心漏れ日
四角い窓が太陽の金色を切りとって、床に張りつけている。
わたしは滑らかな石の床にうずくまったまま、少しだけまぶたを上げてそれを見ていた。
今までに見た何よりも、美しい、と思う。
窓から射す光は、その内側に青藍石や金剛石、紅玉を秘めていて、それらの宝石がぶつかり合う度に眩い輝きがチラチラと燃え、金の火になって床まで流れているのだった。それは薄暗い空間全体を震わせて、うっすらと照らし出す。
あの陽だまりの内側は、どれほど暖かいだろう。その光に目を奪われれば奪われるほど、わたしを包む闇は一層濃くなるようだった。その冷たさに身震いする。ずっとずっとむかし、この場所の双子の弟として生まれた暗闇だ。
少し身体を動かしただけで、足首をつかむ足枷と壁の間の鎖がうめき声をあげた。
この場所の名前は牢獄。罪と人を閉じ込める、黒だ。
磨かれた石の床は砂を帯び、ざらざらとわたしの肌に食いついて体温を削っていく。時間の感覚はない。窓から射す光ははじめて見る気もするし、何百回と目にしたようにも感じる。
ここには誰も来ない。
水も、食べ物も、来ない。
口に広がる砂漠の味と喉の痛み。埃の香りだけを嗅ぎ続けて、鼻は随分前からサボることを決めたみたいだった。身体は擦り傷にまみれていて、特に右腕に無造作に巻かれた布は真っ赤に染まって錆臭い。
それでも、特に何かを思うことは無かった。
心は、わたしの内側に転がっている。身を守ろうとして縮こまって、それでも見つかって、鈍感を決めこんでもやっぱり刃は深く刺さる。
心は、一度も「痛い」と言わずに息絶えていた。
泣かないと誓ったのはいつだったっけ。
霞んで霞んで分からない。
瞳の上を漂っていた光がふやけて金の野原みたくなる。「美しい」という感覚は空っぽのわたしの中で、止まり木を見つけられない蝶のように舞っていた。
泡が弾けて、痛みや飢えが本当にいなくなると、そこにいるのは記憶だった。
わたしは抗うでもなく、急かすでもなく、金色の中にたゆたうことにした。心の亡骸は浮き袋みたいに、わたしを導いた。
やはりそれは、射し込む光から始まった。
*****
「……ふぅ」
セラは本から顔を上げて、そうして初めて窓からこぼれる朝に気がついた。蝋燭の小さな火を消す。
部屋の隅で小さくなっていたせいで痛む身体を伸ばして立ち上がると、ずっしりとした本を抱える。革表紙の彫刻と、薄くて丈夫な高級皮紙を見るだけで、その本の信じられないような値段をぼんやりと想像できた。
レインアーツ卿の屋敷にはそんな本も珍しくない。だからこそ忘れられた本たちは、下女であるセラにでもこうしてこっそりと読めるのだ。
窓の外に顔だけ出したセラは、大きく息を吸いこんだ。季節はまだ〈嶺の夏〉のはじめ。まだまだ冷たい朝の空気はセラの肺へと勢いよく飛び込み、身体中の血の道に風が染み渡っていく。
あまりの心地良さに、セラは忍び笑いをする時のように震えた。
太陽は屋敷を囲む塀からすでに身を離し、纏う雲は金と銀の炎さながら。七色の光は夜を滅ぼして、眩しそうに細めるセラの瞳がその内側で雷を数度瞬かせた。
セラは、ほぅと息を吐き出して太陽に背を向けた。そうして書庫に散らばった様々なものーー積まれた本、羊皮紙の束、香にペンにインクに蝋燭。文字でびっしりと覆われた石版や用途の分からない紫水晶まで転がっているーーをつま先歩きで避けながら、唯一整理された本棚の元へ辿り着く。
抱えていた本を戻すと、本棚は完璧な姿を取り戻した。
それから革と古い紙の匂いをひと嗅ぎして、セラは書庫を後にする。
西に面した廊下は暗くて長い。だから早足。階段を下って外に出る。レインアーツ卿の屋敷は本館と、七つの別棟から成っている。セラの居た書庫は、みんなが旧倉庫と呼ぶ別棟にある。
