彼女の日常と襲撃と
最初、ソフィアはチャシャや数少ない警護の近衛騎士たちにフォーサスの愛妾扱いされていたが、フォーサスが侍女として扱えと命令したらしく、ここに来た当初の目的通りに侍女の立場に戻った。ソフィア自身も愛妾などという不名誉な立場でいるよりも、侍女でいることを望んだ。髪は染粉で黒く染め、瞳は彼女の得意の変化の術で鳶色に変える。髪と瞳を両方変化させるよりも、その術が解けた時の危険を考えると髪だけでも染粉を使うようにとチェシャから言われたからだ。
人質にされたままのロスモールのこともあり、フォーサスが夜毎ソフィアの許を訪れることを拒否できなかったが、昼間は侍女として扱き使われ、チェシャと共に館の中の掃除や洗濯、食事の世話といったフォーサスの身の回りの世話をした。フォーサスは当然のようにソフィアを侍女として扱い、ソフィアが眉をひそめたくなるほど、怠惰で自堕落な生活を送っている。
領主の館で過ごす日が、一ヵ月、二ヵ月と増えていく中で、ソフィアが不思議でたまらなかったのは、フォーサスとチェシャの関係だった。ソフィアは最初、チェシャもフォーサスの愛妾の一人であると信じて疑わなかった。女の自分から見てもチェシャは、妖艶な金髪美人で冬空に瞬く星と同じような蒼い瞳に見つめられるだけで、わけもなく胸がときめいた。何事もそつなくこなして、かといってそれをひけらかすわけでなく、終始フォーサスのサポートに徹している。フォーサスが女好きだという噂からすれば、チェシャも愛妾であると考える方が当然の見方だった。
侍女という仕事がら、ソフィアは終始チェシャと行動を共にすることが多くなり、女同志の気安さからフォーサスのいない時などは、お茶を飲みながらお喋りがはずんだ。思いきって尋ねてみると、チェシャは二人は単なる主従の関係だと、さばけた口調で答えた。
言われてみれば、フォーサスは皇都からの急な呼出しとかない限り、毎晩のようにソフィアの許を訪れては、一夜を共に過ごしていく。チェシャが愛妾の一人であるならば、当然チェシャの許へ赴く夜があってもいいはずだった。毎晩訪れるとはいえ、フォーサスは必ずしもソフィアを抱くわけではなく、時には皇都で流行っているくだらない噂話を話したり、約束通りにソフィアに剣の稽古をつけたりもした。ソフィアに対するフォーサスの態度が、暇潰しの気紛れでしかないことはよくわかっている。人質となっているロスモールには会うことは許されなかったが、人質として大切に扱われているらしかった。それが気掛かりだったソフィアは、チェシャから教えられてホッと安堵したものだ。
チェシャがフォーサスの愛妾ではないにしても、二人が気難しげに話している時などは、間に割って入れない何かを感じる。そういう時、ソフィアはフォーサスが自分を愛妾代わりにしているのは、自分の血筋をいずれ必要とするためだと思い知らされる。そうでなければ、チェシャのような麗人がそばにいるというのに、フォーサスが自分のような子供を相手にするはずはないのだ。と、そこまで考えて、ソフィアはハタッと気が付いた。
「あんな男のことを気にしているなんて」
汚らわしそうに呟いてから、物憂げに溜息を吐き出した。床を磨くモップを持った手を止めて壁に寄り掛かると、自分の胸に両手を重ねた。胸に下げたロケットを目を閉じてギュッと握りしめた。ロケットの中には、若くして亡くなった両親の肖像画が入っているのだ。
フォーサスの寝首をかくために自分はここにいるのだと、ソフィアは決意を新たにした。敵を討つことができないまでも、嫡子を殺して一矢を報いることのみが、自分に課せられた生き方なのだ。あの男は自分をおもちゃにして楽しんでいるだけなのだ。許さない、許せるものか、人間の屑のような生き方をしている男など、生きている価値はないのだと、ソフィアは何度も自分に言い聞かせた。
フォーサスは剣の稽古に、模擬剣でなく真剣を使った。女のソフィアには小剣がいいと、わざわざ腕のいい剣師に命じて、ソフィアのための小剣を造らせた。
「これで、いつでも俺を殺せるな」
ソフィアに小剣を渡す時に、フォーサスは翡翠の瞳をキラキラと子供みたいに輝かせた。小剣はソフィアの手にしっくりと馴染むように造られていた。
ソフィアは時として、フォーサスの真意が掴めずにいる自分を歯痒く思うのだ。神聖ルアニス帝国がなくなってから、怯えるように人の顔色を伺って生きてきた自分なのに、フォーサスとチェシャが何を考えているのか未だに理解できないでいる。そういう時には、まだまだ、自分は人を見る目が足りないのだと諦めに似た気持ちになる。
「そろそろ、俺の寝首をかく気になったか?」
