動き始めた時間
「もっと、本気で剣術を教えていただきたいのですが?」
ソフィアは真っ直ぐにフォーサスを見つめて頼んだ。昼間から長椅子に寝そべって、酒を飲んでいたフォーサスは、ソフィアの男の子のようないでたちを見て、最初は呆れたような顔をしたが、彼女の真剣な態度に考えこむように頭を撫でつけた。
「今までのやり方でも続けていけば、軽くあしらう程度はできるようになる。それ以上に何を望むというのだ?」
「生きたいからです。流れにただ流されて生きるのではなく、自分で地に足をつけて歩いて生きていきたいのです」
「剣術は所詮、人殺しの技だ。剣術を極めていけば、いずれはその手で、たくさんの命を奪うことになる。それでもよいのか?」
ソフィアは微笑んで、ゆっくりと頭を左右に振った。「なら、やめだ」フォーサスは言下に否定した。
「わたくしが剣術を極めたい理由は、人殺しの道具である剣を人を生かす剣に変えたいからです」
「バカなことを言う」
「できないことではないと思うのです。今の争いはたくさんの人を傷つけ殺します。それは剣の使い方を誤っているからです」
「誤ってるだと?」
「ええ、ですから、剣術を極めたいのです。まだ、自分の求めるものがどのようなものになるのか、はっきりした形が見えておりません。物事は事実を深く掘り下げていけば真実が見えてまいります。今の剣術の教わり方よりも、もっと深く真髄を極めるような気持ちでがんばりたいのです」
フォーサスがフッと笑みを洩らした。手にした琥珀色の液体の入ったグラスを一気にあおると、グラスに新たに液体を注ぎこんで、ソフィアの前に差し出した。
「真面目だけが取柄では、その内に息が詰ってくる。自分で自分を追い詰めるのだ。一番、損な生き方だ」
「わたくしは別に損な生き方とは思いません」
差し出されたグラスを受け取るべきかどうか迷いながらも、男の言葉にだけはきっぱりと反論した。傍らのチェシャが何か思い出したようにクスッと苦笑してから、あわてて真顔に戻った。フォーサスがチェシャを軽くにらんだからだ。
「フン、勝手にすればいい。だが、俺は教えぬ。教わりたかったら、チェシャに習え」
フォーサスはいかにも不機嫌だと言わんばかりの態度で、ソフィアに差し出したグラスの中にある琥珀色の液体を自分の口に流しこんだ。
「殿下、よろしいのですか?」
ソフィアの拝み倒すような視線を感じて、チェシャが確認するように尋ねた。フォーサスは再びカラになったグラスを琥珀色の液体で満たしながら、手をひらひらと軽く振り、部屋から出て行けと示した。
「仕方ないわね」
居間を出てソフィアの部屋に入ると、チェシャは愛用の短剣を太ももにつけた短剣止めのガーターから出して、手首の内側に隠すように手にした。チェシャの蒼氷色の瞳が鋭利な刃物に似た煌めきを見せた。
「いつでもいいわ。かかってきなさい」
ニマッと妖しげな笑みを浮かべている。ソフィアは小剣を手にして、チェシャと対峙した。チェシャは顔に笑みを張り付けたままで、そばの椅子に座るとだらしなく足を組んだ。スカートのスリットから太ももが露になり、男を挑発するような態度を見せた。女のソフィアでも気はずかしくなるくらいだ。チェシャは自分の首筋に片手を這わせた。細くしなやかな指が妖しげな動きを見せて、次第に唇へと移った。ウフッとなまめかしい声を洩らした。ソフィアは見ているのも恥かしくて、視線をそらした。
シュッと風を切る音がした。いつのまにか、ソフィアの首筋にチェシャの短剣が突きつけられていた。強ばったソフィアが、短剣を避けようと頭を退けぞらせる。視線だけをチェシャに向けると、ソフィアの真下から短剣を突き刺すような格好でチェシャが笑っていた。
「チェシャなら、笑って人を殺す」
ソフィアの脳裏にフォーサスの言葉が蘇った。暗殺者?身体が無意識に戦慄した。
チェシャの手が容赦なくソフィアの小剣を持つ手を叩きのめした。ガランと大きな音を立てて、小剣が床に転がった。手の痛みがソフィアに自我を取り戻させた。
