第一話 僕と羽咲
携帯がメールを受信し、サブディスプレイが光りだした。
ベッドに寝転んでテレビを見ていた僕は携帯を手に取ると、カチカチと少し操作をして送信されてきた中身を確認する。
「明日から5連休だね!さっそくだけど、明日空いてる? 私、自転車で行きたい所があるんだよね」
佐藤友嗣宛に届いた、秋元羽咲からのメール。
久しぶりに届いた彼女からのメールは、僕の身体中をじわじわと沸きたたせた。
それは男としてごく自然なことであるはず。
考えてみてほしい。女の子からどこか行こうって言われたら素直に嬉しいはずだ。
かといって、僕が彼女を恋愛的に好きというわけではない。
あれ、もしかして彼女に恋をしてる? と思う時期があったりもした。
けれど、それはただの錯覚に過ぎなかった。
なぜそう言い切れるのか。その根拠はどこにあるのか。
それは、僕は彼女とこういう関係だと思っているからだ。
僕らの関係は、恋よりも暖かく、のどかなものである。
恋を場所で表すとするならば、海がちょうどいい。
輝く海は、かけがえのない二人の幸せな日々だ。
溺れることだってあるはず。いつ襲ってくるか分からない波に揺られる時もある。
気持ちが高ぶり、心地よかったはずの海の中が急に冷たく感じることだってある。
ましてや、海なので危険な状態に陥る可能性がある。
それに比べて僕らの関係は、野原にいるようなものだ。
これといった危険がなく、暖かい日差しのもとにのんびりと過ごす。
変に気を遣わず、気楽に過ごせるので、羽咲といるのはこの場所がぴったりなんだと思う。
彼女のお誘いを承諾し、翌日の集合時間を決めてから携帯を閉じる。
23:00 と無機質な文字がサブディスプレイに表示された。
僕は高まった気持ちと明日への期待を一緒に心の中にしまい込んで、瞼を閉じた。
*
僕と秋元羽咲は同い年で幼馴染みだ。
時の流れというものは早いもので、彼女と知り合ってもう十数年になる。
幼い僕は怖がりだった。何をする時も、常にお母さんと一緒じゃないと怖くてできなかった。
だからどうしてあの日、五歳の僕が一人で公園になんて遊びに行ったんだろうと、今思えば不思議だ。
暖かい春の日差しの下、僕はふらふらと彷徨うように家の横にある公園へと入っていった。
見渡すと、散った桜の優しい桃色が地面をあちらこちらで彩っているのが分かる。
ブランコもジャングルジムも怖くてできない僕は、桃色の絨毯の上を目的もなく歩いていた。
そんな中、二つのなきごえが聞こえてくる。
音のする方を見てみると、すべり台に女の子と子犬がいた。
子犬は、すべり台の上にいる女の子を見上げてうるさく鳴いている。
子犬が怖いのだろうか。女の子は声と体を震わせて泣いている。
僕はどうしていいか分からず、ただ首をきょろきょろと動かしていた。
桜の木は冷たい風に揺らされている。僕の目の前には、桜の花びらが落ちてきた。
まるで、彼女が僕に助けを求めるみたいに。
「あの子を助けたい……!」
こんな思いが心の中で宿ると、僕は子犬に向かって一心不乱に走り出した。
足音に気づいた子犬は、僕を見た途端すぐに逃げ出し、どこかへ消えてしまう。
ひと時の静寂が、辺り一帯を漂っていた。
僕はすべり台の階段を上り、彼女のもとに向かう。
彼女はまだ少し泣いていたが、僕のことをじっと見つめた。
「だいじょうぶ?」
僕の言葉に彼女はこくりと頷く。そうしてゆっくりと口を動かした。
「うさぎ、おいぬさんがこわかったの……」
うさぎ と聞いて初めは何のことか分からなかった。
白い柔らかそうな服を羽織っている彼女の姿から名前かなと思うと、しっくりきた。
「もうこわくないよ。おいぬさんいなくなったよ」
僕はそう言って、彼女の頬に手を伸ばした。
彼女のほんのりと赤く染まった頬は、桜の花びらのようになめらかな肌触りで綺麗だった。
翌晩、僕の家を訪ねてくる人がいた。
その人は、例の公園に隣接した家に引っ越してきた。つまり、公園を挟んでいるが僕の隣人ということになる。
お母さんは玄関先で話が盛り上がっているようだ。高らかな笑い声がリビングまで聞こえてくる。
「ゆうくーん、ちょっときてー」
お母さんは僕のことをゆうくんと呼ぶ。友嗣と呼ぶより呼びやすいそうだ。
僕は玄関まで向かい、ドアの外にいる人を見る。少し背の高い女の人と女の子がそこにはいた。
ん、この女の子どこかで見たかな……?