フォーサスの腕に抱かれた後、ソフィアはベッドの下に隠した小剣をいつ引き出そうかと隙を伺っていた。自分の心を見透かされたような男のドキッとする発言に、ソフィアは夢中でベッドの上に起き上がった。胸元まで毛布を引き寄せて、横に臥す男を怯えたように見つめた。
「チェシャなら、笑って人を殺す」
フォーサスはベッドの上に起き上がると、欠伸しながら事もなげに言った。その一言にソフィアは胸を抉り取られるような痛みを感じた。彼はガウンを羽織り、ソフィアをチラッと一瞥した。
「殺気を消せるようでなければ、暗殺者としては失格だ」
男の手がベッドの下に伸びた。隠してあったソフィアの小剣を手にすると、シュッという音と共に剣を鞘から抜き放った。ファーサスの視線の先に白銀の輝きがきらりと光る。
「伏せてろ!」
彼が低い声で怒鳴った。「えっ?」と聞き返す間もなく、辺りにボンという衝撃音が響いた。何かが焦げるような匂と共に、もうもうとした白煙が室内に立ちこめた。誰かが茫然としているソフィアの身体を抱きかかえ、ベッドの下へと押し込むように転がした。カチャンという剣の重なり合う音と、怒声が響き渡る。生臭い匂が鼻をついた。血の匂だとわかったのは、トロリとした液体がむき出しの床板を這うようにして、ベッドの下まで流れてきたからだ。
目の前が赤く染まる。ソフィアは身体の奥底からわき上がるゾクゾクッとした寒気に、全身が支配された。その瞬間、身動ぎ一つできなくなった。ガクガクッと身体が小刻みに震えた。普段は思い出しもしない記憶の奥底にある何かが、ソフィアに狂おしいほどの恐怖を与える。目をギュッと瞑り、両手を胸の前で組むと、縮こまるようにかがんで、必死になって何かを祈りだした。
「おい、大丈夫か?」
どのくらい経ったのか?フォーサスが床を這うようにして、ソフィアを外へ引き摺り出した。室内は争ったあとで乱雑になっていた。カーテンは切り裂かれ、ベッドの前の部分はへし折れて、原型を留めていなかった。ソフィアが死ななかったことが不思議なくらいだ。既に片付けたあとなのか、死体こそ転がってなかったものの、壁には血しぶきが散り、床は血の海と化していた。「あぁっ」と短い声を上げて、ソフィアはその場に崩れるように倒れた。
それから一週間近く、ソフィアは熱にうなされた。うわ言で両親を呼び、小さな子供のように泣き喚いた。その姿はまるで自分を責め苛んでいるようでもあった。
手にした書簡をフォーサスは、腹立たしげにグシャッと握り潰した。異母兄のカーディスから内密に届けられた書簡である。内容は彼の母ともう一人の異母兄ラシェイルが放った間者についての密告だった。
カーディスは一地方領主という自分の地位に満足しているので、権力を巡る醜い争いには参加しない旨も記してきた。今後とも己の母親とラシェイルの不穏な動きについては、自分の知り得る限り逐一報告するので、できればフォーサスの陣営に入れてほしいとまで書いてあった。まるでこれでは米搗きバッタのような態度である。今までの種々の事情を考えると、フォーサスが不快感を露にするのも当たり前だった。
「それでどうなさいますか?」
澄ました顔でチェシャが問い掛けた。「答えは決まっている」と、怒りをなるべく押さえた低い声で言うと、フォーサスはジロリとチェシャをにらんだ。
「この書簡だけでは、カーディス様の真意は掴めませんが、今までの私の調べでは、特に権力を欲しているのは彼の母君と元公爵家でもある親族たちです。一応、ここはカーディス様と手を組んでみるのも一興でしょう」
チェシャはにべもなく言い放つと、フォーサスには目もくれずに、部屋を後にした。
「チェシャ!俺は許さんからな!」
フォーサスが怒鳴りながら、追いかけてきた。チェシャにはフォーサスの心の内が痛いほど理解できたが、自分の母親に逆らってまで手を組みたいというカーディスを無下に突き放すのも躊躇われた。単純に権力を望むラシェイルより、自分の母親を売ってまで媚びへつらうような態度を見せるカーディスの方に、底知れないものを感じるからだ。彼の手に乗ったように見せるのも策の一つになる。それが鬼が出るか蛇が出るかまでわからないのが不安の材料でもある。
「せっかく知らせてきたものまで、無下にすることはありません。とりあえずは、警備の者の綱紀粛正に励みます。そのことに何か不服でもあるのですか?」
ウグッと言葉に詰ったフォーサスに、澄ました顔のまま一礼をすると、チェシャはスタスタと歩を速めた。出鼻を挫かれた格好になって立ち止まったフォーサスは、ギュッと拳を握りしめた。カーディスに対するフォーサスの些細な感情論よりも、新たに生じた問題の解決が先だというチェシャの言葉には、反論できなかったのだ。
「勝手にしろ!」
去っていくチェシャの後ろ姿に怒鳴りつけると、フォーサスは面白くないと言った顔で自室へと引き上げた。