「わ、わたくし………」
「こういう戦い方もある」
チェシャの物言いは素っ気なかった。
長椅子にゆったりと腰掛けて、カーディスは優雅に読書にいそしんでいた。バタバタと誰かが慌ただしく駆ける足音が聞こえたかと思うと、それはこの部屋の前で止まり、バタンと館中に鳴響くかというような音と共に血相を変えた母親ジェリスが飛び込んできた。
「カーディス!のんきに本などを読んでいる場合ではありません!」
四十三才という年の割に、カーディスの母親は年齢よりもずっと若く見えた。長い黒髪を束ねてきちんと結い上げ、宝石で飾り立てたジェリスは、亡くなった皇妃に継ぐ貴妃という地位にいる。かつて亡くなった皇妃にまつわる種々の誹謗や流言が巷に飛び交ったというが、ジェリスがそうした姑息な手段に手を染めたことは誰に言われなくても息子である自分がよく知っていた。陰で何をしているかわからない母親をカーディスは子供頃から疎んできた。今では憎んでいると言ってもいいだろう。
「神聖ルアニス帝国のソフィア姫が、フォーサスの愛妾になったという話でしたら、既にラシェイルから聞いてますよ、母上」
本から目を離さないようにしながら、落ち着いた声でカーディスは言った。ソフィアのことは、一週間も前にフォーサスの側近のチェシャから内密に連絡をもらっていたのであるが、素知らぬ顔を続けていた。ラシェイルが腹立たしいのを抱えて、わざわざ伝えに来た時にも、同じように本から目を離さなかった。カーディスが既にフォーサス側についたという事実を知らない母親は、ドンと苛立たしげに床を踏みならした。
「どうして、そなたはそうなのですか?第二皇位継承者なのですよ。もっと覇気を見せなさい、覇気を!」
息子のそばにつかつかと歩み寄ると、本を取り上げ、バサッと床に投げ捨てた。我が母親ながら鬼のような形相だと、カーディスは肩を竦ませた。
「全く、この母がどんなに苦労をして、そなたをここまで育て上げたかわかっているのですか?それも、全てはそなたを皇帝につけるためなのですよ。今、不服ながらに賓妃の息子などと手を組んでいるのも、全ては邪魔な皇妃の息子を葬るためです。どこの馬の骨ともわからない皇妃の息子などが、皇帝の座に座るなど不遜もいいところです」
「母上、亡くなられた皇妃様は、元神聖ルアニス帝国の大公の孫娘。母上が何と仰られても、フォーサスが皇帝につくのが正道というものです」
母親をたしなめるつもりで口にしたのだが、それが返って火に油を注ぐ結果になった。後宮育ちの白皙の顔が、見る見る内に怒りで赤く染まっていったのだ。カーディスは、反射的に亀のように首を竦ませた。
「カーディス!そなたにはこの母の思いがわからぬというのですね。もうよい、そなたとはこれ以上話をするだけ無駄というものです。これだけは言っておきます。カーディス、そなたのためなら、この母はどんな苦労も厭いません」
部屋を出ていく母親の後ろ姿を見送ると、「この後に及んで、恩きせがましいことを言うな」と心の内で舌打ちをしながら、呆れたように吐息を洩らした。母親たちの本意は、かつて自分たちが有していた権力の座を取り戻すことにある。カーディスは自分がその捨て駒であることもよく知っていた。
「滅び去った過去を取り戻そうとするのは、愚かなことだ」
自分の母親という醜い生き物をさも小馬鹿にしたように呟いてから、クククと喉の奥で笑いをかみ締めた。
窓辺に持ってきたスツールに腰掛けて、ソフィアはフゥッと愁いを帯びた吐息を洩らした。息が白い影となり、闇の中に溶けこんだ。窓は一つだけ開け放たれて、部屋へ侵入した風の鋭い刃のような冷たさが肌を突き刺していく。人の思惑などいつも関係なしに、黄金色に彩られていた季節は確実に寂寥感を伴う季節へと移ろいつつある。
