に吸いとられるように感じる。

 そしてぴったりとくっついた文姫により、お話が始まる。

 史郎の耳元で囁き声で秘めやかに語られるのは、椅子の内に潜んだある男の物語。

 男は醜さと貧しさの果てに、大きな肘掛け椅子の内に潜んだ。

「文妃、椅子のなかになんて人が入るものなのかい?」

「それは立派な洋風の椅子なのですから、中身をくりぬけば人ぐらい入ってしまうものなのですよ」

 史郎はそうなんだ、と納得する。今まで文妃が言ったことで間違ったことなどなかったのだから。

 男が椅子の内に潜んだのは貧しさのため、人の気配がない時に椅子から抜け出して盗みを働くためだったが、それは直に別の愉悦にとって代わられる。

「男はとても醜い容姿でしたので、椅子越しに感じる他人の重さや体温は、とても一方的ではあるけれども男にとって初めての他人との親しい触れあいで、それは男にとってとてもとても大事で、男の人生によってはただ一つの宝石のきらめきなのでした」

「それは文妃が抱っこしてくれてるみたいな感じなのかな?」

「ずっとつまらないと思いますよ、椅子越しではこんなことできませんし」

 そう言って文妃は指を史郎の肌着の下に忍ばせる。ひんやりした指が史郎の肌を撫で回す。それは胸から腹に、そして更に下へと悪戯していく。

「ぼっちゃまを撫でるよりはずっとつまらないことですけど、男には大事だったのです」

 そして椅子はある家に売られ、そこの若奥様が愛用することになった。男にとっては母親以外では初めての女性との接触。若奥様が椅子に深く体重を預ければその肉の柔らかさだけではなく、首筋につけた香水が椅子越しに薫っただろう。

「きっと男はぼっちゃまのように堅くしていたでしょうねえ」

 文妃は握ってやわやわと動かす。

「文妃が悪戯するからじゃないか」

「だって、ぼっちゃまが可愛いんですもの」

 囁きとともに文妃が耳に吹き込んでくる吐息に、史郎はくすぐったいような気持ちいいようなぞくぞくした感じを覚える。

 指先で史郎を弄びながら、文妃は語り続けた。

「情欲とも恋慕ともつかぬ思いは男がそうとは知らなかっただけで、それはきっと初恋だったのでしょう」

 醜いが故に面と向かってしまうと、萎縮してしまう。恋慕に至る前に自分を止めてしまう。それは椅子越しだからこそなった恋であった。

 やがて、椅子越しに若奥様を知るだけではなく、若奥様にも椅子の内の自分を知って貰いたいという欲望が芽生える。一度生まれた欲は止めどなく、男は椅子から抜け出して恋文をしたためる。

 たとえ世間から外れていようともそれは嘘偽りのない恋慕を綴った文であった。

「それで文を読んだ若奥様はどうしたの?」

「どうしたのでしょうねえ。お話はここで終わりなのですよ。だから、ぼっちゃまが好きに想像なさったらいいですよ」

 文妃はわざと読み手が異形の人間椅子の世界から日常に復帰するための落ちを省いた。

 そのせいで史郎はまだ人間椅子の世界に置き去りになっている。

 弄んでいたものの埒をあけるために、文妃が布団のなかに潜っていく。文妃の指が、唇が史郎を絡めとるように這いまわる。

 人間椅子に座った若奥様はこんな気分だったのだろうかと、史郎は夢想する。



 翌日、文妃は箪笥の内の着物をきれいに畳に並べている史郎を見つける。

「あら、どうなさったのですぼっちゃま?」

「ほら、椅子はないから椅子の内には入れないけど、箪笥の内に入ったら似たような気分を味わえるかなと思ったんだ」

 文妃が童女の姿に似合わぬ艶めいた笑みを浮かべた。

「それでしたら、ぼっちゃま私の言う通りにしてくださいませ」

 史郎を四つん這いにさせるとその背中にすっと腰を落とす。

 そして屹然と言い放つ。

「ぼっちゃま、私の椅子になりなさない」




   


 

参考文献

江戸川乱歩「人間椅子」

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