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はかない宴  作者: 安野穏
9/21

チェシャの故郷

 話は前後するが、チェシャに連れられてカルトーランの街を出たソフィアは、カスパの港から出た船に乗り海の上にいた。どこに行くのかも知らされていないが、なぜかチェシャのことは信じられたので、黙ってついていくことにしたのだ。


 つわりがきつい上に船酔いもあり、ソフィアは顔面蒼白になっていた。「船室にいるよりは外の風に当たっていた方がいい」と言うチェシャの進めで甲板にいるのだが、気分は一向に良くならなかった。潮の香さえも鼻につくのだから、余程なのだろう。吐くものは全て、吐きだしているので、グエグエと言う蛙に似た声ばかりが喉から出てくる。チェシャがずっとつきっきりで、背中を撫で擦ってくれていることだけが気持ちの上で微かな救いになっている。


-ドン!ガクン!


 船が突然に何かにぶつかったように止まった。ソフィアはお腹を庇うようにして、咄嗟にチェシャにしがみついた。チェシャは壊れ物でも扱うみたいに、大事そうにソフィアを受け止めた。


 甲板が騒がしくなり、「海賊だ」という声と共に面構えが恐ろしく、体格のいい男たちが左舷から船に乗りこんできた。アーリアン帝国の南部にあるカスパの港と東部にあるデルカの港を結ぶ定期便には、客質も農家の者や一般庶民が多いので身代金など出せる相手ではなく、商船と違って運ぶ荷物は大した価値もない生活用品で取られるものは何もないのだが、乗りこんできた海賊たちは円月刀を手に怯える乗組員や乗客たちを甲板に集めた。


「おまえらの中に医者はいるか?医者がいれば、他の奴らは無事に帰してやる」


 円月刀をこれみよがしに見せながら、恐面の男がドスのきいた声で尋ねた。周りを見回しても、農閑期に楽しみの旅行に出た農家のおかみさんらしい一行と親子連れしかいない。医者らしい男など、どうひいき目に見てもいるように見えなかった。


「私は医者ではありませんが、医学の心得はあります」


 ソフィアの身体をいたわりながら、ついとチェシャが前に進み出た。男の目がギランと輝いた。円月刀をチェシャに突きつけると、顎でしゃくるように左舷につけた船へ移れと合図した。


「妻が身重なので、このままここへ残してはいけません。一緒でもよろしいですか?」


 男たちがジロリとソフィアを値踏みするように見つめた。


「あんた、ダメだよ。無事に帰れるかどうかもわからないっていうのに………」


「そうだよ。身重の奥さんなら尚更だよ」


「あたしたちが面倒みててあげるから………」


 人の良さそうな農家のおかみさんたちが恐さを忘れて、夢中で声をかけてきた。海賊たちが鋭い眼光でおかみさん連中を一瞥した途端、皆一様に口をつぐんだ。ソフィアは優雅に笑みを浮かべながら、軽く会釈した。


「ありがとうございます。でも、わたくしは主人と共にまいります」


 チェシャが先に立ち、ソフィアの手を掴んで海賊船に降ろした。二人が海賊船に乗り移ったのを確認するとさっと引き上げた。


「あの夫婦のお陰で、命だけでも助かったことを感謝するんだな」


 熟練した手でパアッと風にはためくような帆を一杯に張ると、海賊船は急速に定期便から離れた。




「ちょろい、ちょろい」


 男たちは陽気に燥いだ。全てはあらかじめ打ち合せした通りにうまくいったからだ。あとから追跡してくる船はいない。海賊船は岬を大きく迂回し、あちらこちらに乱雑に岩が浮き出た海をうまく擦り抜けた。陸と海が複雑に入り組んだ入り江に入りこむと、遠くに港が見えた。海賊船は帆を下ろすと、港に停泊した。


「………トシャーラ、トシャーラ!」


 港についた船からチェシャたちが降りると、チェシャの本名を大声で呼びながら走ってくる少女がいた。金茶色の髪に藤色の瞳を持つ少女は、坂道から転がるように駆け降りてきて、チャシャの胸に飛びこむようにガバッとしがみついた。男たちがニヤニヤと笑いながら、二人を見つめている。


「会いたかったよぉ。トシャーラは冷たいんだから。あたしがこんなに待ってるの知ってるくせに、なかなか会いに来てくれないんだ。あたしはもうトシャーラの子供も産めるようになったんだぞぉ」


「キャラ様、一年振りですね。元気そうで何よりです。ただし、前にも言いましたが、私はキャラ様を殿下の妹君であるとしか思っておりません」


 キャラと呼ばれた少女の顔が、年相応の子供の様に頬をふくらませた。キャラはフォーサスの妹で、わけがあってここで暮らしているのだと、チェシャがソフィアの耳元で補足するようにささやいた。チェシャの隣にいるソフィアを三白眼でにらむと、キッとした顔になってキャラはチェシャの頬をパシンと叩いた。


