5-2
「あっ……そこ、そこです……!」
イブキの肩が、俺の目の前で震える。
彼女の欲望に塗れた野獣の如き瞳は、限界まで見開かれ、穴へと向かう腕を見据えた。
「そう、いいです……!
その、調子です……!」
震える彼女の手。
俺がイブキの手を握ってやると、彼女は身震いを少しだけ小さくした。
イブキは、そんな俺の手に指を絡めてくる。
まるで、何かを欲しがるかのように。
「そうです……!
あと……あと、少しで……!!」
そして、彼女の吐く熱い吐息が、彼女の目の前のガラスを、白く曇らせた。
「イけます……もう、イけます……!」
イブキの心拍数が、最高潮に達した、その瞬間――!!
ガコン!!
巨大ハムスターのぬいぐるみが、クレーンゲームの筐体から排出された。
「や、や……やりましたぁぁぁぁ!!!!」
両手で万歳し、喜びを全身で表すイブキ。
そんな彼女からは、年相応……いや、それ以上に幼さを感じ取れる。
こういった一挙手一投足が、俺の心を揺さぶった。
マフル警備隊本部を後にした俺達は、せっかくセントラルシティに来たのだからと、一通り遊んでから帰ることにした。
イブキにとっては、初めて経験する大都会。
この機会に、彼女のやりたいことをやらせてあげようという話になったのだ。
そして今、イブキのリクエストから、ゲームセンターで遊んでいる。
ルンルンと、鼻歌を歌いながら、イブキはハムスターのぬいぐるみを取り出す。
彼女はそれを胸に抱えると、涙で潤った瞳を俺に向けた。
「ありがとうございます……旦那様……。
一生……一生大切にしますね!!」
ホロリ、と涙を流すイブキ。
「いやいやいや、そんな大それたもんじゃないだろ!
結婚指輪じゃあるまいし」
たかだかぬいぐるみ程度で一生大切にされたら、爺さんになる頃には家がどうなってることやら……。
だが、俺は自らの一言で、イブキとの結婚を意識してしまった。
このままイブキが、俺を慕っていてくれたら、いつか結婚指輪を渡すことになるのかな……。
どうやらイブキも俺と同じことを考えていたようで「結婚……」と顔を赤らめながら呟いていた。
「あらあら、お熱い事ね」
不意に後方から掛けられた聞き慣れた声に、俺は振り向く。
そこに立っていたのは、3本の缶ジュースを抱えたライムだった。
「ライムさん、見てください!!
旦那様からの、初めてのプレゼントです!!」
イブキは巨大ハムスターのぬいぐるみを自慢げに突き出すと、満面の笑みを浮かべた。
そっか。確かに何かをあげるのは、これが初めてだったな。
そう言う意味では、思い出の品になるのか。
「そう。良かったわね、イブキちゃん。
それじゃあこれは、私からのプレゼント」
ライムは微笑むと、抱えた缶ジュースの内一本を差し出す。
イブキは巨大ハムスターのぬいぐるみを、大切そうに抱え直してから、缶ジュースを受け取った。
「ありがとうございます、ライムさん!」
イブキの横顔は、とても幸せそうだった。
俺もそうだ。
俺も、今の時間がとても愛おしい。
「はい。ソウタの分」
「ああ。サンキュ」
胸を締め付けるような、それでいて頬を緩ませるような、そんな感情。
俺は、確かに感じている幸福感を、缶ジュースと共に両腕で掴み取った。
「そう言えば、イブキは缶ジュースの開け方わかるのか?」
ふと頭を過った、そんな疑問。
イブキは元々、マフルの外で育ったんだ。
街の外なんて、この世界に来た時にくらいしか見たことがないから、よくわからないが……。
魔物が跋扈しているというのだから、まともな環境ではないのだろう。
もし開け方がわからないのなら、俺が開けてやらなければならない。
将来の「旦那様」として。
しかし……。
「大丈夫ですよ!
ジパンの国にも缶詰はありましたので!」
だそうだ。
せっかくカッコいいところを見せてやろうと思ったのに……。
缶詰開けられた程度で、かっこいいも糞もないけどさ。
ライムは、そんな俺達のやり取りを見て、いつもの如く微笑んだ。
「いつか、ソウタにも街の外を見る機会がくるかもしれないわね」
「困っている人がいるのなら、今すぐにでも行かなくちゃならないんだけどな。
ヒーローとして」
「それなら大丈夫よ。
私の友達が、みんなを守ってくれているから」
友達……ねぇ。
でもその友達の一人であるはずの魔女ルイスは、俺達に敵対している。
残りの魔女も、本当に信用していいのか?
