ロスモールの真実
ソフィアが再び起き上がれるようになった時には、館内は何事もなかったかのように普段と同じ生活に戻っていた。
「お願いがございます。フォーサス様、ロスモールを解放していただくことはできませんか?」
心の内で幾度となく逡巡した後、ソフィアは思いきって、フォーサスの前で平伏して頼み込んだ。土下座である。いつにない謙虚な態度のソフィアに、フォーサスはつまらなさそうな顔を向けた。ソフィアの真摯な顔を横目でチラッと見てから、フンと鼻を鳴らすと、フォーサスは寝そべっていた長椅子の上でソフィアに背を向けるように気だるげに寝返りを打った。
「お願い致します。フォーサス様が望むことで、わたくしができることは何でも致します。その代わりに、ロスモールに自由を与えて下さい」
彼女の言葉にむくっとフォーサスが長椅子の上に起き上がった。彼の翡翠の瞳が悪戯っ子のように輝いている。
「何でもと言ったな。では、ロスモールを殺せ。殺せたら、彼に自由を与えよう。もっとも、その時にはロスモールは、とっくに自由になっているがな」
フォーサスがおかしくてたまらないと言いたげに、高らかに笑い出した。ソフィアの顔からスッと血の気が引いた。唇がワナワナと震えた。胸の中に燻っていた怒りがフツフツとわき上がってくる。無意識の内に、胸に下げたロケットを両手でギュッと掴んでいた。気持ちを落ち着けるようにきつく握りしめる。
「私にできることでしたらと言いました。ロスモールを殺すことなど、わたくしにはできません」
しばらく、自分の気持ちをなだめた後、声のトーンを低めて、ソフィアは言葉を絞り出した。「なら、駄目だ」男は言下に否定した。
ソフィアは伏せていた顔を上げて、フォーサスを直視した。紫水晶の瞳が、口惜しそうに彼をにらみつけた。
「悔しいか?悔しいなら、俺を殺せばいい!そうすれば、おまえの意のままになる」
フォーサスは長椅子の上であぐらをかくと、楽しそうな声でソフィアに告げた。ソフィアは唇をかみ締めて、ゆっくりと頭を振った。
「できません」
「なぜだ?俺を殺すことがおまえの望みではなかったのか?」
目の前に座る男の翡翠の瞳がキラリと光った。ソフィアはフォーサスから視線をそらして、肩で大きく深呼吸をした。
「わたくしが間違っていました」
再び、ソフィアは床に視線を向けた。
「人の命は一度失われてしまえば、もう二度と戻らないのです。それがどんなに徳をつんだ者でも、大逆罪を犯した者であってもです。例え、わたくしがフォーサス様を殺しても、わたくしの両親はこの世に生き返ることはありません。敵討ちなど愚かなことなのだと悟りました」
「では、おまえは俺を殺すことを止めると言うのだな?」
「はい、もしも、許されるのでしたら、ここへ来る前のようにロスモールと二人で生きていきたいのです。ロスモールはわたくしにとって、実の両親以上の存在なのだとようやく気付くことができました」
「前の暮らしに戻ることはもう無理だ」
長椅子の上から立ち上がると、フォーサスはチェシャに目くばせをした。チェシャがスッと部屋を出ていく。ソフィアは怪訝そうに首を傾げながら、フォーサスを見つめた。何かを問いたげな視線を感じて、フォーサスはソフィアに背を向けた。窓辺に歩み寄ると、窓から外を険しい目つきでにらみつけた。
「この前、兄たちの放った間者を一人取り逃がした。失態だった。まさか、警護の近衛騎士の中に兄たちと通じている者がいるとは夢にも思わなかった。俺の不徳のいたすところだ。今頃はおまえについての報告がされているだろう。俺のことは些細なことでも逐一調べ尽くす兄たちのことだ。おまえのことをどんなにごまかしてみても、おまえの素性はいずればれる」
ソフィアは床に座ったまま、無言でフォーサスを見つめていた。いつものフォーサスとは態度が違っていたからだ。それは奇妙な感覚だった。今までの彼と目の前にいる彼とがまるっきり別人に思える。
「ロスモールという男、神聖ルアニス帝国でおまえの父親の信頼を得ていただけのことはある。おまえの父親は小賢しい宰相に操られていただけの傀儡かと思っていたのだが、そうではなかったようだな。ロスモールは俺という男の本質を見抜いて、俺におまえのことを託しに来た。わざとあやしい素振りを見せて、俺におまえの価値を認めさせるために高く売り込んだのだ」
クルッと後ろを振り向くとフォーサスは、ソフィアのそばにつかつかと歩み寄ってきた。ソフィア自身は、フォーサスの言葉の意味がよく理解できずに頭の中が混乱していた。
「この俺があの老獪な策士家にしてやられたというわけだ。だが、俺にとっても得難い策士家とおまえを手中にできた」
フォーサスがソフィアを抱きしめた。時間の経過と共に、ソフィアの身体が強ばり、顔が引き攣ってきた。
「改めて言う。俺の女になれ。俺はチャイニェン大陸を必ず一つにまとめて見せる」
「いやです!」
ソフィアは夢中で男の腕を振り解いた。フォーサスの意図するところがやっと理解できた。ソフィアはロスモールに騙されたのだ。ロスモールが自分を育ててきたのは、ソフィアを巡り醜い争いが起こった時に、自分を高く評価する主人を求めるためだったのだ。ロスモールの求めた主人がフォーサスで、ソフィアはただ、覇権を大義名分化するために跡継ぎの男子を産む役割を押しつけられたのだ。
「わたくしはもういやなのです。これ以上、覇権を巡る醜い争いにわたくしを巻きこまないで下さい」
