長編の試し書き
〈第一話 早起きは三文の徳って言った人を私はもう信じない〉
いつもよりちょっぴり早い朝。
澄んだ空気を目一杯に吸って、その少女は軽快に走っていた。
「早く家を出るのも悪く無いわね。」
早起きは三文の徳と言うが、その中の一つはこの澄んだ空気なのだろう。
それに加えて道沿いには満開の桜が咲いている。何て素晴らしいのだろうか。
二つに結った金色の髪は肩をさらさらと流れ、華奢な体つきは見るものを引きつける何かがあるように思えた。
由緒正しき一之瀬家で育ったその少女――一之瀬霞はその軽快な走りとは裏腹に、ある悩みを抱えていた。
――おばあ様もお母様も、両親が選んだ人と結婚したっていう話は昔から聞いていたのだけれど、まさか私も許嫁がいるなんて思わないじゃない! 大体この世の中まだそんな古臭い事やっていて良いのかしら。私にだってす、すす、好きな人くらいいるもの!
そしてその悩みは、お嬢様ならではの悩みのようだった。
霞本人が聞いた話によると、許嫁は今波に乗っている会社の息子のだとか。
名前は花の名前と同じ。白木蓮と書いて『白木 蓮』。
しかし知っているのはそれらだけで、顔も声も性格も知らない。つまり名前と家柄しか知らないのである。
「あ、でもお父様が桜葉高校の生徒だって言っていたような…」
桜葉高校は、霞が通っている花邱学園の姉妹校であり、ライバル校でもある。
「ううん、でもどうだったかな。許嫁が衝撃的であまり覚えていないわね。」
彼女は走るスピードを落としながら、顎に手をそえ、首を右側に傾ける。そして少し進んだところで今度はピッタッと足を止めた。
〈花邱学園前〉目的地だ。
彼女は校舎の良く見えるところにある大きな時計を見て、深いため息を漏らした。
「流石に門は開いていないか…」
いつもの時間の一時間半も前についてしまった。
昨日自分に許嫁がいると聞かされ眠る事の出来なかった霞は、暇を持て余し皆が起きてくる前にこっそりと抜け出したのだ。執事もメイドもついてこない久しぶりのボッチ登校である。
「このくらいの門、よじ登れば何とかなりそうね」
幸い通行人はほとんどいないし、少し下品なことになるけれど今は一人だ。
口うるさく説教されることは無い。三文の徳の二つ目はこのことなのだろう。
まずは門の向こう側にバッグを放り投げ、冷たい門の上部分に右手をかける。干してある布団の様になろうと、上半身を前に付き出したところで左足を思いきり横に蹴りあげた。
「よいしょ…よいしょ…っと!」
少しスカートがめくれてしまったが、というか今もめくれているが、今は両手を離すとまっさかさまに落ちてしまうので、これは…まあ恥ずかしいがしょうがない。
とりあえず、門の上に座ることが出来たのであとはここから降りれば良いだけだ。
早く済ませよう。
――そう思った時
〈カシャッ〉
「な、シャッター音…?」
その音は明らかに霞の真後から聞こえてきた。
――盗撮された!
霞は慌てて振り向いたが、不幸なことにこんな体勢である。
「だ、だめ!」
バランスが崩れ、後ろに落ちてゆく。いつもなら執事が真っ先に助けてくれるのに、こんな時に限って…!
彼女はギュッと目をつむり痛みを覚悟した。
「優斗…!」
そして反射的にいつも助けてくれる執事、そして密かに思っている人の名を呼んだ。
しかし彼がここに居る訳も無く、次の瞬間固い地面にたたきつけ――
「危ない!」
――られることは無かった。
彼女の儚い体は羽の様にふんわりと腕の中に吸い込まれ、腕の中に納まったのだ。
本当に助けてくれるとは思わなかった彼女は、驚いて彼の方を向いた。
「あ、ありがとう優……」
「いえいえ、それほどでも」
その人は華奢に見えるが、抱きかかえられている霞からするとその鍛えられた肉体がはっきり分かる。栗色でさらさらの髪に、同じ色の綺麗な目をしたイケメンがそこにはいた。
まさにその人こそ――
「……誰ですか。」
「いやだなあ、助けたのにそんなゴミを見るような目つきで見ないでよ」
「あなた私の事を盗撮したでしょ!」
そこにいたのは執事でも、密かに思っている人でも無かった。
通行人がほとんどいない早朝。わずかな時間で助けられるのはすぐ後ろで盗撮した人だけに違いない。
「優斗が助けてくれるかも……なんて、そんなことあるわけなかったか。」
だいたい、あいつは鈍感すぎる。私がこんなにも… 霞はぼそっと呟いた。
しかし次の瞬間ハッとして、それを紛らわすかのようにして腕の中から立ち上がると、助けてくれた青年に向かって一応礼をすることにした。
「た、助けてくれてありがとう。もう大丈夫だわ」
「ふうん、それは良かった。」
するとその青年もひざの汚れを落としながら立ち上がる。身長は180cmくらいだろう。結構なモデル体型だ。
「あら、その制服は桜葉高校の…」
彼が立ち上がった時に気品がある白いブレザーに目が留まった。このあたりでそのような制服は珍しい。
「桜葉高校と言えば…」
許嫁の学校だったはず。 ―――ああもう、また嫌なこと思いだした!
ご機嫌斜めな霞はスカートについた折り目を治すようにはたくと、キレ気味に青年に名前を尋ねた。
「あなた名前は?」
「名前? 俺を警察に連れて行く気か」
「ち、違うわよ。盗撮はムカつくけど、一応助けてくれたし…その…」
「後日お礼を言いたい…と?」
「何よ、悪い!?」
霞は胸の前で腕を組んでふぃっと彼の顔から目をそらした。
しかしそんな霞を見て、青年は気を悪くするどころか笑っていた。
「律儀な一之瀬家のお嬢はさすがだな。」
「え、」
―――今、何て。
門番の先生がこちらに向かってきていることも、ちらほらと歩行者が増えたことも、その中に同じ学校の生徒がいる事も、何もかも気にならなくなり、霞は青年に詰め寄った。
「な、何でそれを」
彼女はこの時点で何となく気が付いていたのだ。
何が三文の徳だ、嫌な予感しかしない。そう大声で叫びたかったのだ。
「何で…ってそれは勿論俺が―――」
その時、二人の間に春特有の暖かな風が吹いた。もう寒い朝の風ではなくほんのりと暖かな、幸せな風が。
コレは俺がまだ布団の中でぬくぬくとしていた今日の朝の話。
春の布団の中はとても心地が良いのだ。
ここを抜け出してお嬢様を助けに行くなんて……誰がするかそんなこと。