「の割には、その友達の一人と、でっかい喧嘩してるじゃねぇか」
外ではあまり、魔女の話を出さない方がいいと考えた俺は、言葉を濁しながら会話を続ける。
ライムも気が付いたのか、それに乗ってくれた。
「あの子は、私達の下から突然飛び出しちゃってね。
それ以来、会っていなかったの。
でも他のみんなは大丈夫。
人々を守ると約束して、世界中に旅立ったから」
「それで、そのうちの一人が、こいつのおばあさまってわけか」
俺は、ハムスターのぬいぐるみを抱えるイブキの頭に手を置いた。
俺の手の下で、イブキが照れくさそうに笑う。
……だが、約束したからといって、本当に信用してもいいのか?
300年も経っているんだ、約束の重みだって薄れていく。
それに、人々を守るという目的が共有されていたとしても、どういった手段を取るのかまではわからない。
もう一つ言ってしまえば、お人好しが服を着ているようなライムだ。
他の魔女が、腹に一物抱えていたとしても、それに気付くことなどできないだろう。
俺だって、出来る事ならばライムの友達を信じてやりたいが……。
「ま、この話は帰ってからだな。
今は都会を楽しむとしよう。
な、イブキ?」
俺は、イブキに乗せた手を、左右に動かす。
俺の手に髪を乱されながら、イブキは満面の笑みを浮かべた。
「はい!!」
「……にしてもこれからどうする?
時間的にはまだまだ余裕はあるが……」
すでにゲーセンに来て2時間ほど。
現在時刻は14:00前後だ。
まだまだいられるにはいられるが、そろそろ場所を変えたいというのが本音だ。
出来るならイブキの意見を仰ぎたいところだが。
「イブキ、どこか行きたいところとかあるか?」
「ええと……。
いろんなところを見て回りたい気持ちはあるのですが、何があるのかがわかりませんし……」
そうか。まあ確かに、此処に何があるかすらわからないのなら、意見なんて聞けないな。
とはいっても、俺もどこに連れて行ったらいいのかわからない。
そんな時、ちょちょいと俺の肩を突いてきたライム。
彼女の方を振り向くと、ライムは俺に耳打ちをしてきた。
「……ほら、エスコートよエスコート。
男気の見せどころでしょ?」
こいつは何を言っているんだか……。
俺にそんなものを期待したって、デパート連れてって終りだ。
それか、今から夜景の綺麗なレストランにでも連れて行けというのか?
……まあイブキなら、どっちにしても楽しんでくれそうだが。
「それなら、少し外でも歩いてみるか?
ここらへんなら、何処でも暇くらい潰せるだろ?」
缶ジュースを開けながら、俺は出口へと歩きだす。
飲みながら少し歩いて、青空の下で休めばいい。
外を適当に歩いていれば、イブキも行きたいところが見つかるかもしれない。
今日もマフルは快晴だ。
たまには、日光を浴びながら一休みなんてのも悪くはない。
「ちょっとソウタ。
歩きながら飲み食いするだなんて、お行儀が悪いわよ」
案の定というべきか、まるで母親のようなことを言いだすライム。
とはいえ、せっかく買ってきてくれたジュースが、温くなってはライムに失礼だ、と俺は思う!
こういうものは、おいしい時に飲むのが一番!
「まったく、お前は俺のお袋かっての」
このゲーセンは、セントラルシティの大通りに面している。
故に、道は沢山の人で賑っていた。
俺がコーラを口に運びつつ、ゲームセンターの自動ドアを潜った、その時だった。
ドン!! っと、何者かに横から体当たりをされた。
まるでスローモーションのように、ゆっくり体が地面に吸い込まれていく。
アドレナリンが分泌されるとは、こう言う事か……。
そのスローモー空間の中、俺の視界の中心で、ジュース缶が黒い液体を漏らしながら、ゆっくりと落下していく。
そして……。
ビシャァ!!
っとコーラが地面にぶちまけられた。
俺はというと、それからワンテンポ遅れて、コーラの水たまりに胸から真っ逆さま。
だが俺とて、ただで修行している訳じゃない!!
「ほ!!!!!」
俺は両腕に全神経を集中し、コーラの水たまりの両サイドに手を突いて、地面ぎりぎりのところで体を制止させた。
だが、落下の加速度が、両腕を圧迫する。
少しでも気を抜いたら、胸元がコーラでびしょびしょだ。
まあだが、このままなら体勢を立て直せるだろう。
俺は両腕に力を加え、腕立て伏せの要領で体を持ち上げようとした。
刹那、背中を押し潰す謎の柔らかい衝撃が、俺の両腕の柱を破壊した。
「ぐぇ!?」
無惨にも、俺は胸からコーラの池に突っ込む形になってしまった。
背中に乗った謎の物体が、コロコロと転がって、俺の顔の前にポトリと落ちる。
その正体は、先程イブキにプレゼントしたハムスターのぬいぐるみ。
それは、まるで俺をあざ笑うかのような笑顔を浮かべていた。
……な、なんでこいつが……!?
「だ、旦那様!?