「家の隣に引っ越してきた、秋元さんだって」
「はじめまして、ゆうじくん。引っ越してきた秋元です。この子は、娘の羽咲よ。これから仲良くしてあげてね」
玄関先に立った少し背の高い女の人は僕に微笑みながら話した。
まさかと思った。しかし、それは紛れもない事実である。
その人の後ろからひょこっと顔を出している女の子が、僕が公園で子犬から助けた女の子だったのだ。
羽咲は僕に気がつくと、肩の前で小さく手を振ってきた。
それに応えるべく、僕も小さな手をたくさん振った。
一瞬、僕らは繋がった 気がした。
同時に、この子とはもう仲良しなんだ とも思った。
*
僕は玄関のベルを鳴らす。
ピンポーンと鳴り終わった後の静寂が少しもどかしい。
数秒の時間を置いて、聞きなれた明るい声が返事をする。
彼女はすぐに現れた。今日も白いモコモコの服を着ている。
このような服が似合うのは、やはり彼女の名前のおかげだろうか。
「おはよう、ゆうくん!じゃあ行こうか」
そう言いながらドアを閉め、僕の方を向いた。
しかし、羽咲はその場から一向に動く気配がなかった。
「自転車で行くんでしょ。乗らないの?」
僕が訊ねると、彼女から驚きの返答があった。
「乗るよ、君の後ろにね。」
「……は?」
つい、間抜けな声が漏れてしまう。
君の後ろにね。
彼女の言葉を脳内で反芻する。
つまりは二人乗りをするということだ。しかし、二人乗りをすることは法律により禁止されている。
色々な危険要素が絡んできて大きな事故を起こす可能性があるからだ。
ただ、彼女と二人乗りをしたくないのかと訊ねられたなら。
僕はしたいと答えてしまうだろう。
自分一人で乗るときとは違う。
涼しい風が、髪や背中を通り抜ける感じを彼女と共に味わってみたい気もする。
すると、僕の心の奥にいる黒い小さな何かがひょっこりと出てきて、ささやいた。
-こういうのはリスクが伴うから、余計に楽しいんじゃないの?-
僕が葛藤していると、羽咲が追いうちをかけてきた。
「いいじゃん。やってみたかったんだよねー、二人乗り。ねえ、いいでしょ!」
結局は彼女に押し切られてしまい、二人乗りをすることになる。
こういうことを断れないあたりが、僕の甘さだ。
僕はゆっくりと自転車を漕ぎはじめる。それに続いて、羽咲が後輪の上に飛び乗った。
途端にバランスを少し崩してしまい、倒れそうになってしまう。
自転車の重心が見えないところにあるので、はっきり言って漕ぎづらい。
この重みが、羽咲の華奢な体から作られているとは正直考えられなかった。
羽咲ってこんなにおm……
いけない、いけない。不覚にもそんなことを脳裏に思い浮かべてしまった。
「ちょっと、なんでバランス崩してんのよー」
僕の見解を見透かしたのだろうか。彼女は、僕の背中をバシバシと叩く。
「別に。ただ、慣れてないだけだよ」
「本当のことを言いなさいよー」
「ほんとだってば!」
僕は断言する。
別に嘘をついたわけではない。
過去に二人乗りをしたことがないので、慣れないのは至極当然のことであろう。
僕はただ、彼女の体重が思っていたよりも重かったということを黙っていただけだ。
それにも関わらず、彼女は僕の背中に本気の一発を見舞わせてきた。
彼女は叩く前の伏線として、
「もー!」
と呟いていた。僕は、羽咲が急に牛の鳴きマネをしたのかと思ってしまったんだ。
油断した。ていうか会話している最中に、突然牛の鳴きマネをする馬鹿がいるか?