一歩、ニ歩とソフィアは少しずつ後ずさった。脳裏に思いだしたばかりの血にまみれたあの日の惨劇が浮かんでくる。わずか三歳だったソフィアなのに、血にまみれた両親の姿と闇夜に浮かび上がった蛇の舌のような炎、その炎に飲みつくされた館の姿をはっきりと思いだすことができた。目の前が赤く染まる。それはもう二度と見たくない光景だった。
「お父様もお母様も皇帝や皇妃の地位など、一つも望んでいませんでした。市井の中で、ささやかな幸福を味わう暮らしを望んでいました」
ソフィアはフォーサスから少しずつ遠ざかって行った。長椅子の前にあるテーブル上に、いつもチェシャが使っている短剣が無造作に投げ出されてある。先程届けられた書簡の封を切るためにチェシャが使ったものだ。
「人が生きるためには自分の分をわきまえることが必要だと、お父様はよく仰っておりました。わたくしもそう思います。わたくしの望みは、これ以上わたくしが争いに巻きこまれたくないということです」
サッと手を伸ばして、ソフィアは短剣を手にはしたものの、バシンという音と共に男の力強い手で短剣はアッサリと弾き飛ばされた。払い除ける時に怪我でもしたらしく、フォーサスの手から、血が床に滴り落ちた。何事もなかったような顔で、フォーサスは血の出ている手の平の傷口をペロッと舐めた。
「殿下、またそのような子供みたいな真似を」
ドアが開いて男と入ってきたチェシャは、フォーサスが手の平の傷を舐めているのを見て顔をしかめた。フォーサスの腕を掴むと、傷の具合を見て素早く手当を始めた。その間、ソフィアはぼんやりとした目で、フォーサスの顔をながめていた。
「姫様」
チェシャと一緒に入ってきた男は、ロスモールだった。ハッと我に返ったソフィアは、ロスモールから逃げるように窓辺に駆け寄った。もう、誰も信じることなどできない。
「このバカ!」
窓を開けて飛び降りようとしたソフィアの身体は、フォーサスの逞しい腕に抱えられて、室内へと戻された。フォーサスの手の平に巻かれた包帯の白さが、ソフィアの目についた。
「姫様が私めを恨まれるのは一向に構いませんが、どうかお命だけは大切になさって下さい。お館様との約束なのです。『ソフィアは何があっても生き延びさせるように』と、それがお館様の最後のお言葉でした」
ロスモールが、フォーサスの腕に抱えられた格好のソフィアの前に跪いた。ロスモールから顔を背けながらも、ソフィアは不意に浮かんだ疑問を一つだけ口にした。
「ロスモール、お父様はなぜ、私にだけ生きろと仰られたのですか?」
「お館様は姫様が女である以上は、生き延びても殺されることはないと予想しておられました。むしろ、女に生まれたことを喜んでおられました。覇権を望む国はどこの国でも姫様の血筋を尊びます。姫様の皇子を欲しがります。神聖ルアニス帝国は滅びましたが、血筋は脈々と生き続けることになるのです」
フォーサスが、クククとノドの奥で押し殺すような笑い声を上げた。笑い声は次第に高まって、苦しそうにお腹を押さえ出した。
「こりゃ、いい。確かにそうだ。国は滅んでも、血筋は残るか、おまえの父親は本当に先を見通す力を持った男だったのだな………生きている内に話をしたかったものだ」
遠くを見るような目をして、フォーサスは最後に一言付け加えた。「殿下」チェシャが小声でたしなめた。アァと短く声を上げて、「済まない」と即座に謝った。
「俺の親父がやったことだったな」
気まずそうな顔でフォーサスは呟いた。ソフィアは顔を上げて、彼の顔をジッと見つめた。「何だ?」と言いたそうにフォーサスも彼女を見返した。開け放たれた窓から、侵入してきた風がサァッと二人の間を擦り抜けた。風に舞い上がった髪を押さえて、ソフィアは俯いた。彼女は今迷子の子供になったようだ。どこに行けばよいのかわからずに途方に暮れている。
「わたくしには、これからどうすればよいのかわかりません」
ようやく聞き取れるくらいのごく小さな声で、ソフィアはボソッと呟いた。フッとフォーサスが息を洩らした。
「わかるまでここにいればいい。争いに巻きこまれたくないと言っても、おまえの存在はどこにいても争いの火種になる。おまえが市井で暮らしたいと望んでも、無用な争いの元を世の中にまき散らすだけだ」
そこでフォーサスは苦々しそうな顔になり、愁いを含んだ溜息を吐き出した。
「俺のところには煩わしい兄たちがいて、おまえのことを知れば、少々うるさがられるだろうが、親父だけはおまえが俺の女になったことを喜ぶだろう。あの男は自分の国が覇権を取れさえすればいいと考えているのだ」
フォーサスは付け足した言葉を吐き捨てた。「殿下」チェシャのハスキーボイスが更に低く、くぐもっていた。フォーサスはソフィアの身体を離すと、チェシャに微かな笑みを浮かべて、足早に部屋を出て行った。
「姫様」
ロスモールが恐る恐るソフィアに声をかけた。彼女もスックと立ち上がり、
「しばらく、一人になりたいのです………大丈夫です。もう馬鹿な真似はしませんから」
と言うと、自分に与えられている部屋に閉じ篭った。ソフィアは自分が望むと望まざるとにかかわらず、世の中という仕組みの歯車の中に強引に押込められたのだと痛感していた。逃げることはもうできない。窓の外に目を向けると、蒼穹の中を小さな鳥たちが群れをなして自由を求めてはばたく姿が目に映る。その姿が羨ましいと思いながらも諦めに似た溜息が漏れた。