大丈夫ですか!?」
イブキがすぐさま駆け寄ってくる。
彼女は自分の服が濡れることも厭わず、俺を抱き起した。
「す、すみません。
驚いてぬいぐるみを手放してしまったばっかりに……」
「い、いや。お前の所為じゃないさ」
親の意見と茄子の花は千に一つも無駄はない……とまでは行かないが、やはりライムの言う通り、行儀の悪いことはしない方がいいということだろう。
ライムは、俺に衝突した「何か」の方へ駆け寄っていった。
その何かの正体は、一人の若い女性。20歳前後だろうか?
俺にぶつかった反動で、転んでしまっている様子だ。
あの人には、悪いことをしちまった。
被害的には俺の方が大きいが、やはり謝らないと、なんて思った時、俺はその女性の異変に気が付いた。
尻餅を突いてもなお、地面を這いながら前進しようとしているのだ。
恐怖に塗りつぶされている表情、全身から滝のように流れている汗、絶え絶えになっている息……。
まるで、何かから逃げようとしているような……。
「だ、大丈夫ですか!?
もしかして、変なところを打ったとか……!?」
ライムは、その女性に手を伸ばしながらも、どうしたらいいのかわからない様子。
確かに、見るからに正気を失っている女性相手に掛ける言葉なんて、俺だって浮かばない。
俺に駆け寄ってきたイブキも、その女性に視線が釘付けになっていた。
あの人の様子、見るからにおかしい。
……何か嫌な予感がする。
なんて思った、その時――。
「魔物が――!!!!
お、大きな蜘蛛が、そこに……! そこに……!!!???」
街の中に魔物……?
まさか、魔人か!?
ライムは俺の方を向くと、コクリと頷く。
俺は、あいつが言おうとしていることを察し、ポケットから携帯電話を取り出した。
「落ち着いてください。
いま、警備隊に連絡しますので」
そう言って、女性を宥めるライム。
俺はおっさんへの電話番号を入力しながら、イブキに目をやった。
「イブキはライムを手伝ってやってくれ。
頼めるか?」
「……はい! 任せてください!!」
いつの間にやら俺達は、道を歩く人々の視線を一挙に集めていた。
当然と言えば当然だが……。
こんな状況じゃ、メイル装着なんかできない。
まあとにかく、おっさんに連絡だ。
もしこんな大都会で魔人が現れたとなったら、それこそもう隠しようはない。
携帯を耳に当て、コール音が途切れるのを待つ。
出来る事なら早く出てくれよ……。
目立つのは嫌いじゃないが、悪目立ちは嫌だからな。
コール音が6回目のループに入った瞬間、ぷちっと言う音がしてから、聞き慣れたおっさんの声が電話から鳴った。
「ボウズか?
どうした?」
俺は口元を隠しつつ、なるべく声を小さくして、携帯に囁く。
「おっさん、一大事だ。
セントラルで魔物を目撃したって人が出た。
酷く錯乱してる」
……受話器の向こうのおっさんは、声を詰まらせているようだ。
そんなおっさんは、一度咳払いをしてから、ゆっくりと話し始めた。
「……今どこにいる?
周りの状況を教えてくれ」
「本部から一番近いゲーセンだ。
目撃者はライムとイブキが相手してくれている。
……人が多い、俺達は悪目立ちしてる。
こんな状況じゃメイルは使えない」
携帯電覇から、小さな舌打ちが聞こえた。
恐らく、そう訪れることはないであろう最悪の状況だ。
舌打ちしたくもなるだろう。
「……わかった。
車を2台向かわせる。
お前等は連行される演技でもして、こっちに戻ってくれ」
俺は、相槌を打ってから電話を切った。
それから、ライムとルイスに、おっさんの指示を耳打ちした。
だが、こうしている間にも、俺達は周りの視線を一つまた一つと集めてしまっている。
できれば、もっといい目立ち方をしたかったよ。
「だ、大丈夫ですか!?」
なんて言いながら、気の良さそうな青年が一人、俺達に歩み寄ってきた。
……出来れば邪魔をしてほしくないが、来てしまったからには、女性の面倒を押し付けよう。
触った神に、祟りありってか?
それからしばらくして到着した2台の警備隊車両。
頭を突っ込んできた男性と、俺にぶつかった女性はそのうち片方に。
ライムとイブキと俺は、もう一台の車に乗り込むこととなった。
……都会に現れた魔人。
あの女性の妄言であればいいのだが……。
俺は、車の中から、遠ざかっていくゲーセンを眺めていた。
対向車線からこちらに向かってきた警備隊車両が、俺達の乗る車とすれ違う。
恐らく、魔人に対処するために手配された隊員達であろう。
その後、俺達を乗せた車が、警備隊本部に到着するのとほぼ同時、魔物の侵入を告げる耳触りの悪いサイレンが、街中に響き渡った。