カビと埃と腐った木の香りがするし、いくつかの窓が壊れているせいで雨水が入り込む。さらにはキノコや苔が主を務めているとなれば、近寄る者は居なかった。
だからこそ、セラはその場所を気に入っていた。自ら選んだ孤独は、ただひっそりとセラを見守ってくれたから。
丘を駆け昇る途中、シャドウホープの青い花が咲いていたのを見つける。小さな花弁の群れが、朝を迎えて穏やかな表情だ。セラは「どうする?」と僅かに心を巡らせる。
それからそっとしゃがみ込んだ。
「少しだけ、もらうね」
セラはそう言ってシャドウホープを五つ六つと手折った。
喜んでもらえるかなぁと、セラは不安げな影を顔に潜める。思い出しているのは、以前侍女のブレアナが摘んできたペトリの花。大きな黄金の花束は、使用人たちの間でとても歓迎されたのだ。
もし、誰かがこの青い小さな花に微笑んでくれたなら、それはセラへ向けられたのと同じことだ。
セラは、心の放つ熱に触れてみたかった。
それは「ありがとう」という言葉であり、浮かぶ微笑みであり、繋いだ手の温かさでもあった。長い間、日陰からそっと見ていた陽だまりだった。
どうしても望んでしまうことを止められなかった。
だから、仕事仲間たちがシャドウホープを靴裏で粉々に砕いたその瞬間、幾度となく繰り返してきた痛みはやはり心を襲った。
「こんな汚ったない花、よくもまぁ持ってこれたね」
灰色の髪のシャンディが、哄笑する。部屋に嘲りと微かな笑いが満ち満ちていく。セラは床に視線を突き刺したまま顔を上げない。セラの赤い瞳を、人々は「呪われているのだ」とよく口にした。セラの視界に入りたがらない人は多い。
誰かの不興を買わないように下げられた目線には、シャドウホープの壊れた姿がよく見えた。
俯いて反応らしい反応をしないセラに、下女の面々はつまらなさそうに午後の猫の目をすると、使用人に与えられた大部屋からぞろぞろと出ていった。暇ではない。
一人残されたセラは、ぐちゃぐちゃになった青い花をそっと拾い上げた。零れた花びらも、一つ一つ。
「ごめんね」
本当は、こっそりと部屋の隅に置いておくつもりだったのだ。誰かが静かに気付いてくれれば、それだけで良かったのに。瓶に水を入れているところを見つかってしまった。
「ごめん」
シャドウホープの花はけして汚い花ではない。自分が、穢してしまった。セラは唇をきつく食んだ。
突然、身体の全てが、骨が、肉が、鷲掴みにされるような衝動を覚えた。心が津波を呼んでいる。涙がくる。服の裾を強く握りしめたせいで手の平が青白くなっているのにも気付かない。
嫌だ。涙を流したくない。
セラは自分の一番深いところで、今まで涙を閉じ込めていたものを探る。それはどうやら、青い花弁に切り裂かれてしまっているようだった。奮い起こし、涙を捕まえに行く。しかしそのためには、セラはもう一度鮮やかに思い出さなければならなかった。
一番古い涙と、赤黒い傷。「泣かない」という誓いのことを。
それはまだ、セラが母を失ったばかりの頃のこと。今まで母が食い止めていた暴力に、打ちのめされる日々を送っていた。その日も鶏の血で汚された前掛けを洗っていた時だった。
突然現れた厩の番であるマルスが「なぁ、悪魔の涙って、本当に赤いのか」と言って、セラの背を思いきり殴った。
呆然としているセラを、男は嬉嬉としてもう一度、さらにもう一度と拳を重ねた。抵抗しようとしてもがいても、ほとんど意味はなかった。蹴倒され、踏み潰され、叩きつけられ、転がされた。
どこがどう痛めつけられているのかすら分からなかった。鼻の中に血の匂いがどっと溢れ、頭の中で何度も大勢の鳥が飛んだ。鴉だった。意識が黒くなって、鳴き喚く声で気持ちが悪くなる。
