皇太后の死の余波
「オーホホホホホホ!」
勝ち誇ったような女の高笑いが部屋中に響き渡った。カーディスは眉を寄せて、哄笑する母親を冷ややかに見下した。
「これでもう何も恐れるものなどないのですよ、カーディス。あの邪魔な皇太后が亡くなった今、あの女の息子など、赤子の手を捻るようなものです」
狂ったような高笑いが静まると、今度はクククと喉を鳴らした。まるで猫が獲物をいたぶるような眼をしている。
「どうして殺して上げようかしら?母親と同じに毒殺がいいかしらね?」
褐色の瞳をキラキラと輝かせて、全身を喜悦感で震わせているジェリスは、息子が自分をおぞましそうな嫌悪の目で、見つめていることすら気が付かないようだった。
「そう、そう、賓妃の息子ももう、いらないわね。そうだわ、この際だから、まとめて片付けましょうね。そなたを息子と信じているあの愚かな男にも、そろそろいなくなってもらいましょう」
「母上!」
カーディスが憎々しげに母親をにらみつけた。「アラッ」と言い、意外な顔をして、ジェリスは息子を見返した。
「カーディス、何を怒っているのですか?そなたは汚らわしい簒奪者の血を引かずに済んだのですよ。喜ばしいことではありませんか。あの男は愚かしい男でした。あの女ばかりを大切にして、この私をないがしろにしたのですからね。あの男の血筋など、絶えて当然の報いです」
事もなげに言ってのける母親に、少なからずカーディスは衝撃を受けていた。自分が皇帝である父親の子供でないことは、薄々感づていたことなのだが、あからさまに実の母親の口から言葉としてつむぎだされると、根底を揺るがされるような気がして、ほんの一瞬、吐き気と眩暈さえおぼえた。すっと血の気がなくなり、蒼ざめた顔で母親を一瞥したあと、背を向けて部屋から出て行った。後ろから、ジェリスがカーディスの名を呼ぶ声が聞こえたが、彼の耳にはもはや何も入らなかった。
ここ数日、カーディスは闇の中を彷徨い歩いているような気分だった。皇太后の死は、気弱になっていた皇帝を更に打ちのめした。危篤状態が続き、周囲が慌ただしい動きを見せる中、カーディス一人が冷めていた。
「チェシャ!わたくしにこの子を育てろと言うのですか?」
風に乗って、ソフィアの怒りの声が聞こえてきた。気が付くと、カーディスは皇太子宮のそばにいた。
「母親からこんな小さい子を引き離すなど、鬼にも、悪魔にも、等しい行為です」
風に乗ってくるには、熱り立っているソフィアの声だけで、チェシャの声は一言も聞こえなかった。
「では、母親も一緒にここへ引き取ればいいではありませんか?マティーラ国の内乱で危険なのはこの子だけではないはずです」
ああ、そうかとようやくカーディスは思い当った。二人が口論している原因は、内乱の起きたマティーラ国から、同盟を組む条件に人質として差し出された五歳の姫君のことなのだ。今頃は、フォーサスの信頼の厚い傭兵隊長のシバが精鋭部隊の兵士たちを引き連れて、マティーラ国王軍に参戦しているはずだ。
当初は十八歳の妹君を愛妾にと言ってきたのだが、フォーサスは五歳の姫君の方を人質として選んだ。幼い方が寝首をかかれる心配もないということだろう。わざわざ自分の側近のトシェインを代役を立てて、マティーラ国からのお輿入れという形を取り、戦と皇帝の病気で沈みがちな人心を盛り立てるために、祭りまで開いたのだ。カーディスがにらんだ通りに、フォーサスは食えない男だった。
「確かにそうですが、小さい子を………ええ………わかりました………チェシャはいつもそうなのですね。キャラのことも………あの日、何が起きたか知っております。信じてましたのに………何も聞きたくありません!出て行って下さい!………わかっています!この子は私が育てればよろしいのでしょう!」
風に乗ってきたソフィアの怒りの声の中に、哀しみが含まれていた。フッとカーディスは笑みを浮かべた。意外な盲点を見つけたのである。皇帝が亡くなるのも時間の問題で、そのあとに起こる争いは、フォーサスの勝利で終わらせるつもりでいる。いずれ、フォーサスにはチャイニェン大陸の覇権をとらせよう。そのための協力は、一切惜しまないつもりだ。覇権を握ったあとは、ゆっくりとフォーサスを追い落として、皇帝の証となるソフィアをこの手に抱くつもりでいた。それには小賢しい策士家でもある側近のチェシャが邪魔となる。今はいい。今はフォーサスに一時の甘美な夢を見させよう。込み上げてくる笑いを押し殺すように、カーディスは楽しげに喉を鳴らした。
(フォーサスが心地好い夢にドップリと浸りきったところで、無残な目覚めを引き起こしてやる。しかも、信頼していたチェシャの裏切という行為によってだ)
彷徨い歩いていた闇の中で、何かがうごめき始めていた。闇の中に一条の光がサァァァァと差しこんできた気がして、カーディスはニヤリとほくそ笑んだ。
「殿下、ここにおいででしたか?」
「チェシャか」
フォーサスは横たわっていた長椅子の上から、大義そうに立ち上がった。チェシャは政務室のカーテンをシャッと勢いよく開いた。室内の隅々にまで光の恵がみちあふれ、フォーサスの手がサッと顔を覆った。皇帝の容体悪化で皇太子宮に戻っていないフォーサスは、あまり眠れないのか、生気に欠ける顔色をしていた。皇太后の予定よりも早すぎる死が、フォーサスの精神面に多大な打撃を与えたことは否めない事実である。ソフィアが些細な出来事で、妙に苛立っているのも気になっている。チェシャは事実を冷静に受け止めた。皇太后の死の間際に、何かが起きたのだ。探ろうにも、ソフィアはチェシャの一言一言にカリカリと突っ掛かってくる。