ソフィアは窓辺に頬杖をついた。両頬を手で包みこむような仕草は、年相応の少女らしさをみせた。藍染のカメを覗き込んだような空には、数多の星が煌めき、館を覆う木々の隙間からソフィアを冷やかに見下ろしている。
チェシャが教えてくれたのは、女であることを利用した戦い方である。ソフィアの希望する戦い方とは次元が違っていた。
「きれいな女を見ると、男が考えるのは一つしかないわ。もっとも、それが通用しない男もいるけどね」
チェシャが言う女の色気の通用しない男が、フォーサスであることは容易に伺えた。無類の女好きだという噂は、意図的に流布されたものらしい。もっとも、フォーサスが女好きというのは、嘘ではない。ただ、女とは遊ぶだけで、女に心を許すようなタイプではないのだ。それだけはソフィアが身に滲みてよくわかっている。そばにいつも妖艶なチェシャを侍らせたのも、わざと怠惰な暮らしを続けているのも、全ては邪魔なフォーサスを亡きものとしようとする姑息な兄たちから、自分の本質を隠すための隠れ蓑でしかない。
チェシャからフォーサスの真実の姿を知らされても、動じない自分に疑問がわいた。突き詰めて考えてみれば、心の奥底でソフィアはフォーサスの本質に気付いていたのだと理解した。ただ、認めたくなかったのだ。敵を討つという目的のためには、フォーサスは愚鈍で退廃した男でなければならなかった。
風が巻き起こしたわずかな髪の乱れを、ソフィアは無造作に撫でつけた。指に銀の糸のような髪が絡み付いた。自分の髪を見て、ソフィアはフゥッと物憂げにため息を吐いた。
ソフィアがフォーサスの許にいることは、既に周知の事実となっていた。フォーサスが先手を打って、わざと父である皇帝に告げたからだ。お陰でソフィアは黒く染めた髪を元の銀月色の髪に戻さざるを得なくなった。チェシャの選んだ身元の確かな侍女が幾人か雇われ、フォーサスの愛妾と認知されたソフィアの身の回りの世話などをしている。
警護の近衛騎士の数も増えた。ソフィアの居所がわかった途端に、互いに小競り合いを繰り返し、牽制し合っていた各国がアーリアン帝国を目指して、鎬を削り出したのだ。フォーサスのそばには、チェシャの代わりに大柄で屈強な男ササナリと長身痩躯で隙のない女顔の端正な男トシェインが付き従った。
チェシャはソフィアの教育係となり、堅苦しい行儀作法などに混じって、剣はもちろん身を守る各種の術を教え込んだ。
「これから先は、私や殿下が必ずそばにいられるとは限りません。ソフィア様自身で身を守ることも必要になります」
チェシャの言葉は深い意味を持っていた。言葉の持つ意味をソフィアは即座に悟った。今までの二人の言動や周りの警護の状況で、フォーサスが二人の異母兄たちに命を狙われているということは、説明を受けなくてもすぐにわかったからだ。当然、彼らはソフィアにも触手を伸ばしてくるだろう。
「情勢はどうなっているのですか?」
尋ねたソフィアへの答の代わりに、チェシャは自嘲めいた笑みを浮かべただけだった。
室内の澱んだ空気を、入り込んだ風が吹き飛ばしてくれた。ソフィアは窓を静かに閉ざした。スツールを元に戻して、羽織っていたガウンを脱いだ。ソフィアの薄い夜着を通過して、風の運んだ冷たい空気が素肌を突き刺した。
辺りを憚るかのように、ドアを軽くノックする音が聞こえた。既に部屋の灯りは消してあったが、薄闇に慣れた目でスッと滑らかに動いた。開けたドアの前にはフォーサスが立っていた。
「寝ていたわけではないのか?」
音をなるべく立てずに、室内に入ってきたフォーサスは、小声で尋ねてきた。ソフィアは無言で首肯した。夜になっての男の訪問は、ロスモールのことがあって以来、初めてのことだった。ソフィアを公に愛妾という立場に追い込みながら、フォーサスは急にソフィアの許を訪れなくなった。子供が目新しいおもちゃに飽きたようなものなのだろうと思い、ソフィアはホッと胸を撫で下ろしたのだが、一人で眠る夜を持て余す日もあった。
「抱いてもいいか?」