腹を蹴られたセラの身体が、くの字に折れる。
しかし血の匂いのする嵐は突然止んだ。倒れ伏したまま、セラは少しだけマルスを見た。
夕焼けを背負って立つ男は、黒々とした巨大な闇に見えた。それはセラの短い金色の髪を掴んで持ち上げた。
「んー、なかなか泣かねぇな」
面倒くさそうに頭を掻いたマルスは、セラが首飾りをぎゅっと握りしめているのに気が付いた。「お母さん、お母さん」と、奥歯を恐怖で鳴らしながら耐えている。
「何だ、それ」
マルスが手を伸ばすと、セラはその時だけは炎のような抵抗を見せた。
大事な物なら都合が良い。マルスは舌を唇に這わせてニヤリと笑みをつくった。首飾りを強引に奪おうと決める。
セラは残った力を総動員して、抗う。細い腕と、噛み締めた歯の間で必死の心が火花を散らした。それでも呆気なく奪われる。残酷なほど濃い無力感。「やめて」と口にするほど、長い時間はかからなかった。
繊細なガラス細工は、小さな悲鳴をあげて死んだ。
セラを見て、マルスが嬉しそうに笑った。
「ほら、やっぱりフツーじゃん」
セラの赤い瞳を、みんなが悪魔だと罵っていることは知っていた。赤い瞳から流れる涙は血の色だと噂しているのも知っていた。興味本位で「泣いてみろよ」と言う人もいた。
でも、これはちょっと酷すぎた。
「涙の色で賭けをしたんだ」とマルスが笑う。
「ちゃんと透明の方に賭けといてやったぜ」と。
泣かない、と決めたのはその日だ。
涙の滴の内側には、想いが詰まっている。「助けて」という言葉よりも強く、「痛いよ」という言葉よりも強く、涙は饒舌に流れる。
その涙を笑われてしまったら、どうすれば良いのか。
セラには分からなかった。
救いを求める言葉や涙は、セラに本当の孤独を突きつけた。誰も助けには来ないのだということを、何よりも残酷に知らしめた。
だから、セラは泣かないと誓った。
誰も助けてくれないのは、まだ「助けて」と言っていないからだと言い訳するために。
青い花弁を、夕陽が灼き尽くした。
瞳を開ければ、使用人たちのためにあてがわれた別棟の一室。灰色の絨毯とタペストリーのせいで、色を奪われたかのような女の下働きの身支度部屋。
シャドウホープを前掛けのポケットに入れ、セラは立ち上がった。強く握りしめていた指先に血が戻ってきて熱くなる。呼吸を繰り返すと、心も身体も気休め程度に楽になった。
仕事には大遅刻だ。下働きのまとめ役のセレナディアには叱られて、恐らく鞭もあるだろう。青白い瞳と鞭のざらついた表面を想像すると、背骨を蛇が上っていった。
どうせ罰を食らうなら厨房に寄っていこう。セラは少しだけ、自身でも気付かぬほど小さく顔をほころばせた。
朝食の支度を終えて、厨房は穏やかな雰囲気に包まれているに違いない。ラクトスに会って、ちょびっとだけ話ができるだろう。彼はセラの声に耳を傾け、微笑んでくれるただ一人の人物だった。そのラクトスには病弱な妹がいて、彼女は客間で療養している。そのためにラクトスは厨房でタダ働きをしているのだった。
セラはどうすればラクトスの控えめな笑顔を引き出せるかを考えていた。以前会ったとき、セラは「わたしなんて居ない方が良い」と呟いて、彼を怒らせてしまった。嬉しかった。だからこそ、どんな風に声をかけるかドキドキと胸が弾ける。
シャドウホープの話をしよう、とセラは決める。青い小さな花で彩られた丘と朝の光は、ふたりの間に柔らかく橋をかけてくれる気がした。
深紅の夕陽に焦がされて干上がった心が、ラクトスの瑞々しい優しさに触れたがっていて、セラも逆らわなかった。
けれど厨房に向かったことを少し後悔したのは、料理長の怒鳴り声が響くのを聞いた時だった。前菜係のまとめ役が、オロオロと受け答えをしている。