昨日も、皇太后任せにしていたマティーラ国の幼い姫の世話を願い出たのだが、キャラのことまで持ちだしてチェシャを責めたててきた。「誤解です」と言っても、聞く耳など持たぬという勢いで、ほうほうの体で場を辞してきたのである。
「少し、皇太子宮に戻られて、お休みになられたらいかがです?」
「いや、いい、あいつに会いたくないのだ。ばあさんが死んだ日、あいつがそばにいた。俺は本能的にあいつを恐れているらしい。チェシャ、おまえはバカなことを言うと笑うだろうな。この俺が小娘に過ぎないあいつに怯えているなど………」
「殿下」
「いつか、俺はあいつに殺されるのだろうな。ばあさんの夢見は、これまでに一度も違えたことがない。俺もおまえも必死にあがらおうとしたが、ばあさんの夢は一つ一つ現実となっていく。俺はもう疲れた」
どっかとまた倒れるように長椅子に腰掛けて、フォーサスは両手で顔を覆った。チェシャはフォーサスの足元に支えるように跪いた。
「殿下、気が付きませんか?皇太后様の先見に何か狂いが生じているのです。まだ、はっきりしたことは申せませんが、皇太后様の死は先見よりも早すぎました。やはり、先見は変えることができるのです」
フォーサスがハッとして顔を上げた。何か思い当ることがあったらしく、両手を組んだ上に顎を乗せ、何か考えこむように目を閉じた。
「そういえば、あいつ、この俺を愛してるとか、今気が付いてよかったとか言ってたな。子供の戯言だと思ってまともに取り合わなかったが………」
クスクスとチェシャが笑いだした。
「殿下、初耳です。そう言うことはもっと早く仰って下さい。それこそ、皇太后様の先見に狂いが生じた証拠ではありませんか」
カァッとフォーサスの顔が赤くなった。チェシャがお腹を抱えて苦しそうに笑い転げた。
「チェシャ!」
「ソフィア様と殿下はお似合いですよ。どうやら、良い方向に向いてきたようですね。このままうまくいけば、悲惨な最後を迎えずに済みますね」
「馬鹿なことを言うな!」
「殿下、素直じゃありませんね。思ったよりもソフィア様は賢い方です。たぶん、ロスモール殿が言っていたように、リルサル殿からお父上が残された先見を聞いたのでしょう。おそらく、ソフィア様も無用な血を流したくないのです」
「俺はあいつのことなど何とも思ってない。あんな子供など………」
「殿下、では、なぜ、ソフィア様以外の愛妾を持とうとしないのですか?」
フォーサスはフンと鼻を鳴らした。面白くなさそうな顔で、チェシャから顔を背けた。
「チェシャ、おまえの方こそ………」
「殿下、よろしいではありませんか。お二人が幸せになることが私の望みです」
「辛くないのか?」
「いいえ、殿下、私は自分の分をわきまえております。皇太后様とソフィア様のお父上の先見は、違えさせなければならないのです。殿下とソフィア様が覇権を争う日がくることがないようにと願っております。しかもその原因が私の死であってはならないのです!」
「チェシャ!俺はおまえに苦労ばかりかけるな………チェシャ、頼みがある。もしも、この先に、あいつが一人になる日がきたときには、おまえがそばにいてやってくれ」
「殿下、何を言いだすのですか?」
「いや、先見が変わったからには、ばあさんは何か残しているはずだ。あいつがそれを俺たちに言わないのは、何かあるのだろう。チェシャ、俺に遠慮はするなよ」
「わかりました。ですが、殿下、新しい先見がどんなであろうと、必ず、また変えて見せます。皇太后様のように見つめているだけでは終わらせたくありません!」
「チェシャは強いな。俺は子供の頃から、おまえの後を夢中で追いかけてきた気がする。俺とおまえは二人で一人なんだ。絶対に無理はするなよ。おまえのいない日など考えたくもない!」
「殿下、何を弱気になっているのですか?いい加減にして下さいよ」
チェシャは遠慮なくバコンという音を響かせて、フォーサスの頭を叩いた。「バカ、何をするんだ」と言いながら、フォーサスが殴り返した。ドタバタと子供の頃みたいに気が済むまで殴り合うと、二人は互いに肩を組んで大声で笑いだした。
「殿下、兄さん、何をしてるんですか、子供みたいに!」
書類を抱えて執務室に入ってきたトシェインが、あざを作って笑っている二人を見て、呆れたように怒鳴った。二人は同時にトシェインを抱えこんだ。トシェインの持っていた書類の束がバサァァァッと室内に散らばった。
「トシェインはいつも堅いことばかり言う」
「トシェイン、少しは丸くなることも必要ですよ」
二人から小突かれて、トシェインは割の合わない思いで一杯になった。二人はアハハハと笑いながら、トシェインが散らばした書類を拾い集めると、急に真顔に戻ってトシェインの持ってきた書類を見ながら、改革すべき内政面の話を始めた。
(ついていけないや)
ため息混じりに深々と息を吐きだして、トシェインは部屋を飛びだした。割り切れない思いが胸にフツフツと渦巻いてきて、頭を冷やす必要があったのだ。未だにフォーサスと兄であるチェシャの関係が掴めずにいるトシェインは、一人だけ除け者にされた気分で面白くないのである。