「あたしよりもこんな女がいいのか?」


「はい、そうです。キャラ様には申し訳ないのですが、ソフィア様は大切なお方です」


「トシャーラのバカヤロウ!」


 バシンと辺りに響きわたるような音で、もう一度、チェシャの頬を叩くとキャラは突風にように駆け去っていった。瞬く間に通り過ぎた嵐のような少女にソフィアは目を丸くしていた。


「よろしいのですか?」


 叩かれた頬を撫でているチェシャに、ソフィアが静かな声で尋ねた。チェシャは「いいんです」と抑揚のない声で答え、待っていた男たちに目で合図を送り、ソフィアの身体を支えるように坂道を歩きだした。




 定期便に乗る前にソフィアがチェシャから受けた説明によると、ここはフォーサスの支配下にある水軍の本拠地だということだった。水軍の大半は海賊たちで、五年前にフォーサスに破れ、配下として従うようになったそうだ。この本拠地は隠し砦になっているので、直接行くには、険しい山を越える以外に方法はない。普通の男でもきつい山越えは、身重のソフィアには当然無理だ。チェシャは鳩を使った独自の連絡方法で水軍と連絡を取り、海賊という手荒な手段で迎えに来てもらったのだ。チェシャの本名であるトシャーラという名前も、ついでにソフィアに教えた。ここでは偽名のチェシャでなく、本名のトシャーラという名で呼ばれているからだ。


「わたくしもトシャーラと呼んだ方がよろしいのですか?」


 不安げにソフィアは元に戻した紫の瞳を瞬かせた。


「どちらでもお好きな名前で結構ですよ」


 商人風の格好をしたチェシャは、ショールをソフィアの肩にかけながら、微笑んで答えた。チェシャの答えに、ソフィアはホッと胸を撫で下ろして安堵の吐息を洩らした。チェシャをトシャーラという男の名前で呼ぶことには抵抗があった。ソフィアの中ではまだチェシャは女でいてほしかった。男の名を呼ぶことは、チェシャを男として意識することになる。ソフィアがチェシャを男と認めてしまったら、二人の関係がもろく崩れそうな気がして恐かった。


 案内された坂の上の館は、この水軍の前の長でもある長老が住んでいた。ここに来たのは、「長のトルカは仕事で留守にしているので、先に長老に挨拶を」とチェシャに言われたからだ。長老の部屋は華美な装飾品は一切なく、いろりを囲んで敷物が幾つか並べられていた。二人を案内した男が部屋から出て行くと、室内は三人だけになり、長老は敷物の上であぐらをかき、年に似合わない鋭い双眸をソフィアに向けた。銀髪と顎の髭も威風堂々とした風格を示すのに一役買っていた。威圧的な態度に、ソフィアは怯みがちになるが、クイッと顔を上げて、真っ直ぐに長老を見つめた。


「さすがは、神聖ルアニス帝国のソフィア皇女ですな。凛としていらっしゃる」


 長老の蒼い瞳が和んだ光を放った。


「キャラ様をお預けしたままで、更にお手数をかけて、申し訳ございませんが、ソフィア様の御子様が、無事産れるまでは、ここでお世話になります」


 チェシャは礼儀をつくすように、長老の前でひざまづいていた。長老が目を細めた。


「トシャーラ、私の前では堅苦しくするな。それにしても、おまえにも大分貫禄がついてきたようだな。トシェインは元気にしているのか?」


「はい、ありがとうございます」


 堅苦しくするなと言われても、チェシャは礼儀正しい態度を崩さなかった。実はこの二人は公には口にできないのだが、祖父と孫の関係にあたる。人間関係の狭い水軍の中でさえ公にしないので、若い者の中には知らない者もいる。昔からの掟で、長の家系に男子が誕生した場合は、里子に出す決まりになっていた。家督を継ぐのは長の血を引く女である。海賊という仕事がら、長は組織を力関係で押さえなければならない。次代の長には血筋よりも力の強い後継者が求められた。血の繋がる男子が、組織の中で一番強い者になるとは限らないからだ。組織内の無用な争いを避けるために、暗黙の内にでき上がった掟だった。それも、今では無いに等しい掟ではあるが、昔の話を蒸し返し、こんな小さな組織に派閥争いを持ち込まないためにも、それは公然の秘密として存在していた。


 チェシャは乳離れとなる一才までをここで暮らした。その後は出自を隠し、人を介して里親を得た。たまたま、チェシャの里親となった者が皇都に務める近衛騎士で、目端のきく賢い子供だったチェシャは上の者の目に留まり、フォーサスの遊び相手として皇太后に引き取られたのである。


 それがまたこの里を変えることになるとは当時は思いもよらぬことでもあった。



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