「厨房で働いてる奴が怪しいに決まってんだろが!!」
「いや、でも、夜の間なら誰でもできますで」
「じゃあ、誰だ!」
「いや、それはあっしにも分からんで」
何があったのだろうか。不思議と引き返そうとは思わなかった。セラは厨房の入口からそっと中をのぞきこんだ。
先程から怒鳴り散らしている禿頭の料理長は、顔を真っ赤にして厨房の使用人たちの真ん中で立ち尽くしていた。その中にラクトスも確かにいるのを、セラは見た。すると不意に、彼の目が動いてセラの視線と交差する。
ラクトスの黒い目には、不安と恐怖が壊れた傀儡のようにのたくっていた。それは他の使用人たちの困惑や激する料理長への畏怖とは異なる、もっとずっと悪いものだった。
ラクトスは何か良からぬことをしたのだ。ただそこに居るという理由でその影を背負い続けるセラには、すぐに分かった。
厨房で繰り広げられている会話を聞くに、まだラクトスがやったとはバレていないようだった。ラクトスの視線が外れて、やっとセラは己の心臓がうるさいことに気づく。
このまま黙っていればいい。何をしたのかは分からないけれど、ラクトスが罰を受ける、ましてやこの場所から立ち去らねばならなくなったら、と考えるだけで、身体が鉛に変わっていくようだった。
「あの」
しかしセラの願い虚しく、厨房の喧騒の中に言葉が始まった。
あらゆる視線がラクトスに突き刺さった。それを見返すのは、どこか決意めいた揺らぎを帯びる瞳。
「僕はいつも、就寝の時間をすぎた後に厨房で料理を練習しているのですが、」
それを許可したのだろう料理長がうなづく。
「その時に、人影を見たんです」
「……そいつが蝶の塵を盗み出したって言いてぇんだな」
こくんとうなづくラクトスに、セラは違和感を覚える。ラクトスがやったのでないなら、なぜあんなに怯える必要があったのだろう。しかし首をかしげる己に反して、安堵するセラもいた。もしもラクトスが蝶の塵を盗んだとしたら、悪戯で済む話ではない。恐らくレインアーツ卿の独房にまっしぐらだ。蝶の塵はスプーン二杯分で、セラの最近の楽しみである冒険譚に匹敵する価値の調味料だからだ。
「で、そいつが誰かは分からねぇのか」
「いえ、はっきり見ました」
蝶の塵を盗もうと考えるなんて、一体誰なのか。ひとつまみの量で寿命を一年伸ばせると噂されるほど体に良い代物だが、恐ろしく不味いらしいし、盗んだあとのことを考えればあまり賢い行動には思えない。取り扱っているのも限られた商人だけで、転売も難しい。
書庫にあった本にはそういった知識も豊富にあった。
ハラハラと見守っていたセラの耳に、それは存外優しく、触れた。
「セラです。赤い目の悪魔」
厨房を包む一瞬の沈黙と急激に膨れていく怒り。それをたっぷりと見届けるまで、セラはラクトスの言葉を咀嚼していた。それからヒュゥッという呼気が、意図せず震える喉を貫いた。
最初にこちらを見たのはラクトスだった。それに率いられるように、みんながセラへと目を向けた。
確信。オマエガヤッタンダ。
刹那、セラは駆け出していた。「追っかけろ!」という怒号が聞こえる。
真っ直ぐの廊下で粗末な靴が足から吹っ飛んでいった。振り返らない。いくつかある出入口の一つから転がるように外に出る。裏庭。日当たりの良い静かな空間をぐるぐる見回す。すぐに背後から声、声、声。
どこかここではない場所へ。セラはぜぇぜぇと喘ぐ。足の裏を鋭い小石がずたずたにしたり、柔らかい草が慰めたりした。どうでもいい。走れ。
そうしてようやく立ち止まったのは、旧倉庫の寂れた姿の前だった。
肺が焦げているみたいだ。喉も灼熱。ふらふらと書庫へ向かう。そして乱雑に散らばった沢山の物に同化するように倒れ込む。