馬鹿なのは僕のほうだ。
彼女のためを思って黙っていたのに、結果的には機嫌を損ねさせてしまう。
だから仮に僕の考えていたことを白状したとしても、叩かれる運命は変わらなかったみたいだ。
着くまでにあと何回叩かれるんだろう……
嫌な気持ちを持った心も、ヒリヒリと痛む背中を持った僕の体も、自転車ごしで羽咲に揺らされながら僕は旅路を進むのであった。
*
僕等が向かっている場所は、和泉季湾という海だ。
自宅から自転車で約20分の所に位置する。そこには砂浜はないが、海岸沿いから見える景色は日常を忘れてしまうほど美しい。
果てしなく広がる青い海に、岩肌と崖以外は緑で覆われた孤島が点々としており、鮮やかなシンメトリーを醸し出す。
日が傾くと、孤島は影に隠れ、澄んだ青をオレンジに染めていく。
日中の鮮やかな佇まいとは違う、えも言えぬ光景を陽光が演出してくれるのだ。
そんな和泉季湾まではあと5分ほど。
後方におられるお姫様の重みにも徐々に慣れ、今では余裕をもって自転車を漕ぐことができている。
「風が気持ちいいねー」
彼女は脚をブラブラさせながら、正面から吹きつけてくる風を堪能している。
一瞬その脚で僕を蹴ってくるんじゃないかと思ったが、杞憂だった。
実際、僕らを通り過ぎた風は、涼しくて気持ちよかった。
ほのかに海の潮っぽさを帯び、鼻を少しくすぐられる。
それは和泉季湾に近づいている証拠でもあり、高揚感を抑えられない。
「あとちょっとで和泉季湾だ。楽しみだね」
「そうだね。それにしても、二人乗り楽しいねぇ。私の提案にのって正解だったでしょ!」
「そうかもしれないね。やってみると意外に楽しいもんだ。僕は君の提案に、君は僕の後ろにのって正解だったね」
「面白いこと言うねー。ねえ、ゆうじ君。こんなことをしているなんて、…だ…私…ち恋……たい…ね」
「え?何て言った?」
羽咲は何かを言ったが、完璧には僕の耳に届かった。彼女の言葉の一部は風に流されてしまったのだ。
僕は後ろを振り返る。
そこには、少し茶色を含んだ髪をふわふわと踊らされている、頰が薄く赤らんでいる羽咲が下を向いていた。
「……なんでもないよ。気にしないで」
彼女はそう呟いた。そしてゆっくりと顔を上げる。
その瞬間。
彼女の表情は青ざめ、豹変した。
羽咲の視線は、僕を通り越している。
何事かと思い、顔を正面に向けたときにはもう、遅かった。
少し車体が浮いたと思いきや、ガシャンと大きな音をたてた後に視界が逆転した。
先程までまっすぐに建っていたはずの建物が横に見える。
体を起こそうとするが、痛みが全身に走った。
どうやら、道路に打ち付けられたみたいだ。
僕の横では、投げ出された自転車のタイヤが無意味に回り続けている。
そうだ、うさぎは。うさぎはどこにいるんだ。
痛みに抗って体を起こす。
しかし、最初に目に入った人は彼女ではなかった。
そこには、頭部から流血をして倒れているおじいさんがいた。
地面一帯には血溜まりが広がり、鉄っぽい生臭さが辺りを漂わせている。
僕はひき殺してしまったのか……?
目の前で起きていることが理解できない。
ただ、それに逡巡しているのも束の間のことである。
そいつはゆっくりと体を起こしてきた。
血だらけの頭を震えながら動かしている。何かを探しているようだった。
僕を見つける。
すると、瞬く間にそいつの血相が変わった。
血走った眼球がぎょろりとこちらを向く。
そして、地面に這いつくばりながら、前傾姿勢でこちらにじわじわと近づいてきた。
しかし、僕にたどり着くことができずに力尽きてしまう。
横を向くと、羽咲が呆然と立ち尽くしていた。
体はずっとおじいさんのほうを向いている。
僕は気がつくと、彼女の手を握って走っていた。
ただひたすらに、走って逃げた。
すぐに、その場から立ち去ってしまった。
次回作を年内に投稿できるよう頑張ります。