男の唐突な問いかけに、正直言ってソフィアは狼狽えた。今までのフォーサスが、ソフィアに対して、当然の権利のように行なってきた行為であり、ソフィアの意思など一度も尋ねたこともなく、幾度となく身勝手に繰り返してきた行為だ。しばらく、目を伏せた後、ソフィアはまた無言のままで頷いた。
フォーサスの腕に抱かれ、もつれあうようにベッドに押し倒された。彼の抱擁は思った以上に心地好く、ソフィアは吹き抜ける激しい嵐に身を任せていた。身体の内からわき上がる得体の知れない感情が一気に高ぶって、いつのまにか我を忘れていた。
気が付くとうつ伏せになって、彼の胸を枕代わりにしていた。男の鼓動が時間を告げる鐘の音のように規則正しく刻まれて、高ぶったソフィアの感情を元に戻していく。肩で大きく喘ぎながら、ソフィアは恥らいを取り戻した。フォーサスの温かい手が、ソフィアの背中を子供でもあやすみたいに、トントンとリズミカルに叩いていた。幼い頃に母親に抱かれて眠った夜が蘇ってきた。ハッとして、ソフィアは半身を起こし、フォーサスの抱擁から逃れた。あわてて、指先で目を擦り、毛布を抱きしめて、顔を横に向けた。
「明日、おまえを連れて皇都に戻る。先程、早馬が着いた。隣国のイマザシェンが国境を越えたらしい。国境に近いここが真っ先に狙われる」
ソフィアは目を凝らして、男を見つめた。薄闇の中でフォーサスは目を瞑り、身動き一つしなかった。
「これでもう、俺は暇じゃなくなるな」
しばしの沈黙の後で、彼の手がソフィアの腕を掴んだ。強い力でソフィアはフォーサスの腕の中に引き戻された。
「いつか、必ずおまえを自由にしてやる。だが、それまでは俺のそばにいろ。俺はこのチャイニェン大陸の新たな覇権を握る。それにはおまえが必要なのだ。俺には、おまえの望む穏やかな生活は与えてやれぬ………だが、これからはおまえ自身も争いの中心に巻き込まれていくだろう。強くなれ。俺の代わりを務められるほどに強い女になれ」
「わ、わたくしには無理です」
「大丈夫だ。おまえは俺に剣の使い方を間違えていると言ったではないか。人を生かす剣がどういう剣になるのか、俺には見当がつかぬ。だが、普通の女が考えないことをおまえは思いついた。皇都に戻れば、おまえをばあさんに預けようと思ってる。ばあさんなら、おまえの目指したい道を開いてくれる」
「ばあさんとはどなた様のことですか?」
「ああ、おまえは知らなかったのだな。俺の祖母だ。おまえとは遠い血筋で繋がっている」
フォーサスの祖母グレースは、アーリアン帝国の祖である初代皇帝が謀殺した大公の一人娘だ。父を殺した男の皇妃にされ、フォーサスの父である嫡子を一人産んだ後は、後宮の奥深くで時を刻むのを止めたようにひっそりと暮らしている。というのは建前で、事実は自分の手足となるたくさんの子飼いの者を育ててきた。一人息子が父と同じ権力を求める道を歩み始めた時に、袂を分かち今に致っているのだという。
「俺はばあさんに育てられた」
フォーサスの目が鋭く天井を睨みつけた。
「俺の母親は俺の命を狙う奴らのせいで、毒を飲まされ気がふれた。神経を冒す毒だっだ。おまえも後宮に住むことになるのだから、毒殺には気を付けろ」
「フォーサス様?」
ドンと勢いよくソフィアの身体が床に投げ出された。フォーサスがソフィアの身体を突き飛ばしたのだ。フォーサスは既に剣を手にして、構えていた。天井に潜んでた男たちが姿を次々に現した。飛んでくる短剣を剣でかわしながら、フォーサスはソフィアを庇った。
「チェシャ!」
フォーサスの怒鳴り声と共に、ソフィアの身体がフワンと持ち上げられた。チャシャがソフィアを抱き上げ、身軽にドアの方へと駆け出した。入れ違いに巨体のササナリと痩せたトシェインが室内に飛び込んだ。部屋から剣の激しくぶつかりあう音が聞こえる。
階下の安全な部屋へと逃げ延びると、チェシャが自分の服を脱いで、ソフィアの裸体を隠すようにかけてくれた。「えっ?」短い悲鳴がソフィアの口から洩れた。