しかし落ち着いてくると、今度は先ほどの出来事が勝手に頭の中に入り込んでくる。歯を食いしばらなければ、どうにかなってしまいそうだった。
ラクトスは、セラを実際に罵る人々よりもずっと、セラがどれほど憎まれているかを知っていた。目が赤いだけで、どんな風に人々が考えるのか知っていた。セラが喋り、ラクトスがそれに寄り添ったのだから。
知っていて、それを利用した。
ラクトスが口にしたのがもしセラ以外の人物だったら、周りの人々も少しは疑問を抱いたかもしれない。でも、セラは駄目だ。
酷い、とは思わなかった。信じていた自分自身に腹が立っただけだった。
窓から太陽が見下ろしていた。ひどく「美しい」と思った。
*****
朦朧とした意識の粒が、螺旋を描いてひとつになる。そんな感覚とともに、わたしは目を開いた。牢獄は暗い。
四角い窓が切り取る空は赤く染まっていた。
どうしてだろう。感覚が研ぎ澄まされて、呼吸の音がやけにはっきり聞こえる。記憶もまたはっきりとしていた。
あの後、書庫には彼がやって来たのだった。わたしの隠れ家を、彼には教えていた。彼は部屋の暗がりの中に立ち止まって、申し訳なさそうに顔を歪めていた。けれど、残酷な光は隠しきれていなかった。
どうして、なんて聞いていないのに、彼は話し始めた。彼が罪悪感を捨てたがっていることに気付いたから、わたしは黙っていた。
「妹のために必要だったんだ」
とても多くを語っていたけれど、結局はこの一言で終わる物語だった。彼は最後にこう付け加えた。
「僕は捕まるわけにはいかないんだ。僕は必要とされてるから。でも、君はそうじゃないだろう」
彼はわたしのSOSを、そんなふうに受け止めていたんだ。「あなたはわたしを必要としてくれないのですか」という言葉は、口の中で飴玉のように転がった。あまりに酷い味だったので、慌てて飲み込む。
そうして、わたしは泥棒として、この牢獄へやって来たのだった。
この場所でじっとしていると、「必要とされない」という言葉の意味がよく分かる。瞼の裏の薄闇には途切れることなく、わたしのいなくなった世界といなかった世界が舞っている。さながら蝶のように。
それはわたしの描いた絵だったけれど、あながち間違っているようにも思えなかった。
そこでは兄妹が仲良く微笑みあっている。燭台の仄めく光のその隅で、混じりけのない温もりを分かちあっている。食べかけの林檎と読みかけの本が寝台に乗っている。蝋燭の光で作られた影ですら、ただ温かい。
そこでは使用人たちが談笑している。いつもバカをやらかしておどけるマルスが椅子からひっくり返る。下女長の鋭い瞳が少しだけ柔らかくなる。料理長がいい匂いのするクッキーをたくさん持って入ってくる。広がる歓声、幸せの音。
そこでは一人の女が歌っている。ふと、振り返る。すると一人の少女が女の足に抱きつく。頬を淡く染めて上目遣いをした少女の目が赤く光る。女は悲しそうに笑う。女の首に縄が巻き付いてーー
違う。
少女の目は青かった。女はただ顔に優しさだけを浮かべて娘の頭を撫でている。ほかほかとした雲が空を舞う。
そこでは、そこでは、そこではーー、、、。
一つの場面が消え、また浮かび上がってくるたびに、わたしは「良かったなぁ」と思った。わたしがどうしても欲しかったものは、わたしがいなくなって初めて手に出来るなんて思ってもみなかった。
わたしが消えれば、みんなが幸せになる。
わたしが生まれなければ、みんなが幸せだった。
そう思った時、わたしの中で夕陽が消えた。
抗おうと思うほど、それは激しくなかった。目を背けようと思うほど、それは汚くなかった。
孤独の内側で、わたしはただ泣きじゃくった。
*****
「望まない」ということを、望んでいる。